第51話


「眠る前にする話ではなかったな」


「……ううん。私、信じるよ……煉が話してくれたこと。煉が、今まで、どんなに苦しい思いをしてきたのか、辛い思いをしてきたのか……初めて少しは解ったから。……知ることが出来たから。だから、話してくれて……ありがとう」


 涙に濡れた笑顔で、さくらは煉を見上げた。


 本当に臆病だったのは、自分の方だったのかもしれない。俺は千歳のような二の舞には成りたくないと、さくらに対する特別な感情をひた隠し、頑なに考えを変えなかった。


 だが、さくらは俺が思っている以上に、強い心の持ち主の人間だった。血塗れの俺を助けたり、みにくい傷痕だらけの身体を、目の前で晒しても決して気味悪がったりはしなかった。


 最初から、さくらは誰よりも純粋で。誰よりもお節介で。そして、誰よりも優しかったんだ。


 胸に愛しさが込み上げ、止めどなく溢れ出す。

 

 今、自身の目の前にいるのは、かけがえのない、とても大切な人。その相手が、さくらで良かったと俺は心から思う。


「そういえば、さくらは俺に何の話があったんだ?」


「え? あ、えっと……それは……」


 煉が促すと、さくらは見上げていた視線を下げる。その横顔は、誰が見ても解るほどに紅く染まっていた。


「なんだ? 言いにくいことか?」


「あ、ううん。私もちゃんと言わなきゃ……私ね、煉が出て行ったとき、初めて色々考えたの。煉の居ない日々は、こんなにも色がなくて、つまらなかったって。それこそ、煉と出逢う前は、どんな風に過ごしてたかなんて、解らなくなってしまうほどに。煉が居る日々がいつの間にか当たり前になってて、その大切さを私は忘れてた」


 意を決して、話し始めたさくらを見つめながら、ゆっくりと紡がれる言葉に耳を傾ける。


 突然に始まった煉との奇妙な同棲生活は、さくらにとって、どんな日々だったのだろう。


 約三ヶ月程の間、共に暮らしてきたというのに、改めて、そのことをさくらに訪ねる機会は今まで無かったかもしれない。


「それは、俺も同じだ。身近にあるものほど、有り難みを忘れる」


「うん、本当にそうだよね。無くしてから後悔したって、もう遅いし。限られている命なら尚更……。だから、あの時、心から後悔したんだよ。意識が戻らない煉を見る度に、どうして、もっと早く言わなかったの? 言えなかったの? って。失ったら伝えたいことも、伝えられなくなるのにって、だから。だからね──」


 煉に後ろから抱きしめられているさくらは、振り返り、見上げる。その瞳は、まだ少し涙で潤んでいた。


 目蓋を閉じて一呼吸を置いた後、さくらはゆっくりと目蓋を開いて、胸に秘めていた煉への想いを告げた。


「私、煉のことが好き」


 さくらからの簡潔で、それでいて純粋な想いが伝わる二度目の告白に、煉は感情が抑えきれなくなり、少し強引に、それでいて優しく、唇を重ね合わせた。


 軽く触れられていた唇は、啄み、やがて徐々に深い口づけへと変わっていく。


 触れ合っていた唇から一度離れると、煉は愛しげにさくらの顔に触れる。そして、口づけの心地好さに惚けていたさくらを、お姫様のように抱き上げた。


「え? ちょっと、煉?」


「悪いが、今日はもう、我慢が出来る気がしない」


 先ほどの気だるくなる程の甘い空気は、煉のその一言によって掻き消される。さくらは言葉の意味を理解すると、赤らめていた頬を更に上気させ、無意識に目蓋をぎゅっと閉じる。


「嫌か?」


「……ううん、嫌じゃ……ないよ。でも、お姫様抱っこは恥ずかしいんだけれど……」


 さくらは目蓋を閉じたまま、首を控えめに左右に振る。


「これからもっと、恥ずかしいことをするのにか?」


「なっ! 変なこと言わないでよっ!」


 煉は意地悪な笑みを浮かべ、さくらを見下ろしていた。さくらは照れ隠しのように、足をじたばたとさせるが、煉は気にも留めずに寝室へと足を運ばせた。


 

「そういえば、今日は酒を飲んでいないんだったな」


 お姫様抱っこの状態で、ベッドに運ばれたさくらは、煉の発した言葉に反応する。


「う、うん、そうだけど、それがどうかしたの?」


「いや、ならば先ほどの、さくらが言った言葉も、これからのこともきっと、忘れられることはないと思っただけだ」


「……忘れるわけないよ」


 先の言葉を噛み締めるように、さくらは自分からそっと煉を抱き寄せた。


「そうか、ならば良かった。……さくら、愛している」


 煉はさくらに何度も優しい口づけを落とし、微笑みながら愛を告げた。


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