新任班長
噂の新班長はなかなか着任しなかった。お昼休みも終わりそうなころになってやっとパソコンを入れた大きな黒いリュックを背負って現れたのは中肉中背、長髪を除いて外見にとりたてて特徴がない男だった。強いて言えば左右の目の高さがずれているのが人相の特徴だったが、眼鏡のせいでそれもあまり目立たず、終始笑っているような甘い眼光がむしろ人懐っこい印象を与えた。強面からは程遠い柔和な外貌と撤去の達人という前評判とのギャップは大きかった。
「伊刈進一です、よろしく」所員を前にしての赴任の挨拶は必要最低限度だった。まさか人見知りとも思えないし口不精とも思えない。やっぱり環境事務所なんかに出向することになったのが県庁のエリートとして不満なのか、とにかく無愛想だった。
「本格的なパトロールは明日からお願いするとして誰か現場を見せてやってくれないかな。百聞は一見にしかずと言うだろう」仙道技監がVIP待遇で新班長を気遣いながら言った。環境一筋二十年、市庁内ではミスター環境と呼ばれているベテラン化学技師で、市のプロパーでは唯一県庁の産業廃棄物課に出向したこともあり、環境事務所の精神的支柱になっていた。
「班長、俺が案内しますよ」県警から出向している長嶋警部補(市の役職としては主査)が車のキーをつかんで立ち上がった。真っ黒に日焼けした精悍な顔つき、坊主頭、筋骨隆々とした体躯、どこから見ても暴対にふさわしい警察官だが、日焼けは週末に少年サッカーの監督をやっているせいで、子煩悩のパパだった。
「いえ僕が」喜多主事が思わず立ち上がった。一か月前に奉職したばかりの新卒だったが、父が市内でも有数の税理士事務所を開業しているのは周知で、税理士試験に合格するまでの腰掛だと割り切って市職員になったことを公言していた。周囲に気兼ねなく試験勉強がやりやすいと計算してのカミングアウトだった。国大卒の同期はみんな中央省庁や県庁の総務、財務に配属されているのに、自分だけがどうして市の不法投棄の監視担当なんかにと腐っていたが、県庁から来た新班長には興味津々の様子だった。
「ほうおまえ珍しくやる気あるな」仙道が喜多の心理を察したようににやりと笑った。「警部補どうされますか。今日のところは喜多に案内させてやりますか」
「せっかくだからみんなで行きましょう」長嶋が答える前に伊刈が言った。
「わかりました、それじゃ全員で」
全員出動と言われて最後に遠鐘主任技師が立ち上がった。地質学が専攻という異色の技術職員だった。そもそもは微小化石の研究で知られた大学の先輩を慕って市の学芸員になった。ずっと市立博物館勤務だった自分がどうしていきなり産廃担当に配置されたのかと喜多と同様人事に疑問を持っていた。不法投棄現場には地層が露出した路頭が多く地質学的な興味をそそられはしたが、まさかそれが配転の理由とは思われなかった。
「班長お着替えは」スーツ姿のままで駐車場に降りようとする伊刈を見て長嶋が怪訝な顔でたしなめた。
「ちょっと見てくるだけだからこれでいいよ。早く行きましょう」伊刈は涼しい顔だった。
「今日は班長の歓迎会だから油を売ってねえで早めに帰って来いよ」背後から仙道が声をかけた。
「運転は喜多さんに任せるよ」
「了解です」喜多は長嶋から受け取った日産Xトレールのキーをひねった。
