I-13.意識する

「うん……?」


 気付けば俺は、自分の部屋のベッドの上にいた。非常に陳腐ではあるが、カーテンの隙間から日差しが俺を射るように照っていて、窓の外ではスズメが何匹か、電線の上にちょこん、と立ってさえずっていた。もう朝か、と俺は体を起こした。


「いてっ……!!」


自分の口からそのような声が出たことに、俺自身が驚きを隠せなかった。身体が軋むように痛む。そうなるような激しい運動をした覚えなど一切ないのに、だ。それに寝違えたにしては、あまりに痛かった。


「何なんだ……」


 俺は何か全身が痛くなるようなことをしたか、と前日の自分が何をしたかを思い出そうとした。それが問題だった。


「……!!」


 そこで俺は気付いたのだ。高原と駅のホームで別れて、電車に乗って落ち着いてからの記憶がないことに。

 普通記憶がないと言っても頭に残るような鮮烈な経験がなかったというだけで、ぼんやりとは記憶に残っているはずだ。それが、電車に乗ってから今の今までの記憶が、すっぽりと・・・・・抜け落ちていた。まるまる抜け落ちて空白がそこにあるということを認識できるくらいだったから、よほどのことだ。


「……何があったんだよ」


 異常なことはもう一つあった。それは何となく部屋にかけてあった時計を見た時に気付いた。


「……マズい」


 いつもならもっと早い時間に起きて、とっくに電車に乗っている、いやそれどころか、学校の最寄り駅についていてもおかしくない時間だった。今からすぐに最寄り駅に着いたとしても、遅刻するのは確実だった。


「どうしてこんなことに……?」


 これだけ遅い時間なのに義母かあさんが起こしてくれなかったことも少し疑問に思いながら、俺は朝食など食べることなく家を飛び出た。



 学校に着いたのは一限も終わろうか、という時間だった。さすがに授業の締めをしているさなか教室に堂々と入るわけにもいかず、俺は一限が終わるのを待って教室に入った。一限の授業をしていた先生はうちのクラスの担任で、俺が遅刻してきたことに珍しいこともあるもんだ、とでも言いたげな顔をして、少し小言を言ってから去っていった。


「……珍しいな。お前が遅刻するなんてさ」


 当然その日の昼休みには、高原に話を持ち出された。登校するにしては相当遅い時間に俺が来たのを高原は見ていたようで、弁当のふたを開ける以前に開口一番そう言ったのだ。


「ああ……。記憶がねえんだよ。昨日電車に乗ってから、今朝起きるまでの」

「記憶がないってお前、大げさかよ」

「いや、こんなこと初めてだから、俺も何が何だか」

「気のせいだって。ほら、あれだろ? 最近虎野さんのこともあったし、疲れてんじゃねえのか?」

「そんなわけねえよ。疲れてたなら疲れてた、って記憶があるはずだろ」

「寝不足は? 虎野さんのことは抜きにしても、お前中学の頃から寝不足気味だろ? いっつも眠たそうな顔して」

「寝不足……いや、それも……」


 確かに中学の頃は寝る時間が遅いこともしばしばで、いつも眠たそうな顔をしていたのも事実かもしれない。しかし高校に入ってからは義母かあさんがよく注意してくれることもあって、中学の頃からは格段に睡眠時間が延びている。少なくとも、寝不足による疲労からぶっ倒れる、なんてことはあり得ないはずだった。


「……とにかく、一日でそんなこと言われても何とも言えない。もし何日か続くようなら、また俺に言ってくれ」

「……ああ」


 言われてみればそうだった。昔寝違えた時でも一日経てば、嘘のようにその痛みはなくなっていた。たった一日異常だっただけでいろいろ疑ってかかるのも筋が通っていないのかもしれない。俺は今日の昼休みに虎野に話しかけてみる、と自分で決めたのを思い出して、購買で買った菓子パンの袋を丸めて片付けて、教室に戻った。

 それでもどこか心の中で感じる違和感は、消えなかったが。



* * *



「虎野」


 俺はいざ自分で決めてから、やっぱりやめた、と自分の都合で諦めることはあまりなかった。それは相手に失礼になるかもしれない、と考えているからだ。だから俺は教室に戻るなり、周りの視線をあまり気にすることもなく虎野のもとへ向かい、話しかけた。


