雪だるまを探して

ざれ

雪だるまを探して

 僕の家の冷蔵庫の中には小さな雪だるまが住んでいる。六畳半の部屋と狭いキッチンの間に鎮座している中古の国産の冷蔵庫。そこの地上一階の冷凍庫で、主の様に雪だるまは冷蔵庫の一角を支配していた。

 季節は八月。日本の真夏において出会えるはずのない雪だるまは僕の冷蔵庫の中にいた。約半年前の冬、僕がここに持ち込んだのだ。


 一番最初の出会いは二月頭の夜のこと。飲み会でふらふらになった僕を木造アパートの一階、階段の側で雪だるまが出迎えたのだ。

 僕の住んでいるアパートは木造二階建てのアパートだ。薄黄色い壁は少し汚れて、ところどころ黒い染みが浮いていて、初めて見たときはここに住みたいと全く思わなかった。畳だけは新しい室内で、薄くて頼りなさそうな壁、弱弱しく釣り下がった蛍光灯、傷跡が残る木柱とプラスの要素を見つけることはできなかった。

 それでも僕が今ここに住んでいるのは、大学から歩いて徒歩五分という立地に加えて、破格の家賃だったからだ。

 

 高校を卒業してすぐの頃、無性に親元から離れたかった僕は、とにかく安い物件を探して回り、ここに辿り着いた。住めば都というものなのだろう。今となっては、あそこまで慌てて探してこんな場所を選ばなくても良かったと思う反面、なんだかんだ暮らしができている。

 悪いことばかりではない。この部屋には満月が綺麗に差し込む。蛍光灯の明かりを消して窓辺で月明かりの下で飲む安物のウィスキーはいつも僕を気持ちよく酔わせてくれた。

 そしてもう一つ。雪だるまと出会えた。



 

 その日の晩も月は綺麗にあたりを照らしていた。東京にしては珍しくその日は積もる雪が降った。受験生がその手を震わせながら試験場へと向かう季節。交通網は混乱し、人々はまともに目的地にたどり着けないそんな日。ニュースは東京が大災害に巻き込まれたかのように報道していたが、当の僕はというと交通網と関係の無い所でのんびりと大学近辺を歩いていた。サークルの飲み会を終え、力の入らない足取りでゆらゆらと家へ向かう。

 満月から少し手前の月が、意外と頼りがいのある白い光で辺りを照らしていた。地面に積もる雪は月明かりを浴びてダイヤモンドのようにキラキラと輝いていた。

 僕はアラブの大富豪の気分になっていて、ダイヤモンドをサクサクと踏み抜きながら歩いていた。僕は普段からこんな男ではない。今日は少し飲み過ぎてしまっただけだ。真っ赤な顔をなでる冷たい風がとても気持ちよかった。

 そして開けっ放しのアパートの門を通り抜けた時、僕はその雪だるまにであった。

丸い玉が二つ合体しただけのシンプルな作りの腰丈くらいの雪だるま。顔と思われる場所に不均一に彫られた口と目。恐らく、近所の子供達が作ったのだろう。

「やぁ。今日が君の誕生日だね」

 僕は場違いな言葉を投げかけた。

 雪だるまは笑顔を崩さずにジッと僕を見ていた。その笑顔になんとなく気分が良くなった僕は雪だるまの頭をポンポンと叩くと側を通り抜けて階段を登った。誰かが雪の片付けをしてくれた階段は登りやすかった。

 階段を上りながら「片付け」という言葉が頭の中で引っかかった。雪は汚くない。雪だるまにとっては血であり肉である。それを片付けというのは如何なものか。

 誰が言った訳でもない。ただの酔っ払いの言葉に自分でツッコミを入れながら、その日は眠りについた。


 翌日から雪だるまとすれ違う日々が続いた。朝と夜一回ずつ。頭を撫でては通り過ぎる日々。新しい友達ができたみたいで妙な楽しさを感じていた。

 実は、中学生になった頃から僕は雪だるまには惹かれていた。好きだとか嫌いという意味ではなく、気づいたら視線を注いでいるという感覚が最も近い。

 自分で作ったことはないが、雪だるまを見たり、探して街を歩くのは好きだった。ついでに『雪だるまの多い街は子どもが元気である』という根拠のない主張とその立証を時々試みた。