太平洋に突き出した犬咬半島から暖流と寒流が合流する沖合の漁場を望む犬咬市は古代から漁業で栄えた村だった。江戸に通ずる運河が開かれてからは水運の町として繁栄した。南下する海流に乗って北方から運ばれる物資をここで川舟に積み替えて江戸に送ったのだ。とくに北国の大豆を使った醤油醸造は河口堰が設けられて水運の歴史が終焉した後も地場産業として生き残った。旧市内では今も大小の醤油蔵がシェアを分けあい、夏になると大豆の発酵臭が町全体を覆った。贔屓の醤油工場の銘柄がないと客から喧嘩を売られぬよう、どの料理店にも数銘柄を揃えるのが昔から変わらぬ風物になっていた。浪曲『天保水滸伝』(正岡容原作、南条歌美・畑喜司作)はこの地域の水運利権を争うドラマだ。実在した坐等市に一宿一飯の恩義を与えた侠客、助五郎の菩提寺となっている光台寺に参ると、御影石の墓碑に『石渡』という本来の苗字が刻まれている。不法投棄軍団の縄張り争い、そしてこれから火蓋を切ろうとしている産廃Gメンとの死闘はさながら産廃水滸伝だった。
中核市に昇格するために周辺の市町を合併したので、犬咬市の人口はいきなり四倍に膨れ上がり面積はそれ以上に増えた。伊刈が赴任した東部環境事務所は旧犬咬市域の全域に加え太平洋に面した南部地域をすべて管轄していた。旧朝陽市の庁舎を流用することになったため旧市街からは遠く離れてしまったが、不法投棄多発地帯にはかえって近かった。Xトレールは田園地帯を横断する広域農道(広域営農団地農道)を疾走した。産廃を満載したダンプがひっきりなしに走るので地元では産廃街道と呼ばれている道だった。江戸時代に干拓されるまでこの田んぼは湖底だった。さらに有史以前にさかのぼれば海底で海水面が下がったときに逃げ遅れた海水が湖になったのだ。その証拠に田んぼを掘り返せば古代の貝殻がざくざく出た。干拓地を縁取る崖にはフジツボの絶滅種がついた岩が残っていて、今より二、三十メートルも高かった縄文時代の海水位を表していた。つまりたった一万年前なのに当時の気候は現代よりもかなり温暖だったのだ。地球が経験してきた気候変動は最近の数十万年だけをとってみても尋常ならざるものがあり、海水位は氷河期と間氷期では百メートル以上も変動した。この激しい気候変動をすっかり説明できる理論は存在しない。それなのにたった数センチの海面上昇に現代人は人類が滅亡するかのように戦々恐々としている。おそらく騒ぎを大きくしたい大人の事情があるのだろう。江戸時代までの湖畔を縁取るように続く小高い崖に刻まれた県道の坂を登ると東部丘陵に出た。
「不法投棄って、噂に聞くほどひどいのかな」伊刈は隣席の遠鐘に問いかけた。
「マップをご覧になりますか」遠鐘は事務的な口調で車に備え付けの住宅地図を手渡した。
「これは県庁から引き継いだの? それとも市で作ったの?」
「技監が県庁の資料を基に作ったものです」
「なるほどプロは仙道さんだけってわけか」
マップは不法投棄現場のマークで真っ黒だった。それなのに車窓には春の稔りを競う野菜畑が広がるばかりだった。その下にごっそり産廃が埋まっているなんて誰が思うだろう。
「不法投棄はどこの地区が多いの」伊刈はマップから顔を上げて遠鐘に尋ねた。
「常習現場が多いのは森井町、高岩町、松岡台、猿楽町ですかね」
「そんなに」
「小さな現場なら市内いたるところにいっぱいです」
「とても全部は回りきれないね」
「そうですね。一つ潰したら、二つ増えるって感じでとても追いつきません。管内は意外に広いんです。巡回するだけでなんにもしなくても二時間はかかります」
「一つ増えるうちに二つ潰せばいいわけだね」
「ムリですよ。毎日のように前夜の不法投棄の通報が来るんです。現場を確認するだけで手一杯でとても反撃するどころではないです」
