恋人の石  ~〈荒地の民〉の物語~

冬木洋子

第1話

 私の恋人は、真紅の石になった。

 私も、部族の他の人たちも、誰一人、彼がそんな鮮やかな色の石になるとは思っていなかったから、呪師が炎に手を差し入れて石を取り上げた時、誰もが、その強い輝きに気圧されたように息を呑んだ。

 呪師が遺灰を凝縮させて作る形見の<護り石>は、普通は、皆がいかにもその人らしいと思うような、その人の生前の佇まいを偲ばせるような色をしている。たとえば、生前のその人が好んで身に付けた色や、その人の瞳の色や、その人の人柄や雰囲気になんとなく似つかわしいような色。

 だから、私もみんなも、彼はもっと地味な色の石になると思っていた。彼の瞳のような穏やかに澄んだ灰緑色や、彼の物静かで控えめな人柄に相応しいひそやかな青色、あるいは落ち着いた砂色に。


 けれど、一瞬の驚きの後、私にだけは、彼がその色の石になった理由が分かった。

 昔、一度、彼が言ったことがある。

 もしも自分が君より先に死んで、君の護り石になるとしたら、自分らしい色になんか、ならなくていい。君の身を飾るのに相応しい、君に似合う色の石になりたい、と。君によく似合う真紅の石になって、美しい君をますます美しく飾るのだ、と。

 確かに私は赤が好きだったし、私のきつめの顔立ちや奔放な立ち居振る舞いには、赤が似合った。気性も激しく、みんなからつねづね『炎のような』と言われ続けているから、きっとみんな、私が石になるとしたら真っ赤な石になると思っているだろう。自分でも、そう思う。

 それなのに、私ではなくあの人が、真紅の石になったのだ。

 でも、実は、その色の激しさは、もともと彼の中にあったものなのかもしれない。自分らしい色になるよりも私に似合う色になりたいというほどの、その、想いの強さこそが、控えめだった彼の、内に秘めた激しさだったのかもしれない。燃え立つような真紅は、みんなが知らなかっただけで、本当は彼に似つかわしい色なのかもしれない。

 そう思うと、今となっては自分がどれだけ彼のことを知っていたのか分からないような気がしてくる。


 呪師が厳かに差し出す小さな宝石を、震える手で受け取って、胸元に抱きしめた。

 彼の中に燃えていた激しい愛が、私の胸を熱くする。

 私は今も変わらず、彼を愛している。今も、これからも、彼だけが、こうして私の胸に触れることができる。

 サーレイ。私の、ただ一人の恋人。

 黒い喪布を被って立ち並ぶ一族たちの葬送の歌を聴きながら、炎のように燃え上がる荒野の夕焼けに誓った。

 私は一生、あなたを忘れない。あなたの思い出を、こうして胸に抱いて生きてゆく。




 実り豊かな森に定住する<森の民>は、死んだ人を土に埋めるのだという。そうすると、そこから木が生えてきて、みんな、その木に寄り添って、いつまでもその人を偲ぶのだと。

 でも、荒地に生きる私たちは、死んだ人を火葬にする。お墓も作らない。

 だって、どこかに埋めてお墓を作っても、私たちは季節が変わるたびに呪師が占うままに新しい土地に移動してしまって、もう一度その場所に戻ってくることがあるかどうかも分からないもの。

 だから私たちは、お墓を作る代わりに、呪師の力で遺灰から宝石を作ってもらって、それを首飾りや耳飾りにして身に付ける。そうすれば、どこに移動しても、愛する人と一緒にいられるから。

 形見の宝石には、その人の魂の一部が封じられている。石の中から、遺された人の人生を見守ってくれる。

 そうして、ただ一度だけ、その人の生前の似姿を眼前に現し、声を聞かせてくれる。それは触れることのできない幻だけれど、ただの幻じゃない。形見の石には、その人の一部が宿っているのだから、その幻も、その人の一部なのだ。死んだ人がこの世に残していった、自分の存在の最後のひとかけらなのだ。

