反実仮想の世界線

@Samerium

第1話

ステップさんが死んだ。それは何の前触れもなく、唐突で、不意で、突然だった。趣味の悪いドッキリなのではないかと思ったし、今でも実感が湧いていない。緊急搬送されたという連絡を受け病院に向かうと、彼はもう生きてはいなくて、俺は死に目にすら会えず、ただ医者の口から発せられる「残念ですが」という言葉をぼんやりと聞いたのだ。死因は肝硬変がどうとか食道静脈瘤がどうとか肝不全がどうだかとか、詳しくはよくわからなかったが、要するに酒の飲みすぎらしかった。話を一緒に聞いていたサバナさんが「馬鹿じゃないの」と毒づく。あまりものものしい雰囲気に、何の言葉もかけられなかった。


病院でそのまま一夜を明かした翌日、俺たちはしばらくの休養を言い渡された。社員たちがゴソゴソと動き回って、TSSとしての仕事を全てキャンセルする。マスコミももう嗅ぎ付けているから公式発表をしないといけないらしい。外には取材陣が押し寄せていて出れば大騒ぎになるとのことだ。一晩中考えたのだが思考がまだぼんやりとしている。もうステップさんに会うことはないと、面会したのは死体だったという事実を反芻する。死んだ、死んだのだ。あの人は、死んだ。喧騒の中でジワジワと湧き上がる喪失感に少しずつ身を染めていく。

「ツンドラ」

声をかけられる。振り向くと昨日のあの瞬間ぶりのサバナさんがそこにいた。泣いたらしく目は腫れて声も少し掠れている。

「僕がさぁ、出ないとダメなんだよね、多分さ」

マスコミの対応は苛烈をきわめているだろう。ロビーにあるテレビでは既にニュースとして流れていた。

「こんな時でも僕らは芸人だからさ」

そういうと彼は社員たちと何やら話して戻ってくる。

「どっちにしろここからは出ないと。病院に迷惑がかかるから」

そういうと何人かの社員とともに準備を整える。誰よりもショックなはずなのにそれでもまわりのことを考え、いつものようにあろうとする。もしかするとそれだけが今彼を支えているのかもしれなかった。必死に感情に蓋をして「サバナ」になろうとしている。


しばらくの月日が経ち、葬儀や会見などをひとしきり終える。その間彼は「サバナ」だった。面に立っている間はずっと。マスコミや他人の目に晒され続け、酷い環境に晒されても俺に大丈夫と囁き、全てをこなしてみせた。俺の存在も彼にとっては苦痛だったろうに。彼は確かに彼だった。でも人はそう強くはない。今の彼はかつての彼とは違う何者かになってしまっている。


「何考えてんの」

頭を鷲掴みにされて無理矢理上を向くと、目の前にあるのはひどく歪んだ顔。床には殴られて吐いた吐瀉物の跡がある。

「随分と余裕があるみたいだけど」

すみません、と謝ろうとするがこみ上げてくる胃液の感覚を抑えるのに必死で声が出ない。

「何か言ったら」

温度の一切ない目をした彼が冷ややかに吐き捨てる。それでも答えられずにいると小さく舌打ちをして俺の横腹を蹴った。興味を失ったのか彼は部屋を出て行った。ガチャリ、と施錠する音が聞こえる。


ビチャビチャと胃液を吐き出す。何度吐いても吐き気は治らない。どうしてこんなことになったのだろう。







活動を再開してしばらく経つと、彼のストレスは凄まじいレベルに達していて、俺が気遣うと彼は声を荒げた。そしてはっとした表情をするとすぐに誤った。そんなことで彼が少しでも楽になるなら、と俺は思っていた。時間が経つにつれ、オフの彼の言葉からはどんどん感情がなくなっていった。番組で、舞台でステップのことを言われるたびに出番終わりに誰かを詰った。それは他の出演者だったり俺のことだったりしたが、俺は彼が自分の前でしかそれを言わないのを知っていたし、力になれているのだと思っていた。何を言われても彼の望む言葉をかけた。また少し時間が経つ。彼は俺のそういう姿勢にも腹が立っていたのだろうか。稽古中にミスした俺に手をあげた。この時もはっとした表情をしてひたすら俺に謝っていた。彼の苦しみに怒る気も起こらなかった。それからだ。少しづつ暴力はエスカレートし、なんでそんなこともできないのと俺を詰って殴り、ステップがいればと俺を殴り、なんでお前はそうやってやられてるの、と俺を殴った。理不尽だ。俺はろくに眠れてもいない。彼の求めるレベルは上がっていく。多分自分とそれ以外の区別が曖昧になっているのだ。かつての彼は「なんでできないの」なんて言ったことがなかった。彼に合わせて芸事ができる人間なんてこの世にどれだけいるだろう。彼は間違いなく天才だ、だからこそ言わないようにしていたのだろう。彼が苦しむ顔を見たくなくてどれだけ練習しても、彼の理想は上がるだけだった。一緒にいても彼を苦しめるだけだと、芸人なんてやめていいから休むべきだと、あなたは充分やってきたと、意を決して伝えた日、「お前まで僕を見捨てるの」と彼は笑った。その日以降俺はこうしてここに閉じ込められている。出れるのは出番がある日だけ。逃げるつもりなどなくても彼の管理下から離れると酷い暴行を受ける。逃げるべきなのではと思うもののかつての彼がチラついて何もすることができない。ステップさんがいなくなったのに俺まで居なくなってこの人は生きていけるのだろうか。


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