逆遍路
音水薫
第1話
逆遍路
藤本武
母はいなかった。母の命と引き換えに生まれたのが僕だという。
父はいなくなった。仕事に向かう途中、どこかの子供をかばって事故に遭い、亡くなった。当時五歳だった僕は、父までもが僕を置いていったのだと、憤りさえ感じていた。しかし、十余年も経てば、お角違いも甚だしいその感情も、父の冥福を願う前向きなものに変化している。
四月から大学生になる僕は、良い機会だからと春休みを利用して、父の生まれ故郷である四国のお遍路をすることにした。徒歩なら二カ月程度かかるらしいのだが、二月から始めたので、もう終盤だ。入学式には間に合うだろう。
足を止めてみる。眼前に広がる遍路道は、菜の花畑で埋め尽くされていた。ちょうど良く休憩場が見つかったので、独りベンチに腰掛け、黄色い海を眺める。ただぼんやりと見惚れていると、一つ、浮いているものが目についた。こちらに向かってくるそれは、何ものにも染まらない、ただただ真っ白な出で立ちの老人であった。
まるで、独り冬の中に取り残されているようだ。
冬の老人は僕の隣へ、猫背気味な背をそのままに腰を下ろす。それからステンレスでできているらしい水筒を重たげに取り出し、水を飲む。
「あんたも飲むか?」
そう言って、コップを差し出す。どうやら僕を仲間と思ったらしい。正直なところ、ペットボトルを捨てたばかりだったのだけれど、なんとなく受け取った。
「一人か?」
老人は菜の花に目を向けたまま尋ねてきた。僕も老人を見ることなく、そうだと答える。
「俺もだ」
老人は自嘲気味に笑う。
しばらくの間、花が風に揺られてぶつかる音しか聞こえない。その音は、花同士が愛を語り合っているようでもあった。
すると、花たちに掻き消されそうな声で、老人はつぶやいた。聞こえなければそれで良いとでもいうように。どうやら、老人の身の上話らしい。
「一昨年の冬、家内を亡くしてな。身体半分ちぎられたようで、なんもする気が起こらんようになった。これじゃあいかんと思ってな、昔に家内が二人で行きたいと言っていたお遍路を独りで始めたわけだ」
一年もの間止まっていた老人の時間は、八十八ヶ所を廻り終えた時、動き出す事はできるのだろうか。家に帰った時、この老人を迎えるのは孤独だけだ。なれば、永遠に歩き続けていた方が幸せなのではないだろうか。
「もっと優しゅうしてやりゃあよかった」
目元を覆い、静かに涙を流していた。死が身近に迫っていることに気が付かず、おばあさんのことばを先送りにしていたことを悔やんでいるのだろう。あまりにも遅すぎる後悔だと、菜の花たちが嗤っているようで、美しい風景すら憎かった。風よ止めと、幾度となく願うが、最後まで叶うことはなかった。
そのうちに老人も顔を上げ、どちらからともなく席を立つ。老人と僕のゆく道は反対の方向らしく、その場で別れることになった。
「若いのに物好きだ」
涙の名残がある目で笑われた。
しばらく歩いてから振り返ってみると、老人の三歩後ろを歩く人影が見えた。その人影も振り返り、こちらに微笑みかけたかと思うと、老人の横に並び、背中をぽんと叩いて消えた。老人は不思議そうな顔をして振り返り、首をかしげる。前を向くころには、老人の背から丸みは消えていた。
逆遍路 音水薫 @k-otomiju
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