僕と君が見る世界

新月

 

 分厚い雲が広がる梅雨空の夕刻に、家の近くにある公園のベンチでスーツ姿のままうなだれていた。僕の心と体は疲れきっていた。上司に怒られ、ノルマに追われる毎日。昼ご飯を食べようものなら、「昼休みを取れるほど余裕なんだね」、「君は普通じゃないね」と嫌味を言われる始末。給与も低い。こんな環境で十年もよく頑張れたと我ながら思う。希望していた商社に入社できて喜んでいたあの日の僕は、一体どこに消えてしまったのだろう。

「休職? それならもう戻って来なくて良いよ、君」

 上司の言葉がまだ頭を離れない。僕はもう限界だった。『普通』が『普通じゃない』と言われ、『普通じゃない』ことを『普通』と評される。どうすれば良いのか分からない状態にいつの間にか陥っていた。病院では案の定「うつ病」と診断され休職をせざるを得ず、今日は休職願を上司に提出し、早退した。

 深い溜息が口から漏れる。

「パパ」

 顔を上げると、娘の友香がいた。

「元気ないね」

そう言うと、僕の頭を撫でてくれた。友香はこの四月に小学校に上がったばかりの一人娘だ。黒くて長い髪とパッチリとした目は母親そっくりだ。しかし、その母親、つまり僕の妻は、先月交通事故で帰らぬ人となった。それ以来、友香は変わってしまった。

「濡れちゃうよ」

 折りたたみ傘を僕に手渡す。雨など降っていないのに。

 どういう訳か、友香は雨の降っていない時に雨具を身に着け、雨の降っている日は雨具を一切持たずに外へ行こうとするようになった。公園で遊んでいる他の子どもたちはもちろん、その母親とみられる集団の視線が友香に集まっている。

 他のことは変わらずできるのに、天気だけは正反対の景色が見えている。受け入れ難いことに、友香も『普通』じゃなくなった。学校でもいじめの対象となり、友香は学校に行きたがらなくなった。ただでさえ仕事で辛い思いをしているのに、愛娘がこうだと、余計にストレスを感じてしまう。

「降ってないよ、雨なんか」

「ううん、降ってるよ、雨」

 無邪気な友香の声。

 すると、手の甲に何かが一つ落ちた。目を向けると、水滴だった。今度は頬に、首筋にと、どんどん水滴が落ちてくる。どうやら本当に雨が降ってきたらしい。どんどん雨脚は強くなり、周りにいた親子は足早に公園を後にする。

「やったあ、晴れたあ!」

 合羽を脱ぎ捨てる音がした。そしてその音が、僕の心を強く刺激した。

「もうやめてくれ!」

 勢い良く立ち上がり、僕は声を荒げてしまった。そして、すぐさま後悔が押し寄せる。雨粒が僕の体を容赦なく打ち付ける。スーツは濡れ、体が余計に重く感じられた。友香は友香で、何が起こったのか飲み込めていないような表情をしていた。が、すぐに状況を理解したのか、顔が徐々に歪み始め、大声で泣き出した。膝から崩れ落ちた友香の小さな足は、泥まみれになっていた。僕は慌てて友香に駆け寄り、強く抱きしめる。今まで怒鳴ったことが無かったために、友香は相当な恐怖を感じたのだろう。腕の中で泣きじゃくり、強く抵抗した。涙ながらに叫んだ「大嫌い」という友香の言葉が、心にずっしりとのしかかる。

「ごめん、ごめんな……」

 ひたすら謝ることしかできなかった。その日、家に帰っても友香は口をきいてくれなかった。泣き疲れたのか、コンビニで買って帰った夕食の弁当にほとんど口を付けず眠ってしまった。


 寝付けないまま時は過ぎ、時計の針は夜中の二時を回っていた。明日から会社に行かなくて済むというのに、体は強張って休もうとしてくれなかった。今日くらいはゆっくり眠れると思ったのだが、そう上手くは行かないらしい。

 夕方から降り出した雨は、今もまだ音を立てて止まずにいた。

 友香は隣で静かに寝息を立てながら、心地よさそうな寝顔をしていた。楽しい夢でも見ているのだろうか。そして明日は、口を聞いてくれるだろうか。

 僕はゆっくりと体を布団から起こし、台所に向かった。コップを手に取り、蛇口をひねる。冷たい水がコップへと注がれ、一気にそれを飲み干した。冷えた水が体中を駆け巡るような感覚が心地よい。少しだけ、気は紛れた気がする。僕は寝床へ戻り、横になって友香の寝顔を見つめた。

