伽藍堂備忘録
@Black_Cat_Staff
壱頁目:蟲の本
夏の日差しが未だ現役で張り切り、夏休みの最終日であるので何処かに行くには時間がないが、宿題も終えてやる事のない俺は、昼下がりのこの中途半端な時間を潰すべく、伯父が経営している骨董店――《
アスファルトの照り返しで遠方の景色が歪み、一分一秒でも早くこの炎天下から逃げたい俺は、見るからに年季の入った木製の扉を勢い良く押し開いた。
来客を知らせるベルが鳴ると、奥のカウンターに座って読書をしていた伯父さんが顔を上げて、何処か抜けた柔和な笑みを浮かべる。
「いらっしゃい、悠君。丁度キミに見せたいモノが入った所なんだよ」
いつもの挨拶の後に続いた言葉に、エアコンの冷気以外の寒気を感じ、何か厭な予感がしたので、定位置に進む足を止めて、あの炎天下の中を再び家迄歩く事と、これから起こるであろう事態を天秤に掛けた。
――俺は八畳しかない店内の至る所に散在していて、商品なのか何なのか謎な品々を避け乍ら進み、定位置となった伯父さんの隣の上がり端に腰を下ろした。
俺の事を生まれた時から見てきた伯父さんには、例え今迄の事があってどうするべきか考えたとしても、こうなる事が解っていたらしく、面長で整った顔に鑑定時に使用するモノグラスを掛けて小さく笑った。
何となく悔しくなった俺は店内の商品を見る様に視線を逸らした。
「はぁ、それで、俺に見せたいモノってのは、真逆と思いますけど――《
「あははぁ~、流石にそれはないよ。八坂の姐さんのは僕には荷が勝ち過ぎる」
ほぅ、弟である俺の親父に「兄は常識のじの字すら知らん」と云わせた程の伯父さんだが、ちゃんと学習はするんだ……ってか、そう考えると、あの時ってどんだけ危なかったんだよ……。
当時を思い出して若干鬱になり掛けた俺を余所に、伯父さんはカウンターの裏の引き戸を開けて居住エリアに入ると、一冊の本を手に戻って来た。
店先ではなく、わざわざ居住エリア――非売品倉庫から持って来たって事は、多分、この人の最初にして最大の悪い癖である《曰く付きのコレクション》の一つであり、現にその外見だって一般常識や
面長で柔和な顔に、欲しかったモノが手に入り、自慢する子供の様な笑みを浮かべて隣に腰を下ろした伯父さんとは対照的に、俺の方は眉間に皺が寄り、左の瞼が痛みに閉じる。
「おっ、その顰めっ面。やはり悠君には相当クルみたいだね。僕はもう慣れっこだし、ある程度向こうの指向性をズラせるけど、悠君は直で受けちゃうからね」
「解っていたなら見せないで下さい。何なんですか? 細い鎖で十字に縛られた上に南京錠という出鱈目な包装をされたその本は」
もう直視出来ない程に痛みだした左瞼を完璧に閉じ、更に上から左手を当てて完璧に見えない様にして、右目だけで痛みの原因となってる本を睨め付けた。
「《蟲の本》さ」
「蟲の……本……? それは昆虫図鑑とかですか?」
「う~ん、その解釈は、ある意味正解である意味ハズレ」
「ふぅん……」
何が云いたいのかハッキリと解らない俺が曖昧に返事をすると、伯父さんは笑顔のまま何の躊躇いもなく南京錠を外し、本を解放した。
「なっ?! そ、それって伯父さんのコレクションの一つなんだろ?! そんな不用心に開けて大丈夫なのかよ?!!」
余りに唐突にされたので、つい素が出てしまったが、伯父さんはそんな事お構いなしに本の中身を暫く眺めて小さく頷くと、開いたままのそれを俺に見せてきた。
一瞬、右目も閉じて見なかった事にしたくなったが、伯父さんに根性無しと思われるのは厭なので、小さく閉じてしまった右目の瞼を無理矢理開き、中身を確認した。
――何の事はない、そこに広がるのは只の文字の羅列だった。
