第67話 蒼と白の世界

 アドレナリンが全開になった私の頭には、全ての光景がスローモーションに見えた。


 頭の回転が早すぎて、世界の方がゆっくりに感じるのだ。

 それでも体は早く動いてはくれない。手を伸ばしても届くはずがない。


 砕け舞い散る岩石と雷龍の爪の破片。その先で、アキマサじじと眼が合う。その瞬間、アキマサじじとの数日間の思い出が、ダイジェスト版ムービーのように頭を巡った。


 これが走馬灯なのか。


 私は後悔しないと決めたのに、また一つ後悔を重ねようとしている。




 ―――その瞬間だった。




 世界が白銀に塗り替えられた。




 山肌が凍てつき、大地から伸びた氷柱つららがアキマサじじの台座を貫く。まるで大地から飛び立とうとするそれを引き離さんとするように。


 続いて、全ての雨粒がひょうとなって降り注いだ。一瞬の内に暗雲は消し飛び、晴天が姿を見せる。降り注いだ陽光が氷と雪で覆われた大地に乱反射して、網膜を焼くほどの光量となって世界を包んだ。



 何が起きたのか、まるでわからなかった。


 ひょっとして私はまた、どこかの世界に飛んでしまったというのだろうか?



 パニックに陥りそうになる思考を、奥歯を噛み締めて懸命にコントロールする。もう一度眼を見開けば、確かに目の前にはアキマサじじと、それを乗せた車椅子がある。油断すればひっくり返ってしまいそうなほど仰向けになってはいるが、それを巨大な氷柱が支えているのだ。台座底から伸びた氷のトゲが大地を踏み抜いているようにさえ見える。再びアキマサじじと眼が合う。しっかりと意思を感じるその視線で、無事だということはわかった。アキマサじじは、氷の世界のおかげで、かろうじて転倒を回避していた。



 しかしこれは一体なんだろう。


 山肌は氷に覆われ、薄い雪の膜にひょうが積もっている。一瞬のうちに雪山に来たように変化してしまった世界。困惑しているのは私だけでは無かったようだった。次々に足を滑らせ転倒する狼男達も、周囲を見回して呆気に取られている。



 まるで世界の温度を一瞬で奪ってしまったような。



 私がある可能性に気が付いたのと、その声が脳内に響いたのは、ほぼ同時だった。



『間一髪、ってところかしらね』



 脳内に響いたのは、艶のある甘い、そしてちょっとだけハスキーな、いい女の声。


 その声に山頂を振り向けば、晴天の下、青く輝く宝石の体表を持つ―――そう、それはアクアマリンのような―――ドラゴンが、佇んでいた。



『遅いぞ。サンタマリア』



 サンタマリアさん。現、氷の精霊王にして、冷気を司る氷竜の長。

 そして、今しがた愚痴をこぼしたイルさんの、元カノさん。

 世界が一変する奇跡を起こした、その張本人が、そこにいた。


『なによ。あたしは随分前から山頂で待ってたわよ。だけど全然来ないんだもの。様子を見に雲を潜ってみれば、まごまごしちゃって。危うくアキマサさまが落っこちちゃうところだったじゃない』


 そういってサンタマリアさんは翼を折りたたみ、均した路面をつるつると滑り降りてくる。その姿も優雅だ。アキマサじじの目前までくると、スキープレイヤーがエッジを効かせて停まるかのように、鮮やかに停止した。


『アキマサさま。お怪我はありませんか? 申し訳ありません、こんな乱暴な方やり方で……』


 サンタマリアさんはやうやうしく頭を下げた。猛省を体で表した謝罪は、とてもいい感じだ。女の私でも許してあげたくなってしまう。


『おお、やはりお主であったか。この通り無事だよ。ありがとう。それにしても、サンタマリア。見ない間に、随分と綺麗になったなぁ。お母さんの若い頃を思い出すよ』


『やだアキマサさまったら!』


 と言いながら、女子力高くくねくねしている。


 その様子に一気に緊張感を解かれた狼男達は一斉に崩れ落ちた。初めて目にする氷竜の姿に、拝んでいるものもあった。


 しかし、なぜここにサンタマリアさんがいるのだろう。

 今回の作戦では、私からは声をかけていない。この場所からサンタマリアさんの住処まではかなりの距離があるから、そうそう呼びに行けるものなどいないはずなのだが…


「あ」


 思い返せばイルさんは、「用事を思い出した」とかで、決行前に一時姿を消していた。もしかしてイルさんは、サンタマリアさんを呼びに行っていたのではないだろうか。


 私の中に眠るわずかな乙女心が反応したので、振り向くと、そこにはなんとも言えない温かい視線を送るイルさんの姿があった。視線が合うと、バツが悪そうにそっぽを向いた。


 私の体がむずむずするのだからきっと間違いない。

 これは恋が再燃する予感!



『で、そこの人間の小っさい女』


 大人女子特有の切り替えの速さで、私に冷たい視線を送るサンタマリアさん。


「アカネです」


『知ってるわよ。もう。こんな無茶な計画を立てたのは、あんたね。頑張るのはいいことだけど、頑張るのと無理することは違うって、親から教えてもらわなかったの?』


「す、すみません……」


 まるで利用者さんのご家族からご叱責を受けているような気分だ。たいていの介護職員は利用者さんやそのご家族より若いので、こんな怒られ方をするのが、あるあるだったりするのだ。


『おい、サンタマリア。そのへんにしておけ』


 背後から釘を刺したのはヒロノブさんだった。


『手伝わないならいざしらず、遅刻してきた上に悪態とは、人に高説こうせつれられる立場か』


 意外にも手厳しい指摘に、サンタマリアさんの表情がぐわっと変化する。見ているだけで「かっちーん」と聞こえてきそうだ。


『いっちいちかんに障る言い方よね、ほんと……』


 私はこのやり取りに既視感を抱いていた。そして予想どおり、サンタマリアさんの感情の火山がどっかーんと噴火するのだった。


『なによ! 自分達だけじゃ危なげだったくせに。だいたいあんたが足を滑らせたのがいけないんでしょ! このヒロノブじじい!』


 がおー!


『減らず口は相変わらずのようだな。怒ると顔のシワが増えるところまで変わってないとは、少しは成長したらどうだ、この高慢ちきが!』


 ガオー!


 二匹のドラゴンは翼を大きく広げて威嚇しあっている。どこかで見たような光景が繰り広げられていた。

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