ビン牛乳の時代は終わり…
音水薫
第1話
生まれて初めて家出したのは一九六七年、小学一年生の夏だった。
親戚が営む海の家までの道のりは、山のふもとにある自宅からだと二〇キロメートルはあった。配達されてきた瓶牛乳を朝食代わりに飲んで、友達の家に遊びに行くふりして朝九時に家を出る。住宅街を抜ければ、海までは道路に沿って一本道だったから、迷子になることはなかった。小さな歩幅なうえに休憩を多く挟んだせいもあって、海についたときにはすでに日が沈みかけていた。
私の故郷である愛媛県は北側に海があるため、西に沈む太陽が海に浸かっていくところを見ることは出来なかったが、沈んでいく先の陸にはなにがあるのだろうという期待に、私の幼い胸は膨らんでいた。父に連れられて海に来たことは何度もあるはずだというのに、茜色のそれを見るのは初めてだった。
生まれたときから潮のにおいに包まれて育ってきた私だが、海の大きさを初めて自覚したのは五歳のときだった。毎年見ていた風景にようやく圧倒された当時の私はただ立ちつくしていた。
波打ち際にある発泡スチロールやナイロンを中心としたゴミや海藻をなるべく視界にいれないようにして夕日を眺めていた私も同じように動けずにいたようで、すぐさま親戚に見つかって家に連れ戻された。
当初の予定では一泊させてもらうつもりだったのに、親戚の車に乗ると二〇分も経たないうちに家が見え、自分の小ささに少なからず失望した。玄関には家出の元凶である親父が仁王立ちで待っており、私は下車するや否や頭を殴られ、物置に放りこまれた。
それから七年が経った中学二年の春、わたしの背丈は親父に並ぶ一七〇センチになり、少林寺拳法を学んでいたこともあって腕の太さも父に劣ることはなかった。拳骨を喰らって泣いていたころとは違い、親父と喧嘩しても負けないだけの自信が自分に備わっていた。
しかし、親父と殴り合いになることはない。七年という時間は屈強だった親父をただのアルコール中毒者に変えるには充分だったようで、その醜態、日焼けもしていないのに土気色した肌や黄色に濁った白目などの外見的なものや、相手を選ばず気分が向くままに暴力をはたらく自己中心的な内面など、を見たくない私はできるだけ親父から距離をとった。こちらが避けたところで、失職して一日中家にいる親父は鬱憤晴らしに暴力を振るおうと私に近づいてくる。外で遊ぶなりして家にいる時間を少なくすればいいだろうという人もいるかもしれないが、小学生の妹は私より早く帰宅するため、私がいない間にストレスのはけ口にされる可能性が高かった。それを恐れた私は早々に帰宅し、おとなしく殴られることで母や妹に被害がいかないようにしていた。
その我慢も長く続くわけもなく、かねてより計画していたことを実行に移した。それは家出である。七年前よりも遠くに、連れ戻されることのないところを目指すことにした。そのために貯金していたお年玉やお小遣い、十万円にも満たない額を衣類とともにリュックに詰め、部活に行くふりをして朝九時に家を出た。
夜、親父が暴れる音が怖くて泣いていた妹は、私が手を繋いでやることで安心して眠っていた。守ってやらねばと思っていたはずの妹なのに、それを犠牲にしてまで自分の幸せをつかみに家を出るのだから、二度とここに戻ることは出来ない。部屋にいる妹に向かって小声で謝り、歩いて港を目指した。
港は海の家よりも遠い位置にあったというのに、昼過ぎにはたどり着いてしまった。七歳の自分の非力さを笑いながら船の乗車券を買い、西の地、九州を目指す。
オレンジフェリーという名の船は別府に向かって進んでいく。甲板に出て海を眺めてみても、鳴門海峡で見たような渦潮を目にすることはできず、くらげかナイロン袋か判別しづらいものがいくつも流れていくだけだった。私は視線を上にあげ、広島県なのか愛媛に属する小島なのかもわからない、海の向こうにある陸を眺め、港に目を向けることはしなかった。
山の上にあった学校からは町と海が一望でき、授業中はよくそちらを眺めていたので、行ったことはなくても親しみがあった。その光景を見ることができなくなるのは少し惜しく、目に焼き付けようとしていた。けれど、風景そのものより、それが見える学校、同じものを見ていた友人と離れることが寂しかったのかも知れない。
九州に着いてから過ごした一年間は、各地を野宿しながら転々と旅してまわる日々だった。日給八〇〇〇円の日雇いバイトで食いつないだり、バイト先の事務所に来たヤクザにカルピスの詰め合わせを渡してお引き取り願ったり、不眠症に陥ったりと、奇想天外とは程遠い出来事ばかり思い出に残っている。
いまの時代と違い、関西弁がテレビを通して全国に普及していなかったせいもあって、そのことばを使っていると粗暴なものを見るような目で見られ、悪印象を与えてしまうことには困った。方言というものは指摘されない限り自覚することは難しく、私が標準語を違和感なく使えるようになったのは二十歳を過ぎてからだったように思う。