 しかし結果はいつもよく分からなかった。雪だるまを見つけたら満足してしまい、それ以上何かをすることは無くその場を立ち去ることが多かった。そうしてる内に雪だるまは町から消えて、次の冬を待つことになるのだ。

 そう、雪だるまは日が経てば消えてしまう。その儚さは毎年のように僕の胸を優しく締め付けていた。一瞬の生命の輝きはどうしようもなく切なさを僕に与える。

 アパートの前の雪だるまももちろん例外では無かった。

 二月末、春の日差しが少しずつ顔を出し始めた頃、雪だるまは明らかにその血肉を失い始めていた。

 全身から雪解け水を垂れ流し、日を追うごとに雪だるまはどんどんと小さくなっていく。

 僕は毎日その光景を目の前で見せつけられて、どうしようもなく悲しくなった。

 今まで一つの雪だるまと何日も繰り返しすれ違ったことはない。初めての経験が切なさではなく、悲しみと苦しみで心を蝕んでいた。

 雪だるまを太らせる雪はもう僅かしか残っておらず、彼を助ける子ども達はもうここには何日も来ていなかった。

 形をなしていない雪だるまの首元を時々削っては何とかその寿命を長らえさせようと努力してみるがあまり効果は無かった。

 僕には迷っている時間は無かったし、取れる選択肢は少なかった。


 その夜の月のことは覚えていない。ただいつかのように満月でなかったことは覚えている。

 立ちすくむ僕の膝下くらいの高さの塊――雪だるまと呼ぶには難しい塊がその寿命の近さを伝えていた。

 これまで感じことのない、言いようのない悲しみが胸の中を渦巻いていた。

 雪だるまの死に場所はここではない。そう強く感じていた。

「君を救うのは僕だ」

 思ったより強い口調で言葉が勝手に口から飛び出ていた。

 僕は階段を駆け上がり部屋へと飛び込む。キッチンの隅に転がる色のくすんだ銀色のスプーンと棚の中にしまってあった一番綺麗なお皿を手にとって彼の元へと駆けつける。

 ザクザクザク。雪だるまの残滓を掘り進め、新たな雪だるまが出来上がった。

 腰丈まであった雪だるまも、今は拳大の胴体と、拳小の顔のスリムな姿へと生まれ変わった。

 そっと皿の上にのせてゆっくりと慎重に部屋に戻る。

 これが、彼が僕の家の冷蔵庫に住み始めた顛末だった。


 喋らない同居人との生活は初めはおっかなびっくりであった。

 出かける前、帰ってきた直後、寝る前、起きた後は必ず様子見をしなくては気が休まらない。冷蔵庫を開けてジッと見つめていると「そんなに心配するな」と彼が語りかけてくる気がした。

 桜が咲きだした頃には季節外れの同居人との暮らしにも慣れ、自分のペースで彼と向き合うことができるようになった。

 季節が更に暖かくなるにつれ、扉の開けすぎは彼の身体に良くないことがよくわかり、開ける回数、時間を減らすようにした。

 毎日一回、朝出かける前に彼の具合を確かめる。そうっと扉を開け、彼が無事であることを確認してから出かける。それを延々と毎日繰り返し続けた。     

 時々、彼の形を整える為に、スプーンで触るくらいで、ほとんどは彼を少し眺めて終わった。それが僕の日常だった。




 八月の半ばが過ぎた頃、僕はふとした予感を感じて目を覚ました。いつもより一時間早い起床時間。太陽の光が部屋に柔らかく差し込んでいる。

 布団から急いで飛び出し、冷蔵庫へと駆けよる。途中慌てすぎて、転んでしまい、膝を畳に打ち付けた。

 冷蔵庫の扉をいつもと異なり、荒々しく開けると、そこに彼の――雪だるまの姿はなかった。

 あるのは濡れた皿のみで、雪だるまが鎮座していた一角には、雪だるまがあったという形跡すら何も残っていなかった。

「何で……?ありえないだろっ!」

 ここ数ヶ月経験したことのない動揺が体中を震わせる。顔が急速に青ざめ、手が震え、足の力が抜け、崩れ落ちる。

 僕の体は言うことを聞いてくれてなかった。頭の中を渦巻くのは疑問符だけで、思考はまともに形をなさない。

「どうしてっ――」

 僕を追いてったんだ、という後半の言葉は掠れて、空気の中に消えた。

 そう、消えたんじゃない。自然現象的に無くなったんじゃない。

『雪だるまが僕の元から去っていったんだ』という根拠の無い確信を僕は得ていた。雪だるまの数と子どもの相関性について根拠無く主張してた時とは違う。この世界で唯一無二の真実という気すらしてくるぐらいの確信だった。