「想像したとおりと言うべきか想像以上と言うべきか」伊刈はマップを放り投げて窓外の景色に見入った。一見したたけではのどかな田園風景だったが、じっと見ていると変なところに気付いた。不自然に嵩上げされた畑や土の色が微妙に異なった畑があるのだ。周囲の山林にも枯れ木が目立った。伊刈はラブクラフトの『宇宙からの色』(架空神話体系『クトゥルフ』の創始者として有名なアメリカの怪奇小説家ハワード・フィリップス・ラブクラフト(一八九○~一九三七)の初期の名作。ある地域が宇宙から届いた不思議な色に染まり、家畜や作物が原因不明の病気で徐々に死滅し、住人も狂気の死病にとりつかれていく。放射能汚染の恐怖が知られていない頃に、その状況を予言したと言われる。)に描かれた原因不明の異変を思い出した。
Xトレールは広域農道の三叉路から谷津に降りる市道へと鋭角に曲がった。犬咬丘陵は更新世の砂層の上に沖積世の関東ローム層の火山灰が赤土となって堆積した台地で、柔らかい地層は雨水で容易に削られ掌を伏せたような谷津が入り組んだ複雑な地形になっていた。この地理的特徴は渋谷、四谷、鴬谷などの谷の付いた地名が多く残る東京とよく似ていた。深く切れ込んだ谷津を越えると、戸根川を見下ろし、遥か彼方に臨界工業地帯の煙突群をのぞむ北部丘陵に出た。
「ここが最初にご案内したかった森井町です。不法投棄問題の端緒となった地域です」喜多が説明した。
「平安な田園地帯じゃないか」
「昼間はそうですが夜になれば真っ黒にラッカー塗装された改造ダンプが産廃を満載にして集まるんです」
「どこが不法投棄現場なんだろう」
「どこも全部です」
「全部?」
「農地も山林もほとんど全部です。この地区の総面積の一割くらいが不法投棄現場じゃないかと思います」
「すさまじい割合だな」
「ほんとうに日本なのかと目を疑う無法地帯ですよ」
伊刈は喜多の無法地帯という言葉に反応した。「無法地帯なんてほんとはないんだ。法律とそれを大目に見る構造があってそうなるんだよ」
「不法投棄を大目に見てるっていうのは違うと思います。みんな精一杯やってるんですよ。それでもダメなんです」遠鐘がいくらか不満そうに言った。
「がんばってないと言うつもりはないよ。ただきっとどこかに甘えさせる構造があるんだよ」
「その構造を班長が壊したなら、俺はすごいと思います」長嶋が体育会系らしい言葉で車内の険悪なムードを断ち切った。
一九八○年代末のバブル経済の時代、犬咬市も他聞に漏れずにリゾートブームに見舞われ、いくつもの開発計画が立てられた。だが俺俺の強い土地柄でリゾートホテルもゴルフ場も何一つ話がまとまらなかった。にわか不動産屋に地上げされたまま放棄された山林や遊び癖のついた大地主の農地に土砂採取の大穴が掘られ、その跡に産廃が持ち込まれた。それが呼び水となって有象無象の連中が穴(産廃処分場)の利権に群がり、気付いてみれば首都圏最大の不法投棄銀座となっていた。至るところに産廃を投棄する穴が掘られ、深枠の改造ダンプが我が物顔に走り回る様子は、さながら産廃ゴールドラッシュだった。
森井町には地区を縦貫する市道と平行して四本の農道が走っていた。喜多が運転するXトレールはまず南側の崖っぷちの農道に向かった。とたんに荒れた路面に嵌って車体が激しく揺れた。畑も山林も見れば見るほど様子が変だった。天地返しをしたせいで妙に赤土がかった畑が目立ったし、山林は目隠しのために道路際の木立だけが残されて奥はすっかり掘り起こされていた。廃棄物から発生する有毒ガスのせいか残された杉の枝ぶりには勢いがなく、梢の所々が赤茶けていた。林は踏み倒され畑は掘り返され谷津は切り崩され地区全体が不法投棄業者に占拠されたも同然の状況だった。
「班長着きました」喜多は森井町南側の行き止まりの農道から左に折れた崖っぷちの不法投棄現場にXトレールを乗り入れた。ムリをすると轍に投入されたガラでタイヤを傷つけてしまうので、走り慣れたルートから外れないようにゆっくりと進み崖の手前で停車した。