両手に取って注視するが、特に可笑しな文章構成をしてる訳でも、何処かの昆虫記みたいに、蟲の生態を事細かに描写してる訳でもなく、何処にでもある様なちょっとした恋愛要素と謎解きが含まれるミステリー風の小説だった。
さっき迄の痛みも嘘の様に退いていたし、俺は内心「これは騙されたんじゃないか?」と考えたので、それを伝えるべく口を開いた。
「伯父さん、これ《蟲の本》とか云ってたけど、何処にでもあるミステリー小説じゃないですか。何処にも蟲の事なんか書かれちゃいないですよ」
「あははぁ~、蟲は蟲でも、そこに書かれてるのは昆虫の様な実際の蟲じゃないんだ。それに悠君――」
「何でずっと左目を閉じたまま読んでいるんだい?」
俺はそれを云われて漸く、自分が左目をずっと閉じている事に気付いた。
普通、本を読む場合、只でさえ小さい文字を拾わなきゃで大変なのに、片目を瞑り乍らなんて到底考えられないにも関わらず、俺はそれが当たり前の様に――否、多分、これは自己防衛本能って奴だろう。
直感的に「これはヤバイから直視するな」って命令が来て、左目を閉じてる事を忘れさせたんだろう。
過去にも事故現場とかで何度かそういった経験があったから、これは確実だ。
そうなると、この本は――。
「相当ヤバイ、って事になりますね……」
「まぁね……だって、その本、《
「なぁっ?! あの旗師の?! 何でそれを先に云ってくれなかったんですか?!!」
それなら最初から見ませんでしたよ!――っとカウンターに本を叩き付け、伯父さんを睨み付ける時にウッカリ左目を開いてしまい、俺は視界の端に、叩き付けた本の中身を捕らえてしまった。
「あ”っ……」
………………気付くと、俺は伯父さんの家のトイレに居て、胃の中のモノを吐き出していた。
もう吐き出すモノがなくなっても止まる事のない不快感に、胃液すらも出し尽くし、最早嘔吐くしか出来なくなった所で、酸欠になりかけ乍らも不快感が治まって来たので、口をペーパーで拭い、トイレの水を流した。
妙に軽くなってしまった腹部をさすり、何度か深呼吸をしてると、背後から伯父さんの――
「いや~、参ったな~……真逆ここまで利くとは思ってもいなかったよ。こりゃ確かにあの《齋堂》が《一級品》と太鼓判を押す訳だ」
――っと反省してるのかしていないのか謎なテンションの声が聞こえたので、俺はこの怒りをぶつけるべく振り返ったが、その手にあの本を持っていたので、慌てて左目を閉じて両手を上から当てた。
「あぁ、そんなに過剰に反応しなくても、もう大丈夫だよ。今回のは甘く見てた僕の落ち度だ。怖い想いをさせてしまって、ごめんね」
この通りだ――っと余りにも素直に頭を下げてきた伯父さんに興を削がれた俺は、荒れてしまった気持ちをゆっくりと呼吸をする事で落ち着かせた。
「はぁ、はぁ……ふぅ………………んで、伯父さん、それって本当は何だったの?」
「いや、本当も何も、最初に云った通り《蟲の本》だよ」
「だから、それじゃ解らないって。そもそも、伯父さんの云ってる《蟲》って一体何なの?」
それはね――っと云い掛けた所で、来客の知らせのベルが鳴り、俺は対応に向かう直前の伯父さんに促されるまま、居住エリアで非売品倉庫となってる居間で待つ事にした。
部屋のほぼ中央にある円形の卓袱台の上に、いつの間にかペットボトルの御茶が置かれていたので、遠慮無く頂いて待っていると「ありがとうございました」の声の直ぐ後に伯父さんが現れた。
「え~と~……そうそう、僕がさっきから云ってた《蟲》だけど、これって昆虫とかの実際に存在して観察対象になってるモノじゃなくて、《癇癪》とか《虫の居所が悪い》とかに使われる、謂わば意識とかそういったモノの《蟲》だよ」
