第42話


「れんって、あの……目付きの鋭い人のことですか?」


「そう……。出て行ってから今日で三日目。でも、私の自業自得なのよ。こんなことになるのなら、隠さないで最初から全部言えば良かった……」


 さくらは俯いたまま言葉を紡ぐ。呼吸が少し苦しく感じるのは、気道が狭まっているからだ。そう思いたかった。


 本当は一日経てば、すぐに帰ってくると思っていた。でも、そんな思いも虚しく、煉は何日待ってみても帰っては来てくれなかった。


「さくらさん……」


「ごめんなさい。こんなこと聞かされたって、八重樫くんには迷惑でしかないわね。忘れて」


「待ってください。俺も探します。その煉って人を。だから、そんな顔しないでください」


 少し無理をして顔を上げると、何故か八重樫くんも苦しそうに顔を歪めていた。


 皆が言う、『そんな顔』ってどんな表情なのだろうか。私は今、そんなに酷い顔をしているのだろうか。


 煉が帰って来ないだけで、こんなにも心が苦しくなって、不安に襲われるなんて思ってもいなかった。


 もしかしたら、煉はもう帰っては来てくれないのかもしれない。


 また何処かで怪我をして、道端で倒れてはいないだろうかと、そんなことを思い心配している自分がいる。


「何処を探せばいいのか、分からない……。煉は今、携帯を持ってないから」


「思い当たる場所はありませんか? お気に入りのお店や外の風景とか」


 ほんの少しでも、どんなに些細な情報でも構わないという思いで、八重樫は突然失踪したという煉の行方に関する情報を求めるが、さくらは首を横に振るばかりで何も解らず仕舞いだった。


 八重樫がどうしてこんなにも必死になり、恋敵を探そうと躍起になっているのか。本当ならば、ライバルが一人減ったという事実を喜ぶべきなのかもしれない。でも、素直に喜べないのが八重樫の心境だった。


 その理由は本人が一番良く理解していた。勝ち逃げをされたような気分が胸を燻るのだ。正当な理由で勝てた訳ではないと知っているから。こんなのは、只の相手からのおこぼれに過ぎないと。


「そんなの分からないわ。私は……煉のこと、何も知らなかった。だから、もう探しようがないの」


「どうして、すぐに諦めるんですか。さくらさんにとって大切な人なんでしょう? なら、そんなに簡単に諦めるなんてことを言っては駄目です」


「大切な人だからよ。失ってから気付いたの。もう、手遅れよ。きっと、煉は戻らないわ」


 さくらは自身の感情を捨てたように、すっかり諦念していた。その瞳は悲しみの暗い色に染まり揺れ動いている。意地でも泣くまいと、さくらは唇を真一文字にして滲み出そうになる涙を堪えていた。


「昼休み、終わっちゃうわね。この話はこれで終わり。何も聞かなかったことにして。……お疲れさま」


「俺、一人でも探しますから」


 休憩室を出て行く、さくらの華奢な背中に八重樫はその言葉を投げ掛けた。


 ◇


 今さら後悔したって、時間は、相手の心は、もう元には戻らないことを知っている。


 区切りを着ける良いタイミングだと思えれば良かったのに、私にはまだそれが出来ない。


 八重樫くんは探すのを手伝ってくれると言っていた。でも、私は煉のことを何一つ知らない。手掛かりも何も無い。だから、諦めることしか私には方法が残されていない。


 退勤する為に会社のロビーを通り抜けようとしたとき、八重樫が一足先にさくらを待ち構えていた。


「雨、どしゃ降りなので、さくらさんは自宅で待機していてください。何か情報が手に入ったら連絡します。それじゃ、お先に失礼します」


「待って。どうして、八重樫くんがそこまでする必要があるの? これは私の問題よ」


「……そうですね。これは、さくらさん自身の問題です。でも、俺はこの問題を解決してからじゃないと、さくらさんに真正面から告白出来ないじゃないですか。だから、その為にも俺は、その煉って人を探さなきゃならないんです」


 真っ直ぐにさくらを見つめる八重樫の瞳には、最早何の迷いも曇りもなかった。そこに有るのは、ただ一人。男としてのプライドを賭けた、強い意志を秘めた心からの決意だけだった。

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