孵化予定/ベロアのリボン
明里 好奇
第1話 ベロアのリボン
彼女は目隠しをしている。黒いベロアのリボンを、目元に巻き視界を奪っている。
彼女は自ら視界を奪い、制限をかけている。それが何を意味するのかは、私にはわからない。それでも、彼女は私に向かい合った。
彼女はそのままの姿で、壇上に上がった。ステージ中央まで進むと彼女は床に座り込んだ。
私と彼女の間には数メートルの距離。手を伸ばしても届かない距離ではあるが、呼吸の音は容易に聞き取れる距離。
遠いような、近いような、不思議な距離で彼女は座り込んでいた。
私達も彼女を取り囲むようにして座った。
小さなライブハウスの中は照明が落とされた。その場にいる人間の輪郭がぼんやりと見える程度。人の顔は見えないが、呼吸や衣擦れの音はしっかりと耳に触れる。
いろんな音が聞こえることに気がついた。音がいつも以上によく聞こえるような気がする。
きっと、錯覚ではない。
そんなことを考えていると彼女は一つ深く息を吸った。
小さなメロディーは少しずつ確実なうねりを持って存在していた。心の奥に隠していた古い傷が、たしかに共鳴した。
そうだ、持っていたんだずっと。治らないまま私はその傷を隠して、奥底にしまいこんだんだった。
共感して、次に拒絶、つかの間の安堵と確かな救済。
彼女を取り囲みながら人々は、その救いの光にため息をついた。息をするのも忘れてただ共鳴していた。
人は生きているとたくさんの傷を負う。それは無意識のうちに積み重なっていく。治る前に次の傷がついたり、膿んでしまうこともある。そうやって人は傷を持ちながら生きていく。
心についた傷は目に見えない。治ったつもりでも、ふいに傷んだり開いたりして私達を戸惑わせる。
どうしたら良いのかわからないまま、傷んでしまう。
傷に触れて、癒やすことができたらどれだけ良いだろう。
私のお母さんは私を見ない。一緒に暮らしているはずなのに、私のことはあまり知らないんじゃないかと思う。
私の好きなものや嫌いなもの。彼女は知らない。
私はお母さんのことを知っている。お母さんは無駄が嫌い。時間がない。忙しい。カフェオレには砂糖は入れない。卵焼きは甘い。彼氏がいる。
私が知っていることを、お母さんは知らない。
ある日、夢を見た。小さいときの記憶だ。
お母さんの痛そうな顔だけを覚えている。悲しい気持ちは残ったまんま、私は夢から醒めた。よくわかっていない。ただ、あの日お母さんはとても悲しいような辛い様な顔をしていた。それは子どもの私にでもわかった。
彼女の唇がゆっくりと動く、私はその言葉を覚えていない。
ただ、ひたすらに悲しかったのを覚えている。
私は高校、短大を卒業して地元に近い小さな会社に就職した。本当は歌を歌いたかった。でも、私は就職を選んだ。奨学金があったとしても就学することは難しく、現実的ではなかった。私は早く大人にならないといけなかった。
そう強く強く思っていた。
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