今夜は蝶が舞う

叩いて渡るほうの石橋

今夜は蝶が舞う

 窓に目をやる。四角い冬色の眺め。灰色に近いけれど、それは美術の時間に黒と白の絵の具を混ぜて作っていたみたいな、そんな色の空気。太陽が沈み追い討ちをかけて雲は覆い被さる。


 素足に床が痛い。実家で暮らしていたころは暖房や湯たんぽを使っていたが今はそうも行かず、可能な限り節約しようと狭い部屋に出しっぱなしの布団に足を突っ込む。


 ため息も出ない。上手く行かないことばかりではなかった。しかし想定していた経路は辿れていないのだとの意識は日々濃くなるばかりで、努力さえすればどこかで元の道に戻れると思っていたが、破れた紙が全く同じそれになることがあるだろうか。


 紙が一枚に繋がっていたころの私はひとつ疑問を持ちながら学校に通っていた。先生も親も友達も、勉強が苦手な私に一生懸命やれば出来るよ、とまるで私が努力を怠っているかのような言葉を浴びせるだけだった。びしょびしょになって口から出るのはいつも細い一言、頑張ります。


 運動は得意だった。多くの種目を人並み以上にこなしたし部活では表彰されるほどに活躍した。周囲の反応を鮮やかなまでに記憶している。


「あれは我々と持っている才能が違うね」


私は言われるたび片手に丸めた賞状を握り潰した。本当は泣きたかったけれど、堪えるくらいの静けさは頭の片隅に置いていた。


 悔しかった。


 皆、スポーツにおける才能の有無を歴と信じ努力をしても無駄だとさえ考えていた。私に勝ることを端から諦めているのが九分通り。ところが勉学はどうだ。これも皆がみな信じていることがあるだろう。真剣に学べば勉強が得意になると。そして私がスポーツに捧げた努力には気がつかないのだろう。


 私は文武両道を目指していたから毎日多くの時間ペンを握った。もしかしたら部活をやっていない人よりも長い時間、机と対面したかと思う。それでも成績は伸びなかった。


 「部活を止めたらきっと出来るようになるよ」


こう言う人もいた。だから早く、スポーツは諦めなさい。


 私は知っていたのだ、自分に勉学の才能がないこと。だが周囲はずっと私の武の才と努力を否定し文は努力でどうにかなると信じ続けた。


 心臓が爆発しそうなくらい。


 温まった足の先を僅かに動かす。そう言えばあの頃にひとつ好きな曲があった。今やどの媒体でも見かけないからそれを歌ったのがどんな人たちだったか思い出せないけど、確かに音楽の才能があったのだと思う。良い曲だった思い出だけが残っていて、サビもまともに口ずさむことのできない自分がいた。


 視界の隅で何か動く。音と共に落ち始めた、雨。


 春を待たなかったひとりの蝶が冬の無情な雨を掻き分けてこの窓の前に降り立った。雨宿りにもならない場所でじっと、体を一方的に冷たくしている。彼(もしくは彼女)は恐らく全力で生きてきたし、これからも死に物狂いで生を続けるに違いない。彼(もしくは彼女)が何か革命をもたらしても多くがそれに気がつかずにその意思は後世へ伝わらないのだろう。


 私は窓を開けた。蝶には戸惑いがあるようにも見えたがゆっくり部屋に入る。彼(もしくは彼女)を招き入れたくらいで誰かに褒められることなどきっとないけれど、部屋に二人でいるのは嬉しかったしほのかな安心感が存在した。


 蝶と目が合った。


 靴が夜道の水溜まりを蹴飛ばす。私ひとりなら濡れるがままでも良かったのだが、蝶のためにふたり傘をさして前に前に進む。不思議とこの蝶は私に張り付いたまま離れようとしなくて、たまに自らの方へ跳ねてきた雨を避けようと数歩動いては元に戻る。30分ほど歩いたなかで何回かそれを繰り返した。


 私と蝶は当然の如く母校の校門前にいた。傘を畳み、そしてさらに明確な足付きで人の無い校舎に入る。


 向かった美術室は私の通っていたときとあまり変わりがなかった。飾られた生徒の作品はもちろん当時と違うものの道具が置いてある場所はほとんど同じようだ。厚い紙と絵の具を取り出して思い付いたままに描く。灰色の絵の具が見当たらないので作るが、しかし黒と白を混ぜても求める色にはならない。


 何枚も、何枚も描いたけれど頭に浮かべた灰色には一度たりともならなかった。蝶は微かにも目を離さず見てくれていた、私の激動を。


 それから私は全ての絵があるのを確かめると、一枚いちまいに丁寧に、火をつけた。マッチ箱と棒の擦れが瞳の奥で何の引っ掛かりもなく弾けてもっと大きな物になろうとする。


 絵の束が火の塊になったところで美術室を出た。離れるに連れて背に感じる熱気は遠退く。自然と涙が頬を流れた。その熱に、親しみのようなものを感じたのかもしれない。今生の別れに似た寂しさがそこにはあった。


 校庭から蝶と一緒になって火を見つめる。今度は私も蝶も雨に濡れることを受け入れた。火は燃え広がる。奴は隣の教室も巻き込んで成長を続ける。私たちはもう、火のなかにいない。


 耳に残る名もなき曲。誰が歌っていたか、どんなジャンルだったかわからぬままに覚えていた歌詞さえ雨の音に少しずつ消されてゆく。


 ひらり、蝶が飛びたった。

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今夜は蝶が舞う 叩いて渡るほうの石橋 @ishibashi

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