伊刈は初めて不法投棄多発地帯に降り立った。農道の行き止まりには地元の農家が捨てたビニールや野菜くずが積み上げられていた。これも不法投棄と言えないことはないが、農地は事実上農水省の治外法権なので環境事務所の取り締まりの対象ではなかった。振り返ると農道の左右に不法投棄の累々たる痕跡が古墳群のように連なっていた。夜になればそこかしこでサーチライトが灯されユンボの鋼鉄の牙が崖をえぐり巨大な蟻地獄のような穴が黒蟻の軍団のようなダンプの車列を貪欲に飲みこんでいくのだ。
伊刈は足元を確かめながら崖っぷちに向かった。谷津越しに東部丘陵の豊かな田園風景を見渡すことができた。現場に置き去りにされているユンボさえなければ、これ以上望めないくらいすばらしい眺望だった。ユンボ(レンタルのニッケンの登録商標)はフランス語で巨象(ジャンボ)の意味で、戦後にキャタピラー三菱(現キャタピラージャパン)がフランスのシカム社(現ユンボ社)からライセンス供与を受けて製造した油圧ショベル(バックホー、パワーショベルとも言う)の商品名だった。土木工事現場で最も一般的な重機で、クローラで移動しながら穴を掘り山を築く一本腕の万能機械である。アームの先端に装着するアタッチメントは、バケット(ショベル)のほかにもカッター、マグネット、トロンメル(回転式選別機)などに交換できる。まさに人が乗りこんで操縦する大型ロボットの原型と言える。
不法投棄現場や土砂採取場ではバケットの大きさが○・七立方メートルの『コンマ7』が使われていた。回送車が走れる道路事情を考えるとこの大きさが最適だったのだ。主要メーカーのユンボは、黄色、オレンジ色、コバルトブルーなど特徴的なカラーで塗装されていたので一目で区別できた。コンマ7には各社とも二百番台の型式番号が付けられていた。
「ここが不法投棄のグランドゼロ(爆心地)なのか」伊刈はため息混じりに言った。
「班長の足元の崖はそもそもなかったんです。もともとの崖は車を停めたところよりもっと後の農道の際だったんです」長嶋が説明した。農道左手の崖はももともと低地だったのに大量の産廃が投入されて小高い丘になっていた。
「ここからは県警の捜索で国立東都大産業工学部の移転ゴミが出ています」喜多が説明した。
「東都大って喜多さんの母校じゃないの」
「ええ残念ですがそうなんです」
「ここから逮捕者が出たの?」
「首謀者の三塚が現行(犯)になりました」長嶋が答えた。
「それで中途半端で現場が止まったんですね」
「検挙は失敗でした」
「どうして」
「ほんとの黒幕が手付かずに終わったんです」
「ほんとの?」
「それはまたおいおいお話しします」
伊刈は崖に沿ってゆっくりと不法投棄現場を踏査した。ゴミの崖は早くも雑草に覆われていた。ただし異形の雑草である。汚泥のアルカリに負けない植物だけが繁茂しているのだ。
「この現場の規模はどれくらいですか」
「ざっと数万リュウベ(立方メートル)ですね。でも正確な測量はしてないんです」遠鐘が説明した。
「小さくないね」
「ええもちろんです」
足元には産廃を捨てるためのダンプの投入坑がまだ残っていて、底で軽トラが一台朽ちていた。見張小屋の代わりに使われてからそのまま捨てられたようだ。
「東都大のゴミはどのへんから出たの?」
「今となってはわかりません。三塚が逮捕されたのはまだ県が管轄していたころなんです」遠鐘が説明した。
「ちょっと掘ってみないかい」
「え、今ですか」
「土が薄くかぶってるだけだから掘ればいろいろ出そうじゃないか」
「それじゃスコップを下ろします」遠鐘はあわてて車に積んだスコップを取りにいった。
「このへんかなあ」伊刈はスコップを受け取ると足元のゴミの手ごたえを確かめた。プラスチックが絡んだ産廃は掘りにくかった。
