異世界を両の目で見たの

叩いて渡るほうの石橋

異世界を両の目で見たの

 ゆっくり目を開けると、普段とは異なる世界が横に流れていく。


 ビルの森が繁り人の波打ち付ける街が、気がつくと本物の自然広がる景色になっていたら、山びこを楽しむか。靴を脱いで浜辺を走るか。


 私には、黙ることしか出来なかった。いつもと同じように机に向かっていたはずだったから。それがいつの間にか電車に乗っている。


 電車の長い席には登校するときみたいに背中がついている。しかし目の前には異様そのものがあった。いや、むしろ毎日踏みしめるコンクリートこそが文字どおり、不自然なのかもしれない。


 この突然起こった不思議な異変の前ではそんな思考も無駄、と理解は出来ているが考えをめぐらさざるを得なかった。


 怖かった。頭から爪先までを恐怖が縛りつけていた。


 指先も動かせないまま、時間はどれくらい過ぎたのだろう。気がつくと景色の流れは止まっていた。


 「お客様、終点です」


 声に急かされてホームに降り立つ。つい体が反応してしまったが、見覚えのないホームの造りは恐怖をいっそう濃いものにする。駅名は、どこにも書いていない。


 「駅員さん、いますか」


 必死に絞り出した震えが誰かの耳に届くことはなかったようで、どうしようかと改札の向こうを見る。はっとした。


 こちらを見ている目がある。


 あちらは何か奇怪な物を見ているみたいだけれど、こちらは今にも叫びだしたいくらい怖いのだ。


 「ここは何駅ですか」


意を決して聞く。


 「お前は、誰だ」


予想外にも質問を返されてしまった。


 「名前ですか?私は桐ケ谷桐花です」


 「桐花さん。そうか、名前はあるんだ」


 いちど深呼吸して彼は続ける。


「この駅は何でも無いよ。駅であるだけで、何者でもない。無名の、ただの、駅」


何を言っているかわからず、ぴたり止まってしまう。


 「怯えなくてもいい。僕は怪しい人間じゃないよ。ここは初めて?こっちへおいでよ」


「でも改札が……いまお金持ってないけど」


「お金がいるの?何かそれに呪いでもかかってるのかい?大丈夫だって、抜けてきなよ」


 話が進みそうにないので仕方なく彼を信じて改札を抜ける。ほら来れたじゃないか、と風がそよぐ。


 「また何であんな誰も使わない建物の中にいたの?あ、ここには来たこと無かったんだったか」


そこまで言って彼は首を傾げる。しばらくの沈黙が私達を保ったあと、彼はまさかと呟く。


「もしかして君は電車に乗って来たのか」


駅にいたのだから当たり前じゃない、などと初対面の彼には言えずに、はい、短く単純に返す。


 私の返事を聞いて、彼はだんだんと歩幅を大きくしていく。この世界はまだ良くわからないだろう、まずは僕の家に来なよ、と招きの言葉をかけてくれる彼から滲むのは親切な人間性。


 家、というよりもそこは洞窟。岩に腰掛けて適温の飲み物をちょっとずつ喉に流す。彼が振る舞ってくれたものは美味しかったけれど、何を飲んでいるかはわからなかった。


 「ここには人間が訪れることがあるんだ。本当にたまに、極めて稀にという感じだけど」


「あなたは人間じゃないの」


「僕は人間だよ。ここに住んでいる人間はたくさんいて、僕もその一人」


 そうだな、と彼はさらに続ける。


「でも君の暮らす人間界とここは全くの別物なんだ。以前は交流があったらしいんだよ、僕らが産まれるずっとずっと前のことだけど。君のほうの人間界は文化を形成していくと自分の世界のことでいっぱいになってしまって、こっちの存在すら忘れてしまった」


 急な情報の多さで私の頭が破裂しそうなのに気付いた彼は言葉を区切る。


 「そう僕は親から聞いたよ。昔からの言い伝えみたいなものさ。それから僕たちも、君たちの世界への行き方を忘れてしまった。これは何故だか伝わってこなかった」


「じゃあ私は偶然迷いこんでしまったの?」


「そうだと思う。ただ、さっき言ったように交流が消滅してからもたまに人間は来るんだ、僕は会ったこと無かったけれど」


「交流は最近まで行われていたんじゃないの」


「少なくとも僕らの世代は一度も会ったことないと思うな。そんな大きな出来事があったら瞬く間に伝わるもの」


「でも駅があるじゃない。電車が作られるようになったのって割と最近のことでしょう」


「あれは、何十年も前にここを訪れた人が教えてくれたのを元にこっちの人間が作ったんだ」


 ふと名案が浮かぶ。


「線路を辿っていければ元に戻れるんじゃないの?」


「僕たちが作ったのは駅だけだよ。線路なんて無い。だからこそ僕も驚いているんだ」


 線路が無い電車なんて想像を絶する。 考えてみたら大自然の中にぽつんと駅が一つだけ存在しているのも相当に奇妙だ。


 「私は戻れないの?」


「戻りたいの?」


 言葉が腹の辺りで留まってしまう。


 「ごめんね、意地悪な質問だったかもしれない。でも君はとても疲れているように見えたから。向こうの世界が、桐花には辛いものなんじゃないかと思ってしまったんだ」


「そうね……辛いこともあるわ。でも生きる上で、全く辛さがないということもないのよ」


「そうだね、僕もそう思う。僕らも辛いことが日々あるさ。だが、僕たちは辛いことに対して解決を見出だす。それは辛いものを、そう言うものなのだと受け入れるのとは異なる行為だと思うけどな」


 でも、受け入れることしか出来ないじゃないか、私たちは弱いのだから。そう言いかけた口は何も発することなく言葉を喉の奥に飲み込んだ。彼に振る舞われたものとは段違いに不味い。


 弱い。その自覚はある。それでも、自らを自らで弱い、と言ってしまうのは小さなプライドが許さなかった。


 彼の言うことの正しさもわかる。そして正しいことを正しく実行する難しさも。さらに彼は言う。


 「諦めなければ夢は叶う、とは言わないよ。破れる夢なんて数えきれない。でも追うことを止めるなんて贅沢だね。向こうの世界での君はその場から動かなくても生きていけていたんだ」


 そうか。私は、世界を壊せないから。世界に流されるままだから、この世界に呼ばれたんだ。神様は、私が周りを変えられないから、世界そのものを変えてくれたんだ。


 「君さえ拒まないのなら、ここに住むことも可能だ。ここの人間はとても優しいよ、それは僕が保証する。ここでは受動的な生き方は許されない。自分から動かなければ死んでしまうよ」


 どうする、と尋ねてくる声は純粋だ。私は友達のことや家族のことを思い出した。


 いや、これがいけないのだ。私の人生は私が決めなくてはならない。周囲のことばかり考えて、自分の世界を作ることもできない。


 これはチャンスなんだ。神様が、溢れんばかりの人間の中で、私だけにくれたチャンス。


 やり直せるのかもしれない。それは、人生とかそういう物ではなくて、生き方とか、世界を構築し直すみたいなこと。


 「私は、生きることにするわ。自分の力で」


それを聞いて彼は優しく微笑んでくれる。


 桐ケ谷桐花。


 彼女の両親は泣いた。帰宅したら娘が手首を切って死んでいたから。


 しかし、流れる血は赤かった。


 お客様、終点です。

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異世界を両の目で見たの 叩いて渡るほうの石橋 @ishibashi

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