「はぁ……」
「まぁ、昔って心の中や考えとかに感情を引き起こす《蟲》がいて、それが騒ぐ事によって何かしらの情動が起こるって考えられていたんだ。そして、この本はそれら《蟲》の事が書き込まれた本」
ほら――っと伯父さんから、細い鎖で十字に縛られ、更に上から南京錠を掛けられた厳重に封をされている《蟲の本》とやらを渡された。
俺に対して、あれ程の事態を引き起こした張本人だが、こうして直接手で持ったり、両目で見ても今は何も感じない。
実際に酷い目に遭ったのだけど、どうも今一つ釈然としない俺は、小首を傾げ乍ら伯父さんに《蟲の本》を返した。
どうも僕のその態度から何かを汲み取ったらしく、伯父さんは「僕が良いと云う迄左目を開けちゃ駄目だよ?」と忠告をして、南京錠を外して本を解放した。
俺は余りの事態にどうすれば良いか解らず、先のトイレに居た時宜しく、閉じた左目の上から両手を押し当てて絶対に見れない様にした。
伯父さんは、一気に何ページか捲り、「うん、ここなら絶対に大丈夫」と一人何かを納得すると、徐にそのページを開いたまま卓袱台に置いて俺に見える様にこっち側へ寄こした。
俺はあんな経験をもう一度する位なら、根性無しと笑われても構わないと思い、右目も瞑っていたが、俺の目の前から一向に本を移動させる気配がしないので、諦めて恐る恐る右目を開けたが、余りの拍子抜けな事態にどう対処すれば良いか悩んでしまった。
開かれたページには――何も書かれていなかったのだ。
試しに片手だけで何ページか前に戻ると、文字がかかれたページが現れ、左手を外せなくなったが、開かれた白紙のページに戻ると、自然と両手で本を持つ事が出来、左目を開ける事にも何の抵抗も感じられなかった。
「こ、これは??」
「そのページには《蟲》が居ないからね」
「あ~……それって、もしかして、この本に書かれている文字が《蟲》そのものって事ですか?」
「そうなんだけど、若干違うんだよね~。う~ん……やっぱり僕には上手く説明出来ないな。こういう曰くモノの説明には久遠君が一番だね」
げっ――と声を零した俺は、成る可く中身を見ない様にし乍ら、急いで本を閉じて伯父さんに突っ返した。
「おいおい、そんな汚物を見る様な目と手付きで扱わないでくれよ」
「幾ら伯父さんの頼みでもそれは無理です。俺の人生に於いて、存在そのものがワースト5に入る奴が二人も関わってる代物なんか、これでもかなり頑張って丁寧に扱った方です」
コレクションなんだから大切に扱ってよ――っと小声で不満を漏らし乍ら《蟲の本》を受け取った伯父さんは、丁寧に鎖で縛り上げると、カチンっと南京錠を掛けて本を閉じた。
「う~ん、そんなにあの二人が嫌いかい?」
「えぇ、特にあの捻くれた大学生には、出来れば二度と関わり合いたくないですね」
それは大変だ――っと言葉とは裏腹に微妙な笑みを伯父さんは浮かべた。
「今日はこの本をその久遠君に見せるべくお店に呼んだんだ。彼は時間を必ず守るから、そろそろ――」
「御免下さい、伽藍堂さんはいらっしゃいますか?」
――間違いない。
伯父さんを屋号で呼ぶ所や、丁寧な言葉使いだが、何処か刃を思わせる鋭さを含んだこの声質は、俺が聞くのすら厭な奴だ。
俺は無言で伯父さんに視線を向けると、それだけで全てを悟ったらしく苦笑した。
「良いのかい? この部屋は僕の非売品コレクションにもなっているんだよ?」
「アレに比べたら遙かにマシ」
即答した俺に再び苦笑した伯父さんは、接客とは若干違う表情を浮かべ、カウンターへと向かった。
了
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