「スーツが汚れちゃいますから俺が掘りますよ」長嶋が伊刈からスコップを奪い取ってしばらくゴミを掘り散らかした。
「もうそのくらいでいいかな」伊刈はゴミの前にしゃがみこんだ。「ビンゴだったね。産業工学部のゴミだよ」
「ほんとすか」長嶋もしゃがみこんでゴミを覗き込んだ。「ほんとだ。すごいすね。なんでここだってわかるんすか」
「山勘だよ。今さらって気もするけどお土産にもらって帰ろうか」
「あ、はい」遠鐘は掘り出した証拠をビニール袋に詰め込んでXトレールの荷台に投げた。
「これから寄ってみたいところがあるんすがよろしいすか」長嶋が伊刈を振り返った。
「どこへでもどうぞ」
「里見が出てきたようなんです。それがまた懲りずに不法投棄を始めたみたいで」
「里見って誰?」
「高岩町で逮捕された里見工業す。一年半の懲役だったんすが先週釈放になったんすよ」
「それですぐにもうゴミに触ってんのか」
「それしか生きるすべがないんすね」
「わかりました。里見の現場に行ってみましょう」
「すんません初日からご面倒かけます」
喜多が運転するXトレールはゴルフ練習場ミラクル裏の細い農道へと入った。
「大型ダンプが通れる道じゃないですね。四トン車で移動してくるんでしょうか」伊刈が長嶋に尋ねた。
「それが十トン車で入ってきてるようなんだ」
「ほんとですか」
「ダンプってのは意外と小回りが効くんすよ」
一キロほど崖際の農道を進むと突き当たりに小さな養鶏場が見えてきた。その裏には谷津が切れ込んでいて農道は行き止まりのはずだった。喜多が車を停めるなり何かを察知した長嶋が目にも留まらぬ素早さで飛び出して谷津に走った。他のメンバーも後を追った。
「まて!」長嶋が叫んだ。
痩せた男がユンボから飛び降りて藪に駆け込むのが見えた。信じがたいほど逃げ足が鋭かった。男を追って長嶋が迷わず藪に飛び込んだ。他の三人は呆然と長嶋の背中を見送るばかりだった。藪の中の追跡は危険だったし、敏捷な逃げ足には容易に追い付けそうになかった。
「あれが里見ですか」伊刈が遠鐘に尋ねた。
「わかりません。でも出所してきたばかりで人を雇う金なんてないでしょうし、自分でオペをやってるんでしょうね」
「捕まるでしょうか」里見が逃げ込んだ深い藪を見ながら喜多が言った。
「藪を抜けて県道まで出るつもりだろうけどね」遠鐘が答えた。
「長嶋さんを待っててもしょうがない。現場の状況を調べておこう」
伊刈に促されて二人は穴の縁から捨て場を覗き込んだ。今のところはまだ十メートル四方の小さな穴に過ぎなかった。
「ここは養鶏場のゴミ捨て場だったみたいですね。里見が持ち込んだ建廃(建設系廃棄物)はまだ大した量じゃない」遠鐘が指摘したとおりもともと鶏の死骸や鶏舎の残骸を棄てていた穴のようで、建設廃材を被せたおかげでかえって生臭さが緩和されていた。
「けちな捨て場だな」背後から伊刈が声をかけた。
「地山を掘った穴じゃありませんけどね」遠鐘が言った。
「どういうこと?」
「残土を埋めた場所ですよ。そこをまた掘ったんです」
「そんなことわかるんだ」
「ちょっと地質をかじったもので。里見が逃げ込んだ藪はもともと田んぼですね。休耕田がここまでの藪になるには何十年もかかってますね。対岸の土採り場に赤土の露頭が見えますけど、ここらへんのローム層の特徴がはっきり見えて面白いです」
「ちょっとかじったどころじゃないな」
「遠鐘さんは地質学の学芸員なんです。うちにいるのは異例です。全く人事は何を考えてんだか」喜多が本人に代わって説明した。
「学芸員て博物館の学芸員?」
「ええまあ」大鐘はちょっと照れるように頷いた。
「ゴミからも何かわかるかな」伊刈は遠鐘の隣にしゃがみこんだ。
