腹上死

 「社長お電話です。楠木さんからです」東関東自動車道市河インターチェンジを出てすぐのラブホテルで化粧直しをしていた女がエターナルクリーンの大伴社長に携帯を渡した。

 「何事だ? 後にできんのか?」大伴は面倒くさそうに寝返りを打った。

 「緊急のご用件だそうです」

 「何のようだ…あ、なに?」携帯を手にした大伴の形相が変わった「六甲がパクられた」

 「赤磐社長がですか?」女は冷静に聞き返した。

 「いや倅が現場で捕まった」

 「そうですか」

 「平気なのか」

 「だって警察が内偵していたことはご存知だったじゃないですか」

 「問題は捕まったダンプだ。赤磐が勝手な真似をしおったらしい。捕まったのは布袋産業だ」

 「まあ!」女は思わず声を上げた。

 「くそいまいましい。赤磐が俺に会いたいと言ってるそうだ」

 「いまさらお会いしない方がいいのでは」

 「会社に戻るぞ」大伴は全裸のままベッドを降りてバスルームに向かった。

 女がバスローブを羽織って大伴の後を追おうとした時、背後で大伴の携帯が鳴動した。女は携帯を拾い上げた。

 「社長を出せ」怒鳴り声が響いた。

 「今出られません」

 「こんなときに女といっしょとは呆れたもんだ。布袋と言えばわかる。早く出せ」

 「五分後におかけ直しすることではいけませんでしょうか」

 「俺を誰だと思ってるんだ」

 「存じております。お待ちくださいませ」女は携帯をつないだままバスルームに急いだ。「社長…」

 大伴は気分が悪くなったのかシャワーに打たれながらうずくまっていた。

 「薬をくれ…」かきむしるような胸の痛みに堪えて大伴は女に取りすがった。

 「社長、社長…」女はびっくりして携帯を床に放り出し大伴の体をゆすった。

 「おいどうしたんだおい」携帯から布袋の怒鳴り声が聞こえてきた。

 大伴は泡を吹いて濡れたタイルの上に倒れた。

 「お薬ですね、待っててください」女は急いで身じまいを整え車のキーを掴んで部屋を飛び出した。階下の駐車場には大伴のベンツが停まっていた。ダッシュボードにニトロペンの舌下錠が常備されているはずだった。女は薬を見つけて部屋に取って返した。

 「社長、お薬です」女は大伴がいつもしているように薬を含ませてやった。大伴の表情が安堵に一瞬緩んだ。だがその直後見たことがないほどの醜さに顔を歪ませ背中をのけぞらせた。

 「うぅぐぅ」大伴は苦しそうに白目をむき全身を硬直させて動かなくなった。

 「社長…」女は絶句した。通風で変形したつま先がヒクヒクと死の痙攣を始めたように見えた。さっきまで脂ぎっていた肌が青黒くよどんでいた。女は死の痙攣が始まった体を置き去りにしてホテルを飛び出した。ベンツの脇をすりぬけて路上に出ると携帯電話で救急車を呼んだ。

 「急病人なんです。たぶん狭心症だと…あ、でもたぶんです。私はたまたま部屋の掃除に来ただけなんで」女はホテルの従業員を装った。

 救急隊員がかけつけたときにはCPA(心肺停止)だったが、一縷の望みをかけて心臓マッサージをしながら救命救急センターに搬送した。急性の心筋梗塞で蘇生は既に不可能だった。

 逃げた女の素性は携帯電話の通話記録から容易に特定された。しかし簡単な事情聴取を受けただけでそれ以上の追及はされなかった。逃げ出す前に薬を飲ませ救急隊を呼んだことが幸いし、保護義務者遺棄罪までは問われなかった。

 「大伴が腹上死だってよ。あの社長らしい最期じゃないか」そんな情報がたちまち首都圏の産廃業者の間に広まった。産廃屋として半生を生き逮捕目前の大往生だった。

 なんと翌週には六甲建材の赤磐社長までも自宅で体調不良を訴えて緊急入院し、そのまま帰らぬ人となった。死因は大伴社長と同じ心筋梗塞だった。相次ぐ社長の死で捜査方針は大転換を強いられた。拘置所で父親の急逝を知らされた赤磐の倅は、すべては親父の指示で行ったことで自分は不法投棄とは思わなかったと、それまで父をかばっていた証言を翻した。

 「強制捜査の前に社長が二人とも死んでしまうなんて前代未聞ですよ。捜査は大丈夫ですか」朝のミーティングの冒頭、伊刈が切りだした。

 「社長が死んじまっては県警も拍子抜けだろうなあ」仙道も伊刈の苦言を否定しなかった。

 「エタはまだ営業を続けているみたいじゃないですか。県は許可を取消さないんですか。社長が死んだって会社の処分には関係ないですよ」

 「まあそうだけどな、県はエタが絡んでるってまだ知らねえんじゃねえか」

 「六甲建材が作った高岩富士はどうするつもりですか」

 「そういっぺんに言うなよ」

 「あんな山になってしまう前に不法投棄をやめさせた方がよかったんじゃないですか」

 「できたと思うか?」

 「やろうとしなかったことが問題じゃないですか。今更どうやって撤去させるんですか」

 「検事が撤去を約束させると言ってるってよ」

 「どうせ空手形ですよ。捨て得なんじゃないですか」

 「逮捕されたんだから捨て得というのはちょっと言い過ぎだろう」仙道は苦虫を潰したような顔をした。

 「証拠収集やってかまいませんか」その日の伊刈は愚痴を言うばかりではなかった。

 「現場は警察が証拠保全してるんだぞ」

 「警察は警察、市は市じゃないですか。実況見分は終わってるんだからかまわないじゃないですか。うちにだって調査の権限くらいはあるんでしょう」伊刈は一語一語確かめるような口調で言った。

 「そりゃそうだが警察以上の調査をうちができると思うのか」

 「警察から証拠を貸してもらえるんですか」

 「公判が終われば捜査資料は公開されるよ」

 「あと何か月かかるんですか。まだガサ入れもしてないんでしょう。うちは捜査に全面的に協力したのに向こうからは何も情報提供なしではまるで幕末の不平等条約と同じじゃないですか」

 「うまいこと言うもんだな」絶妙な伊刈の喩えに仙道は思わず感心してしまった。

 「市には何一つ確定的な証拠がないんです。これじゃ打つ手無しです。自力で証拠を集めるしかないですよ」

 「いまさらか」

 「ダメですか」

 「そうテンパるなよ。うちはうちで調べるってことだな。おまえが言うとおり調査権はあるんだから問題はないだろう。しかし一応県警に挨拶するから待ってくれよ」

 「証拠は一日遅れればそれだけ減ってしまいます。とくに雨が降ったら」

 「雨の前に行けるようにするよ」伊刈の迫力に押され仙道は渋々受話器を手に取った。

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