日雇いバイトはおもに土方が多かったが、初めてのころは土が入った一輪車を満足に転がすこともできず、先輩に笑われていた。その笑いは嘲笑などではなく、とても温かなものだった。自分の居場所を見つけたような気になり、懸命に働いていたが、それを書くには指定された原稿用紙の枚数では足りない。物語を完結させるためには帰郷してからのことまで書かねばならないということもあって、一年の時間を割愛し、次の章は帰郷する前日から話を始めさせていただく。
飛ぶ鳥を見た。
パチンコ、今でいうところのスリングショットだろうか、があれば撃ち落として晩御飯にできるのに、と思いながら河川敷の橋の下に腰を落ち着ける。小学一年の家出の原因もパチンコにあったことを思い出した。
自称パチンコの名手であるところの親父は、頭に牛乳瓶を乗せた私を庭に立たせた。親父はそれを撃ち落とすという。酒に酔って足元すらおぼつかない親父に狙われて動けずにいた私はただ泣きながら立っていることしかできなかった。涙ににじむ瞳で捉えた親父の顔は逆光で表情は見えない。
限界まで引き絞られたゴムから発射された小石は瓶を砕き、私を怪我させることはなかったけれど、この家にいたらいずれ殺されてしまうのでは、と大げさに考えた幼少の私は家出を決意したのだった。
リュックを枕にして石だらけの地面に寝転んでいると、一人で散歩している老人に声をかけられた。近所に暮らしているらしい老人は、「そんなところで寝てたら風邪ひくぞ」と言って私を立たせ、一宿一飯の恩を与えた。見知らぬ幼い浮浪者にわざわざ声をかけるなど、今の時代では考えられない助け合いの精神、もの好きさではあるが、一人暮らしの長い老人は騙されてもいいから話し相手がほしいと思っていたようだ。
白米に味噌汁、焼き魚。豪華とは言い難い食事ではあったが、人と食事をするのはひさしぶりだった。それは老人も同じようで、最初はぎこちない会話をしていたが、じきにうちとけることができた。
自ら申し出て二人分の夕食に使った食器を洗っていると、居間にいた老人に促され、いまだ白黒映像のテレビを見た。一九七三年にはカラーテレビの普及率が白黒テレビを上回ったとはいえ、田舎の老人が最新式に乗り換えているはずもない。我が家もカラーテレビに変えたのは七〇年代末だったのだから。そこには「この人探してます」という番組が報道されており、私が中学校に入学したときの写真が写っていた。「待ってるんだから、帰ってやり」と老人はちゃぶ台に頬杖をついたまま、こちらを見ずに言った。
警察に同伴されて家に帰ると、親父は酩酊状態で話にならず、母は酒を買いに行っており、妹だけが出迎えてきた。二四時間営業のコンビニもない時代に酒屋が夜中に開いているはずもなく、酒を入手できない母は殴られないようにするため、親父が眠るまで帰ってこないということは日常茶飯事だった。
積もる話はあったが、小学生の妹は眠そうだったので、話もそこそこにして布団を敷いた。以前と変わらず、同じ部屋で枕を並べている妹が布団に入る前に、最近変わったことはないか訊ねてみた。
「学校給食の牛乳が瓶から三角パックに変わった」
そう言った妹はランドセルからノートを取り出し、何かを書きはじめる。その間も妹は話し続けた。紙に変わったことで軽くなり、低学年の子でも自分の教室に運べるようになったとか、ストローで飲むからこぼすことがなくなったとか。妹としては自分の友人の話をしてもわからないだろうからという配慮で、共有できそうな話題を選んだのだろうけれど、私が知りたいことはそういう話ではなかったので、質問しなおした。
「家ではなにか変った?」
避けたいはずの話をしてしまったせいで、ふてくされた妹はノートをそのままにして布団にもぐってしまった。ノートを見ると、平面でも立体感の出る書きかたで三角錐が描かれており、こんな書き方ができるようになったのかと感慨深かった。
妹はなにも変わっていないと言ったが、私にとってはさびしい変化が確かにあった。私はかつて、クラスから一人ずつ選出される、低学年の教室に人数分の牛乳瓶を運ぶ係だった。妹の教室に運ぶと、妹は自分の席から「お兄ちゃん」と言いながら私に手を振り、私もそれに応えていた。そういう兄妹の姿が今の教室では見ることができなくなったと思うと、どこか残念である。
手をつないで寝ていた妹は今、頭まで布団をかぶり、うずくまって寝ていた。息苦しいのだろうが、妹は一人で寝る術を身につけ、もう私を必要とはしていなかった。親父の怒鳴り声が聞こえ、驚いた私は布団に入り、親父に殴られるかもしれないという状況にいる自分に安心し、ひさしぶりに深い眠りに落ちた。
ビン牛乳の時代は終わり… 音水薫 @k-otomiju
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