 僕は今まで『普通』に生きてきたつもりだ。だけど、自分の中での常識が大きく覆されると、何が正しいのか分からなくなってしまう。もしかしたら、僕の『普通』がこれまで間違っていたのかもしれない。もしかしたら、友香が見ている世界が『普通』なのかもしれない。実際は晴れているのに、僕が「雨だ」と言い、雨が降っているのに「晴れだ」といっているのかもしれない。あの時、肌で感じたはずの濡れた感覚は夢幻だったのかもしれない。色んな考えが、頭の中をグルグルと回りだす。

 結局、何が『普通』なのかは皆分からないものなのだ。僕がどんなに職場の上司や友香に対して僕が考えている『普通』を説いたとしても、きっと理解はされないのだろう。

ああ、妻が生きていたら友香にどう接するのだろうか。生前の妻の顔が脳裏に浮かび上がる。笑った顔、泣いた顔、困った顔……。色んな表情が思いだされる。感情が表情でハッキリ分かる女性だったが、圧倒的に多く見せていたのは間違いなく笑顔だ。友香が泣いている時も、駄々をこねている時も、大喜びしている時も、妻は必ずと言って良いほど優しい笑みを浮かべながら友香を抱きしめていた。僕が気落ちしている時も、会社の理不尽に毒づいている時も、嫌な顔せず柔らかな表情で僕を受け止めてくれていた。

「……そうか」

 僕に足りなかったものが分かった。辛いのは僕だけじゃないんだ。友香も辛かったんだよな、残された家族に構ってもらえなくて。自分の都合ばかりを子に押し付けるなんて、酷いお父さんだよな。ごめんな、気付けなくて、ごめんな。

 目には水が溢れそうになるまで溜まり、視界が揺らいでいた。そしてその水は、瞬きと同時にこぼれ落ちていった。

「……明日は、思いっきり遊ぼうな」

 その夜、僕は友香を起こさないように声を抑えながら、泣き続けた。これほど涙を流したのは先月の葬式以来だった。


 カーテンの隙間から差し込む朝日が、友香の顔を照らしていた。眩しさからか、友香は目を眠そうに擦りながら起き上がった。

 時間は朝九時。僕は今から二時間前に起きて朝ご飯を作っていた。久しぶりに立つ台所は、新鮮だった。今までは妻に料理を任せっきりにして、死後もコンビニ弁当や外食して食事を済ます日々を過ごしていたからだろう。

「おはよう、友香」

「…………」

 友香は返事をしなかった。それはそうだろう。昨日のことをひきずっているのだ。

 それでも友香は椅子に座り、朝ご飯が出てくるのを待ってくれた。今日の朝ご飯は、白米に、目玉焼きと茹でたウインナー。手抜きと言われてしまうかもしれないが、料理の経験がほとんどない僕からすれば大変な労力なのだ。焼き料理を焦がすことなく我が子に提供できた自分を、よく頑張ったと褒めてあげたい。

 ――午前十時。朝食も無事に済ませ、洗い物も片付けるとこの時間になっていた。もっと手際良くこなしたいものだ。

天気は、快晴。抜けるような青い空は窓から見ても美しい。風も程よく吹いていて、今日は外出日和になることだろう。友香はというと、無言で外に出る準備をしていた。遊びに行きたいのだろう。玄関で黄色い合羽を服の上から着て、お気に入りのピンク色をした長靴を下駄箱から引っ張り出し、デフォルメされた蛙の顔が散りばめられた傘を手に取った。友香の目を見るだけで、早く遊びに行きたいと思っていることを理解できた。目は口ほどに物を言う。僕も慌てて着替えて玄関へ向かう。

「じゃあ、行こうか」

 友香は一つ頷いた。

 ドアを開けると、気持ちの良い風が吹きこんできた。太陽も輝いて、雲一つない空の美しさを演出していた。きっと、友香は玄関から一歩出たら傘をさす。彼女の世界では、雨が降っているのだから。僕は傘立ての中から自分の傘をそっと引き抜いた。

「どうしてパパまで傘持つの?」

 友香は怪訝そうに問いかけてきた。それもそうだろう。今まで僕は友香の世界を拒絶してきたのだから。でも、今日からは違う。

「だって、濡れちゃうだろう?」

 答えた瞬間、まるで今日の天気のように友香の表情が晴れ渡った。

「じゃあ、行くぞ!」

「うん!」

 晴天の中、二人同時に傘をさして公園に向かって走っていく。

 この日、僕と友香の新たな生活が始まりを告げた。

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