第30話 ドラゴンの介護福祉士
「アカネ、いっきまーす!」
ドラゴンの頭の上で華麗に右手を掲げた私は、水泳選手のようにつま先に手を触れると、そのまま頭から湖に飛び込んだ。
どぼーん!
「ぷはっ」
10メートルはあろうかという高所からの飛び込みはなかなかスリル満点だ。しかしこれが最高に気持ちいい。学生時代から興味があったのだがなかなかその機会に恵まれなかった。
「んー、最高」
自分の半身を見れば、白い泥のようなものが湖水で清められていく。つい先程、エルさんの四日ぶりの排便をサポートすべく摘便を行っていたのだった。例によって乳丸出しのまま半身が白くペイントされた私は、そのままエルさんに跨って湖畔へ到着、その頭の上から飛び込んだという所だ。
『ふむ、なかなかだったぞ』
エルさんはその巨体をゆっくりと湖水に浸していく。
「あ、わかる? アカネちゃんのセンスのよさが」
私は平泳ぎでその背中へ寄り、その表皮を素手で拭っていく。背中は私が跨ったせいで少し白くなってしまっていたので特に念入りに行った。
『人間とは真に器用な生き物だ。その体の使い方で色々なものに擬態する。まるで人魚のようだったぞ』
エルさんの皮膚の状態は良好だった。日々入浴を行うことで湿度が保たれるようになり、ひび割れたりささくれたりしなくなった。弾性が向上したので余計に気持ちいい。とくに用事が無い時などはその背中にもたれ掛かって昼寝をするのが密かにマイブームとなっている。
「人魚なんているの?」
機能訓練は日進月歩、緩やかだが少しずつ成果が出ている。腰の上がりが軽やかになり、歩行も大分スムーズになってきた。水鉄砲の飛距離も伸びてきており、精霊の力の使い方を少しずつ取り戻しているように見えた。ウルさん不在の中で本格的な飛行訓練はできていないものの、再びその翼でこの空を飛び回る日も、遠くないかも知れない。
『いるぞ。彼らは半身が人間のそれで、半身が魚のそれだ。我は海洋には詳しく無いからわからぬが、幾度か見たことがある。それは美しい姿だった』
「へぇー。それって私とどっちが美人だった?」
『………』
「すみません、冗談です」
エルさんと私の関係は相変わらずだった。エルさんの認知症にはムラがあり、取り分け寝起きなどの覚醒レベルが低い時に顕著だった。寝てリセットされるタイプだろう。なので私の名前はなかなか覚えてくれないし、一緒にやったことも覚えていなかったりする。
でもそんな中で、少しだけ変わっていったものがあった。
エルさんは私のことは覚えていてくれる。
最初の頃みたいに初対面の女という位置づけでは無くなったし、要求したい事は素直に言ってくれるし、甘えてくれもする。
毎日ちょっとずつ、彼の記憶の中に私という存在が刻み込まれていく。
私はそれが嬉しかった。
覚えられないのはしょうがない。
忘れてしまうのもしょうがない。
だってそれが認知症だから。
それでも私は覚えているのだ。
私の魂が彼と過ごした日々を忘れないのだ。
それでいいじゃないか。
私はそう思うことにしている。
「人魚って本当にいるんだね。どんな風に泳ぐんだろう。ね、人魚って男はいないのかな」
前世で死んで、異世界へ。訳も分からず始めたドラゴンの介護。
今ではこの生活が、私の宝物だ。
『ならば見に行ってみるか。我が従者よ』
私はこの先も、このドラゴンに寄り添うのだろう。
「……そういうことは、ちゃんと飛べるようになってから言って下さいね」
彼よりも私が先に死ぬかも知れない。
彼が私を認識できなくなる日は、もっと近いかも知れない。
それを考えると怖い。
――それでも。
『何を言うか。そんなもの朝飯前だ。見ておれ』
「あーはいはい、その前にご飯食べよう、ご飯」
私が自らその役目を放棄することは絶対にない。
――何故なら。
『今日はどんなご飯だ、アカネよ』
私は、エルさんの従者だから。
「今日はとびっきりの精霊石だよ、エルさん」
私は、ドラゴンの介護福祉士だから。
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