「お、偶谷。久しぶりだね」

「久しぶり?」

「急に話しかけてこなくなったから何か悪いことでもしたかと思ったけど、そうでもないみたいだね」

「そっちこそ。いつもそっちから話しかけてくるのに最近めっきり話さなくなったから、何かヤバいことでもしたかと思って」

「ま、例の話しなくなっちゃったからね。その話なら、向こうでしようか」


 虎野は俺にだけ見えるように廊下の方を指差した。俺もさすがに周りの視線が気になったので、従うことにした。


「……雨だね」


 廊下に出るなり、虎野がそう言った。その口ぶりからして、雨があまり好きではなさそうだった。


「嫌いなのか、雨」

「好きな人はあまりいないんじゃない。何かこう、空気が重たいじゃん」

「俺はむしろ、好きな部類なんだけどな。まあもちろん、濡れるのは嫌いだけど、雨って天気自体は別に」

「へえ。まあ私は視界が狭くなって、敵がどこにいるか見定めにくいっていう理由もあるけどね」

「……マジか」


 こうも自然に妖獣退治の話に持って行かれるとは思っていなかった。俺が特に何も言わないでいると、虎野が話を続けた。


「……佐山と、あの先生を殺した時。私が何も考えないで、そうしてたと思う?」


 何を言い出すかと思えば、というような話だった。情けをかけるようでは、退妖獣使の役目は務まらないのではなかったのか。


「いやまあ、退妖獣使に情は必要ないんだよ? いちいち情けをかけてたら、そんな仕事できなくなる、って思ってるのは本当。でも、私が実際感情を殺して仕事してたかって聞かれると、それはまた別の話なんだよね」

「……それはお前にも血が通ってるから許せ、ってことか」

「違うよ。私はまだ退妖獣使の仕事を始めてそれほど時間が経ってないから、まだまだ未熟なんだと思う。そんな状態で同じことを偶谷に強要したのは、悪いことだったな、って」

「……」


 それは俺に対する謝罪だった。俺が突然妖獣退治に関わるのをやめると言い出したから、虎野も自分が悪いのだろう、と感じたのだ。


「だから私のせいで気を悪くしたなら、謝っておこうと思って。ごめん」

「……いや、こっちこそだ。俺が気持ち悪いとかなんとか言って、勝手にやめるって言い出したのも、もうちょっと言い方があった。ごめん」

「偶谷は心配性だねえ」


 ごめん、と互いに謝った直後の虎野は明るい顔だった。虎野の言う通り、俺は何事も心配しすぎなのかもしれない。そして互いに少し笑顔になったところで、午後の授業が始まるのを知らせるチャイムが鳴った。


「お、もうこんな時間。戻ろうか」

「ああ」

「あ、あとそれから。これ言うの忘れてた」


 虎野は教室に入る間際、俺を呼び止めた。


「何だよ」

「今日は早めに帰った方がいいよ。私今日は学校に残って、そのまま裏山の妖獣討伐に入るから。あんまり遅くまで残ってると、現場に遭遇するかも」

「……ああ。分かった」


 そもそも俺はあまり遅くまで学校に残った経験自体なかったのだが、とりあえず分かった、と返事はしておいた。



「帰るぞ偶谷ー。今日はぜってー見たい番組があるんだからなー」


 その日の放課後。よほど家に帰るのが待ちきれないのか、再び高原が俺のクラスまでやってきて催促した。


「今日そんなに面白そうな番組あったか?」

「お前はあんまりテレビ見ないから知らないだろうけど、今日帰ったらギリギリ番組が始まるか始まらないかって時間なんだよ。急げって」

「分かった分かった。珍しいな、お前がそんなにかすの」

「珍しいと言えばお前。今日は早く寝ろよ。昼にも言ったけど、本当に寝不足かもしれねえからな」

「……ああ」


 確かに今日は俺の方が、珍しいことばかりだったのかもしれない。普段の目つきが悪い分、素行には十分気を付けていたつもりなのだが、まさかこの期に及んで遅刻をするとは思ってもみなかった。もしも寝不足が原因なのだとしたら、油断していればまた遅刻するかもしれない。俺はせめて今日だけは早く寝る、と心に決めた。


「あっ、やべえ! 電車来てる!」


 よほど早く帰りたかったのか、高原は駅の前まで来て電車がホームに近付いているのを見るなり、全速力で走り出した。


「じゃあな! 気を付けろよ!」

「ああ」


 俺が乗る方面の電車が来るまではまだ数分あったので、俺はあっという間に距離を空けて行く高原に手を振った。それからベンチに座り、特に何も考えることなく俺は電車を待った。



