AS, I go along

紫嶋桜花

パニックホラーにおける自閉症の生存可能性

 物事に集中したいとき、自分の知っている曲を聴く人と、逆に知らない曲を流すという人がいる。


 後者の人の言い分では、知っている歌だと詞が耳に入り、そっちに気分が引きずられて行ってしまうから勉強には向かない、とのことである。私とはまったく正反対の感じ方だったので驚いた。


 私は深く知っている曲こそ集中できる、という感覚の持ち主だ。

 どれくらい同じ曲を聴き続けていたかというと──実家の自室は、ふすまをスパーン! と開けると続きの間が広がり、また閉めていても欄間らんまで空間が繋がっている構造だったので、

「いつも同じ曲流れててこっちが飽きるんだけど。」

 と母にクレームを入れられたほどである。悪かったな。


 私の言い分はこうだ。

 知らない曲を流していると、ふとした瞬間、嫌な音やフレーズが流れてくる危険性があるではないか。……というか、実際に流れてきて集中が妨げられたことが何度もあった。

 この場合──まったく自閉症的であることには──、「知らない」が「ありえない」から「いやだ」に直結している確率が高いのも問題なのだが。

 分かり易く言えば、クラシックを掛けていたら途中の独唱がジャイアンだった、というレベルの作業妨害BGMに感じられるのである。


 好きなアーティストの曲でも、あんまり予想していなかった曲調や歌詞だととても落ち着かない。二桁単位で聴いていて、ようやく慣れてくる。そこを越えて聞き込んでいると、結果的には逆に惚れ込んだ曲があったりもする。

 その発見はある種感動的なのだが、しかし、勉強のたびにそのような感動体験を求めているわけにもいくまい。




 音楽に限らず、私は「わかっているもの」の法則を見て楽しむことが小さい頃から好きだった。

 母が困っていたことの一つに、「ごはんに飽きて途中で食べなくなって椅子に反り返ってしまう」というのがあったようなのだが、その時私が何をしていたのかといえば、台所の天井に貼られたタイル状の壁紙の模様を椅子に座っている間中眺めていたのである。


 私はどうも、自閉症のみならずAD/HDの傾向も持ち、特にその頃はそれが強かったようだ。そんな私にとって「飽きる」というのは他の人が考えるのと少し違った現象であるように思われる。

「飽きた?」と人に言われる時、私の中では違うことをしたくなっているというよりも、むしろ「常にアクティブ状態にしておかねばならない、いつ来るかわからない誰か・何かからのアクションを待たなければならない、それを聞き落とすといけないから他のことをしたり何かを考えたりしていてはいけない状態」がしんどくなっている。

 電源を入れたからには、ディスプレイもオンにして、常に何かを映し続けていなければならないのだ。……それをせずに沈黙していられる世間の電話機やテレビを、真剣に尊敬する。


 ごはんの場合で言えば、目の前の一つ一つ違う色・形・粘度のものに応じて、すくったりつまんだり、すすったりかみ砕いたりして、また、しょっぱかったり甘かったり、すっぱかったりする味やにおいにいちいち反応して届けられる舌や鼻からの訴えを「うん、そんなもんだな」とスルーしなければならない。この処理を自動化することができず、電源が入っている限りこうなので、それはもうしんどいといったらない。


 ごはんというものを「食べる」のが楽しくなったのは、感覚がマイルドになり、食卓で顔を合わせていて愉快な相手が見つかった十代も後半にさしかかってからのことで、それまでそれは毎日「強制されるもの」でしかなかった。「もういいよ」と言われるまで先の見えない修行を続けているかのような。

 その苦痛に満ちた時間の、数少ない逃避先が、台所の天井の壁紙だったのだ。



「飽きる」の意味合いが人と異なる私には、普通の子供が「飽きる」ような、いつもと同じ風景やおもちゃについてはとことん検討することができる。石畳、フローリングの木目、電柱の数。

 こっちは直線でこっちは曲線、この線とこの線にだけ注目すると新しい図形が現れる。当然なのだが、今日もその描線は変わらない。舌や鼻を不意に刺激してくることもない。……ただ、自分で発見した新しい図形が鮮やかに自己主張している。

 変わらない安心感と、新しい発見ができる、アン=シャーリーが言うところの「想像の余地」を私はこんなところに見つけていた。




 自閉症の特徴として、予定とは違う状況に置かれたとき強いパニックを起こす、というものが知られている。

 私は暴れたり泣き叫んだりはした覚えがないが、それは表出がそうであるというだけで、中身まで落ち着き払っているのかというとやはりその逆である。

 この強い混乱について、そのものに注目してもあんまりいい理解は得られないのではないかなあ、というのが私の実感だ。

 むしろ「想定できる」の範囲の狭さに注目するのであれば、私は自分の感覚についての説明を一つ提供できる。



 予定の変更、約束の反故、テレビ番組の特別編成。

 一般的には事情を斟酌して、「そういうこともあるか」となるだろうが、過去に一度そういうことが起こりうると説明してもらっていない限りは想定できない。「そう思える」回路が作られていないのだ。


 感覚だけで言うなら、「友人や家族、さっきまで人間だと思っていた相手が実は巨大ナメクジだった」、と言われた場合のものに近い。もしこう言われて「そういうこともあるか」と感じられたら、逆にやばい。


 そして、一度「そういうことが起こる」と説明を受けて理解しても、ではそれを応用できるのがどこまでの範囲か、という判断回路もまた存在しない。そのため今度は何でも深読みしようとしたり、意味のないところにまで意味を見出そうと悪戦苦闘する。


 さっきの例で言えば、家族が巨大ナメクジだったと判明したために、お隣さんや駅員さん、恋人、学校の先生や同僚、医者や政治家やニュースキャスターまで巨大ナメクジなのではないかと疑うようなものである。これでは次に出会う誰も、起こりうる何も信じることができない。

 それが、予定が変更されたり口約束が反故にされたときの私の実感であり、パニックの起こるしくみである。




 人間や予定は理解の外のことを起こす。新しい風景であっても同様に。

 だからあの頃の私は台所の天井を愛していたし、今でも何度も聞いた曲の方が好きだと言える。


 これはひとえに想定の範囲の問題だ。

 約束を反故にされるくらいで毎回巨大ナメクジに取り囲まれるんだから、難儀な話ではある。

 しかし一度「他人は仮面を被っていて、正体はわからない」という誤った学習をしてしまった自閉者なら、いざ実際巨大ナメクジパニックホラーに放り込まれても生き延びることはできないだろうか。




 具体的には、ことが起こるまでリア充な主人公の取り巻きに「キモっ」とか「暗っ」とウザがられているが、パニックが起きて誰もが隣人を信じられなくなったあたりで、廃墟を利用した基地に一人立てこもっているところ発見され、主人公にナメクジの弱点をもたらし協力関係を結ぶ役どころ。ヒロインからは「見直したわ」などと言われつつもモブ扱い、せいぜい便利アイテム程度のやつ。


 孤島ものだと、単独行動が徒になって2~3番目にやられる役回りではある。──しかしパニックホラーならば。

 親友の顔をくっつけた巨大ナメクジに躊躇って攻撃を与えられずにいる主人公を「理解できない」などと言いながら、ラストシーンまで生き延びる目もあるのではないか。


……とりあえず来たるべき日に備えて、塩でも備蓄しておくことにしよう。

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