 どうしても寂しくなったら、石を握り締めて、祈ればいい。その人の名を呼べばいい。本当にその人を愛した、その人が愛した人の祈りなら、その人は、眼前に立ち現れる。きっと微笑んで、触れることはできなくても手を差し伸べてくれる。

 その瞬間を、何度、思い描き、焦がれたことか。

 たった一目でも、ほんのつかのまでも、もう一度、あの人の姿が見たい。あの人の声が聞きたい――そう思わなかった日は、一日もない。

 でも、私は、決してそれをしない。

 なぜなら、一度、生前の姿を石の外に呼び出してしまったら、その時、形見の石は砕けて、その中に封じられていたその人の存在の欠片ごと、永遠に失われてしまうから。砕けた石は、岩陰に溶け残っていた氷を切り出して日向に置いたみたいに、みるみる溶けて、消え去ってしまうのだという。

 そんなのは、耐えられない。

 ほんのひとかけらでもこの世に残っているあの人の一部を、もう一度、失うなんて。生きている間に、もう二度と、あの人の姿を見られなくなるなんて。

 形見の石を持ってさえいれば、どうしても会いたい時には強く望めばもう一度だけあの人に会えるのだと思いながら、その思いを支えに生きていける。でも、本当にそれをしてしまったら、残りの一生を、私は、もう一度あの人の姿を見られるという希望無しに生きていかなければならないのだ。そんなのは、きっと、耐えられない。

 だから私は、形見の石からあの人を呼び出すのは、自分が最期の息を引き取る、その瞬間と決めている。そうすれば、私は、愛しいあの人の姿をこの目に映しながら死んでゆくことができるから。


 細い鎖で胸元に下げた護り石を握り締め、もし今あの人に呼びかけたらあの人は現れてくれるだろうと思い描き、寂しさに耐えられなくなるたびに今日こそ、今こそと思い詰めては、でもそうするともうあの人がこの世に残したわずかな名残も消えてしまうのだと自分に言い聞かせて、引き裂かれる思いに惑い、煩悶し、枯れることのない涙に人知れず浸る、そんな日々が、のろのろと過ぎていった。

 あの人がいなくなってから、世界は何もかも色褪せてしまった。私の世界の中で鮮やかな色をしているのは、あの人の真紅の石だけ。


 ほんの子供の頃から結婚を誓いあっていたあの人が婚礼を待たずに死んだ、その後、しばらくの間は、多くの男たちが私の愛を争った。

 私は誰にも応えるつもりはなかったけれど、男たちは、私に求婚する権利を巡って果たし合いを始めた。

 男たちが私を巡って争うのを、止める権利はなかった。

 一人の女を複数の男が望んだ時、部族の男たちは、互いに闘って、勝ち残ったものが求婚の権利を得る。それは男たちの間の問題であって、当の女がそれをどう思おうと、止める権利はないのだ。

 そのかわり、女には、勝ち残った求婚者を拒否する権利があった。闘いに負けて求婚の権利を失った男に、自分のほうから求婚する権利も。

 勝ち残っても拒否されるかもしれないのに勝手に闘い合うなんて、ばかげている。勝とうが勝つまいが、結局、女が試合の結果とは関係なしに好きな男を選ぶのだったら、闘う理由などないはずだ。

 それでも、男たちは、古くから繰り返されてきたこの闘争を止めない。

 なぜなら、それが男たちの間の伝統であり、力を誇示し誇りを体現する行為であるだけでなく、実際に、勝者の求愛を拒む女はあまりいないからだ。

 荒地の女なら、たいていは、自分のために闘って勝利を勝ち取った強い男に惚れるものだ。それまでその男のことを特に愛していたわけでなくても、闘いを勝ち抜いてきた荒い息のままに目の前に立たれ、手を差し出されれば、その瞬間に、突然、その男に魅了されてしまうのだという。私には分からない奇妙な感覚だけれど、おそらく、過酷な荒野で生きてゆくためにはなるべく強い夫を持つのが有利だという、何世代にも渡る経験の積み重ねが、部族の女たちの身体に深く染み付いているせいだろう。