 それからの記憶が・・・・・・・・俺にはなかった・・・・・・・




* * *




「……!!」


 寒かった。それは風が冷たいということではなかった。傘もちゃんと差していたのに、とても雨で濡れたのではないような、全身の濡れ具合だった。


「……目が覚めたかい」


 そこは暗い森の中だった。目を開いて起き上がり、辺りを見渡した。よく見ると、そこは森などではなかった。俺が通っている高校の前庭だった。そして俺の他に少なくとももう一人、そこにいるらしかった。


「誰だ」

「誰だとは失礼な。一度、君の相談にも乗った仲じゃないか」

「……!!」


 その男は、俺の顔を覗き込むようにして近付いてきた。その顔は、よく見知ったものだった。


「植川、さん……?」

「ああ、よかった。二度も気絶させたから、ついでに僕についての記憶も飛んだかと思って、少し心配した」

「……!!」


 間違いなくその顔は、植川さんだった。誰にでも優しい教育実習生の植川さんが今、俺に残虐な顔を向けて立っていた。


「気絶、させた……?」

「そうか。記憶がないんだね。そうだそうだ。君にとっては、『記憶が丸ごと抜け落ちて、ただそこに空白があることだけが認識されている』……ってところかな」

「……!!」


 まさしく、その通りだった。植川さんが、俺を気絶させた? 何のために?


「あまりまどろっこしいのもなんだから、先に目的を言おう。僕がこの学校に教育実習生としてやって来たのは、君を殺すため。最初から、それだけが目的だった」


 俺を、殺す。

 なぜ俺が殺されなければならないのか、という問いより先に、様々な疑問が俺の頭の中を駆け巡った。何から口に出せばよいのかと考えるために、俺は無意識のうちに頭に手を当てた。そこで、違和感に気付いた。


「手……」


 頭に添えたはずの右手の感触がなかった。慌てて右手の方を見ると、そこに右手はなかった・・・・・・・


「……改めて自己紹介させてもらうよ。僕の名前は植川了。大学生で、教育実習生としてこの高校に来たのは事実だ。けど、」


 次に植川さんが発した言葉は、俺にとってはスローモーションのように、ゆっくりと聞こえた。


「僕も君と同じ、妖獣の一人だ。より具体的に言うならば、森の妖獣。植物全般を司る、といったところかな」


 植川さんも、妖獣だというのだ。そのタイミングで、俺はなぜか鷹取の何気ない言葉を思い出した。


『妖獣は案外、すぐ近くにいるから』


 しかしあまりにも、近すぎた。俺はその事実に、まるで気付くことができなかった。


「……どうして」

「ん?」


 俺は精一杯の声を振り絞り、植川さんに尋ねた。


「どうして、俺を殺すんですか」

「簡単さ。僕にとって、君が邪魔だったからだ。君は妖獣の本能に逆らって人間を捕食しないばかりか、同じ妖獣を次々に始末している。それでは人間と妖獣とのパワーバランスがいずれ崩れてしまうということは、君にも分かるだろう?」


 植川さんは最初から、俺を狙っていた。そういう口ぶりだった。


「心配しなくていい。僕が君を二度にわたって気絶させたとき、それぞれ一度ずつ、僕の力を使って殴っておいた。君の身体はその殴られた部分から、徐々に腐り始めている。当然全身が腐り切ってしまえば君は死ぬ。もっとも、全身の前に心臓が腐ってしまった時点で息の根は止まると思うけどね。そして腐りきった君の身体は瞬く間に下の地面の養分となり、君の死体が残ることはない。完璧な算段だ」


 現に俺の右手は、すでに腐って俺の体から離れ、地面に転がっていた。神経も同時に腐らせているのか、痛みは驚くほどなかった。付け加えるように、植川さんが言った。


「君が今考えているように、君は一切の痛みを感じることなく死ぬ。世の中に多く存在する死に方のどれよりも、楽な話だろう?」

「……っ」


 足がすでに腐ってきているのが分かった。いよいよ、植川さんを前にして逃げることもできなくなった。


「……そうか。もう逃げられないとなっては、早く自分の醜い姿を見なくてよくなる方がいいか」


 植川さんはしゃがみ込んで、力なく横たわっている俺の体にそっと触れた。植川さんの右手が怪しげな緑色に光る。


「残念だったね、偶谷君」


 腹を思い切りその手で殴られたのが、見えた気がした。

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