すこし哲学的な話をしようか

じゅん

絶望について

 絶望。人は、自分自身がだれからも受け入れられないことを知ったとき、それを絶望とよぶ。しかし、あの悲しみ、つらさ、切なさはどうして必要なのだろうか。

 絶望なんてなければいいのに。

 今日もどこかで誰かがそう叫んでいるのを感じる。人は、自分自身と現実がうまく融和していないことを知るとき、それを絶望とよぶ。

 しかし、あの絶望というやつは僕にどんな意味を与えてくれるのだろう。

 絶望に対して、人間がとる行動は二つしかない。

 すなわち、現実と和解できていない自分自身を恨むか、それとも自分自身とつりあっていない現実を恨むかのどちらかだ。

 たいていの人は、後者の行動をとるだろう。

 自分自身を否定されるのが、怖いからだ。

 ただでさえ現実が自分を排除しようとしているのに、自分で自分を否定してしまっては到底生きていられないだろう。

 しかし、その考え方は逃げだ。

 大人はそう言ってぼくらを非難し、鼓舞し、叱咤激励する。

 君のその考え方はなにも生み出さないし、さらに自分と現実との分かれ目を大きくするばかりで、ますます引きこもっていくだけじゃないか。そんなことをしても、なにも意味はないよ。

 大人はそう言って、孤独にひとりで泣こうとするぼくらを馬鹿にするだろう。あるいは、なけなしの同情で背中をさすってくれるかもしれない。

 どちらにしても、同じことだ。

 落ち込み、つまずき、泣いていても事態は変わらない。

 そんなの、自分だってわかっている。小さなことで、人を恨み、自分を恨み、現実を恨み、親を恨み、世界を憎んだとしても、そこに意味なんてない。

 生きていれば、だれだって困難にぶちあたるし、負けもするし、プライドをずたずたにされる。そんなの当たり前のことだし、そこまで落ち込むことじゃない。気にしないことだ。いいこともあれば、悪いこともある。そういうものじゃないか。

 そう納得していないと、生きていられないのだ。

 思えば、人類は絶望に対してつねに冷ややかな視線を送ってきた。

 男は女を支配しようとしたし、女は男に愛されようとした。戦争をおこして、他国に勝ち、侵略し、国力を増大させようとした。会社は資本を拡大し、ほかの会社を傘下に置き、世界中に支社を点在させようと躍起になった。

 女をものにできない男は軽蔑され、愛されない女は馬鹿にされ、弱い国は滅び、資本力のない会社は他の会社に合併させられたり、倒産したりした。

 向上心のない人間はくそだ。

 夏目漱石は登場人物にそう言わせたし、実際人の考え方は資本主義そのものだ。人類は競争の中で優秀な人間だけが生き残る社会を作り上げた。

 だけど、本当に人生はそれだけがすべてなのだろうか。成功や幸福や裕福や、女を支配することや男に愛されることが正義で、それ以外の敗者はいつも悪徳なのだろうか。

 ぼくはそうは思わない。もちろん、敗者も孤独も愛されないことも正義だし、それも十分に意味のあることだ。いやむしろ、ぼくたちは絶望のために生きているといってもいいぐらいだ。

 それを訴えかけるために、いまぼくはこの文章を書いているのだ。

 はっきり言おう。人間が考えた資本主義も、共産主義も、競争社会も、なにもかもすべて世界の原理とは一致しない。だからあらゆる考え方は世界を誤解した尺度で見ているのだ。

 なぜならすべては生まれ、すべては滅びるからだ。

 世界は常に一定の方向に進んでいる。それは滅亡への歩みであり、同時に創生への歩みである。

 つねに世界は隆起し、沈降し、雲や風や海のような千変万化の性質をぼくらに晴れやかに見せつけている。

 世界ではすべてが同質に扱われるし、平等に無意味に滞留しているだけだ。だからあらゆる主義は解体し、消化され、跡形もないごみとして存在しているにすぎない。

 競争に意味はない。他者と比べることに意味はない。それらは大いなる世界の中ではなにもないことに等しい。

 だから、こう解釈することもできるだろう。世界はいつも人間を裏切りつづけてきた。その圧倒的な無の世界によって、人間を存在しないものへと押し上げ続けてきた。そのとき、人間は無へと立ち返ってくる自分を恐れもしたし、哀れみもしたし、心底不安になったりもした。

 だから、社会というものを作り上げたのだ。

 自分がどういう存在かを知るため、他人と比べてどれほど優れているか、劣っているかを知るため、むしろそういう違いによって他者と関係づけられ、『つながっている』ことを確認するため。

 そんなちっぽけな自己欺瞞のために社会は存在しているのだ。

 世界は人間をあざ笑うだろう。だって、ぼくらは自分自身にうそをつき続けているのだし、それを自分で分かっていながら、それでも競争せざるをえないのだ。滑稽で、馬鹿で、憐れむべき姿だ。

 だけど、それこそが美しき人間の姿なのだ。

 そういう風に人間を考えていくと、少し絶望に対しての見方も変わってくるのではないか。というのは、この長い人類の歴史の中でなぜこれほどの苦痛を伴う絶望というものを人類が放棄しなかったのかがぼくにとっては不思議でしようがないのだ。

 今までの流れを想定すると、どうもこう結論せざるをえないだろう。

 すなわち、絶望は、個人が個人であることを自覚するために存在している。

 それは、人間が作り出した社会が、システムが、もっとも重きを置いている最大の目的なのだ。

 心理的な隔絶。社会的な隔絶。精神的な隔絶。あらゆる世界と自己との壁が立ち現れるとき、人間はその何重にも仕切られた壁の内側で、まさに『自分とはなにか』という究極の問いを考え始める。

 本来世界とは無だけを有する混沌とした同質のかたまりであり、その中では個人は解体されるだろう。だから、ぼくたちは絶望を背負い、敗北を知り、競争を知り、まさに自分自身を知るために、社会を構築せざるをえなかったのだ。

 だから、ぼくはこう断言できる。

 落ち込むときはとことん落ち込もう。落ち込んで落ち込んで落ち込んで、答えのない闇の中をぼくとともにどこまでも歩んでいこうではないか。だって、そもそも世界に答えなんて存在しないのだから。考えることなんて無意味なのだから。

 でも、だからこそ、そこに人間の価値というものが見えてくるだろう。

 つまりだ。人間は幻想の海の中で泳ぐことができるのだ。なにもないところに何かを見出そうと、持ち前の想像力によって幻を作り上げることができるのだ。

 同志よ。ぼくとともに幻想を作り上げよう。その中で戯れよう。つらく、悲しく、楽しいひと時をすごそう。

 答えのないところに、しかもその事実を知りながら、答えをでっちあげる嘘つきになろう。

 文章を書くこと、物語をつくること、人生の中に意味を与えること。それらはつまり、美しい嘘をつくことに等しい。いやむしろ、生きることそのものが嘘をつく行為なのだ。

 ぼくが君たちに伝えたいことはそれだけだ。どうやら話し過ぎたようだ。ほら、太陽が地平線に沈みかけている。 

 そろそろ、お暇させてもらおう。

 

 

 

 

 

 

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