 それでも、ごく稀には、勝者の求愛を拒む女もいた。

 けれど、その女が敗者である別の男を選んだという話は、一度も聞いたことがない。

 なぜなら、闘いに負けた男は、もともとその女の愛を望んでいたはずなのに、女から選ばれる権利を永遠に放棄してしまうからだ。

 自分で女を勝ち取らず、男同士の闘いに負けた上で女から選ばれるのは、彼らにとって、不名誉であり、屈辱なのだという。

 では、きっと、その男の愛なんて、そんな程度のものだったのだ。男同士の間の面子より軽い愛でしかなかったのだ。その男が本当に欲しかったのは、その女ではなく、闘いに勝ち残った男であるという名誉のほうなのだ。

 だから、勝者を拒んだ女は、結局、すべての求婚者を失うことになり、生涯を独身で過ごすことになりやすい。たぶん、それも、勝ち残った男を女が拒まない理由の一つなのだろう。

 夫を持たずに生きる女に、部族は冷たく、女一人で生きるには、荒野の暮らしはあまりにも過酷だ。

 勝ち残った瞬間にその男への真実の愛が芽生えるという、少女たちが憧れるおとぎ話の裏には、生涯を孤独に貧しく蔑まれて暮らすことと、たとえ一番好きだった相手ではなくても他人に自慢できる強い男の妻になって羽振りよく暮らすことを比べれば、後者を選ぶのが得だという打算もあるのだろう。


 けれど、私は、勝者を拒んだ。

 もともと誰にも応えるつもりはなかったし、それまでに言い寄ってきた男には、それぞれにはっきりとそう伝えてあった。それにもかかわらず私を巡って争ったのは、男たちの勝手だ。

 それでも、断る時は、部族のしきたりにのっとって礼を尽くし、相手を尊重しつつ、丁寧に辞退するつもりでいた。

 勝ち抜いた男は、別に好きではなかったが、部族の一員として尊重するに相応しい立派な男ではあるはずだった。愛してはいなくても相応の敬意は持っていたはずだ。

 が、それまで特に嫌っていたわけでもないその男、アーガンが、勝利に昂ぶり、闘いの汗に濡れたまま、まるでもう私が自分のものになったとでもいうような勝ち誇った様子で悠然と目の前に立ち、手を差し出してきた時、私は、その、すでに手に入れた戦利品を見るような目に、ふいに言い知れぬ嫌悪を覚えて、思わず言っていた。

「私はあなたを拒否します。殴り合いに勝ったくらいで、私を手に入れたなんて思わないで。私は試合の賞品じゃない。私はモノじゃない」

 アーガンは、一瞬の驚愕の後、怒りに顔を赤黒く染めて、足音も荒々しく立ち去った。

 見ていたものたちは、いっせいに私の無礼を非難した。

 確かに、私は彼をあのように侮辱すべきではなかった。

 勝者を拒む女は実際のところ滅多にいないのだから、試合に勝ち残った彼が当然私を手に入れたものと思い込んでしまっても無理はなかったのだし、そもそも彼は、そのように思い込んだからといって私に無礼を働いたわけではなく、単にしきたり通りに前に立ち、手を差し出しただけなのだから、何ら責められる謂れはないのだ。

 けれど、私は、彼を侮辱したことは悪かったと思っているが、彼を拒んだことは悔いてはいない。

 彼の行動に非はなかったのかもしれないが、だとしても、彼が、私の父や兄たちと同じように、手に入れた女を家畜や家財を見るような目で見る男たちの一人であることには変わりがないのだから。

 彼や、父や、兄たちだけではない。部族の男たちは、だいたいみんなそんなふうで、それが悪いことだとは、誰も思っていない。そして、女たちもまた、それが当たり前だと思っている。