 絶望が頭の中の片隅に生まれた。振り払っても振り払っても、絶望は僕の頭から消えることは無かった。

 呆然としながら、ふと畳に目をやると、さっき打ちつけた膝から出た血がじんわりと染み込んでいた。


 呆然とし続け約一時間、本来起きるべき時間の目覚ましが部屋の隅で鳴ったことをきっかけに僕の体は正常に機能し始めた。

 ケータイを拾い、友達に今日の予定を全て欠席することを連絡した。

 そして僕は急いで着替えると、雪だるまを探すため部屋を飛び出していった。

 部屋の中では柔らかかった日差しも、外に一歩でれば強烈な光線として僕を照りつける。

 背中を幾筋もの汗が伝う。早歩きで僕は、真夏の町中を雪だるまの姿を求めて探し始めた。

 かなり暑い日だった。日本特有らしいジメっとした暑さが僕を取り囲む。体力がどんどん削られていくのを感じた。

 ケータイを見ると『本日は猛暑日。熱中症にご注意ください』と表示されている。

 どうりで暑い。どうりで人通りが少ない。これだけ歩き回っているというのにすれ違ったのは三人くらいだった。

 すれ違った三人に「雪だるまを見ませんでしたか?」と聞いたが、皆揃って変な眼差しを僕に返してきた。こんな暑い日に僕みたいな人はいないのだろう。きっと変人に思われた。

 蜃気楼さえたち登りそうな強い日差しに僕の頭がくらくらとする。

 けれど、僕は地面の隅々の隅々まで眺めながら歩き続けた。だが雪だるまはどこにもいない。それどころか水たまりでさえ町の中にはなかった。

 雪だるまは去ったのだ。もう見つかることは無い。その予感を信じたくなくて、歩き続けているのに、歩けば歩くほど事実として僕の前に立ち現れる。

 体力が熱に全て持って行かれた頃、ついに僕はその辺にあった公園のベンチでうずくまって座り込んだ。

 体力的にも、精神的にも、もう動ける気がしなかった。

 胸の中にぽっかりと空いた喪失感がたまらなく辛くて、涙がこぼれ落ちた。肩が震え、足はずっしりと重い。頬を伝う涙は生暖かい。自分の体はどこまでも生々しく感じられた。

 これだけの虚無感を感じていても僕は生きていられることが不思議でたまらなかった。まるで宇宙にいるかのようで息の吸い方すら分からなくなっていた。

 どれくらいそうしていたのだろうか。時間の感覚がなくなった頃、僕に女性の声が降ってきた。

「君、どうしたの?大丈夫?」

 顔を上げるとそこにはショートカットの女性が立っていた。半袖短パンのランニングウェアーを着込みその首にはイヤホンが垂れ下がる。この暑い日の中をランニングしていたらしい。