「ならこれ見てください」遠鐘は穴の縁にこぼれたゴミを何点か拾い上げて伊刈に示した。
「どれも日付が古いな」
「ええ、五、六年前のものです。きっとどこかにストックされていたゴミが移動されたんですよ」
「なるほど」伊刈は感心したように遠鐘を見た。
「あそこにも車が埋まってますね」喜多が目ざとく穴の底に半ば埋まった黒塗りのボンネットを見つけた。
「まだナンバーも付いたままだな」伊刈が言った。
「あのグリルはクラウンの旧モデルですね。一代前のですよ」喜多は車種の判定に自信があるように言った。「盗難車かもしれませんね。ナンバーはてんぷら(偽造)ですよ。きっと車体ナンバーも消されてるでしょうね。盗難車はオークションにかけられませんから、ほとんど密輸に回ってしまいます。輸出できなかった盗難車はナンバーをとりかえて捨て場の誘導車なんかに使ったあと埋めちゃうんですよ。でもまだ年式もそんなに古くないしもったいないですね」喜多はできることならクラウンを引き上げたい様子だった。
「どうせ盗んだ車だから粗末にしますよね」遠鐘が相槌を打った。
三人は現場の調査を切り上げて養鶏場に向かった。今どきは珍しくなった廃材を使った簡素な鶏舎だった。鳥インフルエンザなどの感染症対策のために自動式の消毒設備がある鶏舎が増えたが、以前は廃材を使ったこんな手作りの鶏舎が多かった。鶏舎の周辺でうろうろしていると、鶏糞の酸っぱい刺激臭が体に染み付いたいかにも農夫風の小男が背中を丸めて出てきた。
「裏の産廃のこと聞きたいんですけど」伊刈が挨拶した。
「あんたら誰? 警察?」社交性のかけらもないぞんざいな口振りだった。
「市の者です」
「保健所(家畜衛生保健所)?」
「いえ違います」
「あっそう。だったら勝手に入られると困るんだよ。鶏は病気になりやすいんだ。用がなければ帰ってくれないか」男は興味を失ったように作業に戻ろうとした。
「ちょっとお話を」伊刈が呼び止めた。
「裏の穴のことなら俺は知らねえよ」
「こちらの養鶏場の土地ではないんですか」
「うちの地所だよ」
「誰かに貸されたんですか」
「あんたらに言う必要があるのかい」男は面倒くさそうに横を向いた。
「どんな条件で貸したんですか」
「埋めさせてくれって言うんで残土ならいいって言ったよ」
「でも産廃ですよ」
「埋めてくれたら多少のゴミはかまわねえよ。鶏舎を広げる土地をこさえたいんだよ」
「車が捨ててありますね」喜多が伊刈の横から口を挟んだ。
「そんなの知らないよ。あんたら調べるのが仕事だろう」男はぷいと鶏舎に戻ってしまった。
その時、長嶋から遠鐘の携帯に電話が入った。
「大丈夫でしたか? 湧き水でぬかるんでませんでしたか?」
「よくそんなことわかるな。おかげで靴がドロドロだ。藪を抜けて県道に出たところでなんとか里見を捕まえたよ。最後は疲れて歩きだったからな。今職質を終えたところだ。県道まで迎えに来てくれないか」
「わかりました」電話を続けながら遠鐘は里見をGETしたという合図に親指を立てた。
「さすが長嶋さん」喜多が感嘆したように言った。
県道で待っていた長嶋を拾って事務所への帰途についた。
「里見はどうしました?」
「一人で帰ったよ」
「歩いて?」伊刈が不思議そうに聞き返した。
「送ってやるから待ってろと言ったんだけどいやだとよ」
「現場のことはなんて言ってました?」
「ならしているだけでゴミは入れてないと言い張ったよ。まだ仮出所中だし、少しは大人しくしてろと言ったんだがどうだかなあ」
「やめないでしょね」遠鐘がきっぱり言い切った。
伊刈にとって赴任早々の現場廻りは大収穫だった。
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