 それから私は、独り身のまま生きてきた。

 一族の女を飢えさせるのは家長の恥だから、老いた父から家督を継いだ兄は私を追い出しはしなかったが、私を疎ましく思っていることを隠そうともしない。父も兄も、かつて部族の男を侮辱した私のことを今でも怒っているし、部族の常識に従わずに独身を貫く私が目障りなのだ。そうでなくても、兄嫁が何人もの子供を産んで家族の天幕は手狭になり、私は邪魔者で、庇ってくれる母もすでに亡かった。

 私は、自ら願い出て家族の大天幕を出、かつて弟たちがしていたように、大天幕を取り囲む独身者用の小天幕で寝ることにした。

 この荒野で、単身で生きてゆくのは、女でなくとも無理だ。独身者用の天幕で寝る若者は、連れ合いを得て完全に独立するまではその家に属し続け、大天幕の周囲で暮らして、煮炊きと食事は共にする。それは、既に結婚した兄のいる次男以下の若者が成人してから結婚するまでの短い時期に置かれる中途半端な立場であり、普通は女がする生活ではないし、いつまでもするような生活でもない。

 けれど私は自らそれを選び、自ら申し出て煮炊きも食事も別にした。辛い暮らしではあったけれども、私は、自分の生き方を貫く自由が欲しかったのだ。

 兄は私にわずかばかりの山羊を分け与えた。


 アーガンの求婚を拒否して以来、男たちに冷たい目で見られるようになったことは仕方がないと思うが、辛いのは、女たちから、部族の規範に従わない女として後ろ指を指されることだった。

 ちょっと美しいからと思い上がって我が儘勝手を貫くとあのような惨めな境遇になるのだよ、などと少女たちを諭す聞こえよがしの囁きの中を、私は、まっすぐに顔を上げて黙って通り抜ける。

 好きに言えばいい。確かに暮らしは厳しいけれど、私は自分を惨めだなどと思っていない。

 あの人を偲びながらひっそりと生きる人生を、私は自分で選んだのだ。他の男と結婚することで得られるだろう利益を、自分から放棄したのだ。

 私とサーレイは、まだ婚礼をあげていなかったけれど、私が十七になったら結婚する約束になっていた。いったん結んだ約束を取り消せるのは、当事者たちだけだ。あの人が死んだ以上、約束を取り消せるのは私だけのはずで、私はそうしなかった。だから私は、十七になった時、あの人の妻になったのだ。

 あの人が生きていても死んでいても、私はあの人の妻だ。夫への貞節を貫くのは、夫が生きていようと死んでいようと、名誉あることのはずだ。私は、名誉ある寡婦として、亡き夫への貞節を守ってつつましく生きることを認められて良いはずだ。私は誇りを持って、あの人を想い続ける。誰にも文句は言わせない。

 けれど、ときどき、ふと心が弱くなる。

 そんな時、私は、胸元の護り石を握り締める。

 サーレイ、私を護って。私を押しつぶそうとする孤独から――。

 真紅の宝石は、手の中で、ほのかに温かい。その温もりと、これを持っていればいつかもう一度だけサーレイに会えるのだという想いだけが、私の支えだった。


 そんな私に、一人だけ、好意を寄せ続けてくれる人がいた。

 かつて私を巡って男たちが闘った時の敗者の一人、ヤレン。彼は、あの時、アーガンに敗れて私に求婚する権利を失ったが、私に求婚される権利を放棄しなかったのだ。

 それは、前例のないことだった。

 あの日、敗者たちはみな、何も言わずに立ち去ったが、誰もが暗黙のうちに、全員が私を諦めたものと思い込んでいた。

 ところが、ヤレンは、その翌日に私の許を訪ねてきて、自分は私からの求婚を待つ権利を放棄していないと告げた。一晩考えてそう決めた、私に選ばれるのをいつまででも待つ、と。

 それによって、ヤレンは、男たちの間での名誉を失い、女に血迷って誇りを捨てた腑抜けとして笑いものになった。

 けれどもヤレンは、そんな嘲笑に耳を貸さなかった。

 私はヤレンに誰とも結婚するつもりはないとはっきり告げたのに、あれからずっと、ヤレンは、誰も娶らず、付かず離れず私を待ち続けている。――もう十年近くも。



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