 肌は健康的な小麦色に染まっていて、口元から覗く白く綺麗に並んだ歯がすごく印象的だった。「雪だるまの正反対みたいな人だなぁ」とぼんやりと僕は思った。

 街中を走り回っていた彼女なら雪だるまを見たかもしれない。一縷の希望に僕はすがりつく。

「今日雪だるまを見ませんでしたか?」

「不思議なことを言うわね。それって本物の雪だるまのことよね?残念ながら見てないわ」

 怪訝そうな顔で、でも丁寧に彼女は答えてくれた。

「そうですか……」

 これまでの人生で最も悲しみをこめられた声が僕の口から出ていた。辛そうな僕の様子に彼女は同情したのだろう、隣のベンチに座ると優しい声で事情を尋ねた。

「何があったの?私でよければ話を聞くわ」

 僕の握り拳を彼女の手のひらが優しく包んだ。

「僕の家の冷蔵庫に雪だるまが住んでいたんです」

 僕は堰を切ったように約半年間起きていたことを喋りだした。

 雪だるまとの出会い、すれ違い、同居、そして唐突の別れ。

 所々つかえながらも、僕の話はゆっくりと今へと近づいていく。

 とても普通の人がしゃべるような内容ではなかったけれども、彼女は黙って優しく微笑んで聞いていた。

「雪だるまを探しても探しても見つからなくて、もう見つからないことが分かってしまって……どうしようもなく打ちひしがれて僕は今この公園に辿り着いたんです」

「そっか。そうだったんだね」

 沈黙の風が二人の間を通り抜けた。ゆらゆらと揺れる葉っぱが直射日光を散らし、やわらげていた。ここは最寄り駅から数駅ほど離れたところにある公園だということに僕は今更ながらに気づいた。そのぐらい切羽詰っていたのだ。

「ねぇ、変な質問していいかしら?」

 唐突に隣の女性が口を開いた。

「はい、何でしょう」

「扉のない鳥かごを見たら貴方は何を思う?」

 そんなものがあるのだろうか、と素直に僕は思った。少し考えてから僕は答えた。

「それは鳥かごとして機能してないですよね。何も捕まえられない」

「そうね。多分みんなそう答えると思う。でも私の答えは違ってて、鳥は捕まったら最後、中から逃げることはできないと感じるの」

「……」

 僕は黙って聞いていた。

「扉のない鳥かごってどうしようもなく窮屈で退屈よね。代わり映えの無い風景、でることのできない狭い牢獄。そんな中にいたら気が狂ってしまうでしょうね。君の雪だるまがいた冷蔵庫はきっと扉のある鳥かごだったんでしょうね。逃げることのできる小さな鳥かご。退屈だけどきっと優しい鳥かご」

 彼女はここで一息をついた。僕の頭の中に返せる言葉は無かったので、沈黙を僕は保っていた。

「雪だるまはきっと冒険をしたくなったのよ。毎日同じ冷蔵庫の中では退屈ですもの。扉がそこにあったのだもの、きっと羽ばたいていくわ。お別れがなかったのは寂しいかもしれないけれど、きっと元気にどこかにいると思うわ」

「そうかもしれないですね……」

 僕は雪だるまを閉じ込めていただけだったのだろうか。自問自答を始める。

 雪だるまを守っていたつもりが、本来雪だるまが行く道を妨げていただけだったのだろうか。狭い檻に閉じ込めて、自己満足に浸っていただけなのだろうか。

「悲観的になる必要は無いと思うわ。半年も君の側にいたのだもの。雪だるまも楽しかったんだと思う」

 僕の悲しげな表情から察して彼女は優しく慰めてくれた。

「そうだといいですね。……そうだといいなと思います」

 そう信じようと僕は思った。

 これは自分の希望的な、楽観的な、そう信じたいだけの真実なのかもしれない。

 けれど、今はこれでいいのだろうと僕は思った。

「どうもありがとうございました。あなたのおかげで僕の気持ちは救われました」

「いえいえ、こちらこそ面白い話を聞かせてくれてありがとう。またどこかで」

 そういって彼女は立ち上がった。

 僕は彼女の名前を聞こうかと逡巡した。けれど聞かないことにした。

 こういう一期一会もいいのかもしれない。無理に繋ぎ止める必要など無い。なぜなら彼女は人間なのだ。もしかしたら何処かでまた出会うかもしれないのだ。

「またどこかで」

 僕も彼女と同じ言葉を返した。お互いに笑みを見せ合ったあと、別々の方向に足を進めた。

 



 そしてまた、冬が来た。この町の子ども達は元気な子が多い。だから、今年もまた雪だるまは、町のあちこちに作られるのだろう。

 今年も時々、雪だるまを探しに行こう。今度は部屋に持ち帰ることなく、眺めて、挨拶してクールに去ろう。

 きっとあの雪だるまはもうこの町にはいない。でもまた出会えるかもしれない。そんな再会に期待をしながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪だるまを探して ざれ @zarerad

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