手形
冴草
手形
親戚の持っているアパートで、ひとり暮らしを始めて二年経つ。きっかけは他県の大学への進学。肝心のキャンパスからはそんなに近くはないのがネックだけれど、タダで住まわせてもらっているし、慣れてしまえばもう不便は感じなかった。
親戚一家ともそれなりに懇意にしていて、特にそこの一人息子、伸一くんは善くしてくれた。僕より四歳ほど上だ。あまり素行は良くないし、世間で言う「倫理観」みたいなものを、あんまり意識していないのかもしれない、と早いうちに気がついた。が、悪い事に誘ってくるわけでもない。それに彼とは話が合った。お互い酒が好きだし、自分では買わないジャンルの本やDVDも貸してくれる。僕も何本か貸した。なかなか返してくれなかったけれど。
何よりありがたかったのは、「俺が乗らないときなら車を使ってもいい」と言って、車のスペアキーを預けてくれた事だ。黒のでかいバン。中古だけど、元々状態が良かったらしい上、伸一くんはきちんと掃除やメンテナンスをする人だった。あまり威圧的なんで、僕は友達やなんかは乗せられなかったが、部屋のテレビが壊れて買い替えた時はすごく重宝した。一方、伸一くん自身はこの車で友達とあちこち走り回っていた。夜中じゅう帰ってこない事もあるが、ご家族はあまり関心がないみたいだった。
一度、町中のコンビニで、伸一くんの車を見かけた事がある。ちょうど伸一くんは友達と一緒に店から出てくるところで、道路を挟んで反対側にいる僕に気づくとバツが悪そうな顔をした。周りには明らかにまずそうな、若い男性を四人伴っていた。彼らはすぐにバンで走り去った。趣味が良いとは言えない音楽が漏れていた。
でも次に家の前で遭った時、何をしているのかを僕は訊かなかった。知っても良い事はない気がしたし、それなりに仲良くしている今の関係で充分だった。向こうも言おうとはしなかった。以来、彼の交友関係を気にするのは止めた。
ある日の夕方、実家の弟から連絡があった。すまないが学校で使うから、僕の使っていた参考書数冊――全部持ってきていた――を送ってほしい、との事である。それはすぐじゃなきゃ駄目か、と尋ねると、二、三日のうちには欲しい、買っても高い物だから何卒譲ってくれと言う。仕方がないので、すぐ下の部屋に住む親戚のところへ行って古い段ボールを貰い、大急ぎで梱包した。例のバンが駐車場にあるのは見えていたので、親戚一家の部屋へ行き、玄関で応対してくれたおばさん、つまり伸一くんのお母さんに、車借ります、と告げた。おばさんは奥の居間で、テレビを観ていたらしい。夕方五時の報道番組。汚職政治家が辞任したという速報、地元の女子高生が一人行方不明になっているという話、街で人気のスイーツ専門店の特集などが、今日のヘッドラインとして画面に並ぶ。彼女はちらちらテレビの方を気にしながら、伸一は留守だと言った。
「『中が汚いから使うな』って言ってたけど、平気ならいいんじゃない。私からも言っておくよ」
そうおばさんが受けあってくれたので、ありがたく使わせてもらうことにした。
荷物を運び出し、車の後部へ回ってハッチを開ける。と、中から流れ出た強い芳香剤の匂いで噎せてしまった。いつもはこんなにきつくないのに、使うものを変えたのだろうか。それに、言っていた通りなんだか汚い。いや、雑然としているわけではないのだが、どうも汚れが残っているような、不快な感じがする。トランクルームの床面のあちこちに、うっすら残った染みを見る。前からあったかもしれない。しかし、こんなところにあっただろうか、という気もする。
首を振って、ハッチを引き下ろした。じっくり見ている余裕はない。もうすぐ配送の営業所が閉まる。
運転席に乗り込み、エンジンを始動した。アクセルを踏み、通りへと出る。強烈なラベンダー臭で吐きそうだ。コンソールボックスのガムテープが、がらごろと音を立てた。
信号待ちの最中、たまらず振り返る。さっきからどうも、後ろに誰かいる気配がする。虫くらいならいいが、羽音が聞こえない。だが後部座席の方には、何の変化もない。
思い込みだ。そうに決まってる。
アパートから営業所までは車なら十五分ほどで、背後の違和感を無視して飛ばしたら十分で着いた。駐車場にバンを停め、荷物を下ろそうとして、悲鳴を上げた。
手形がついていた。ハッチの窓にいくつもついていた。僕はしばらくそれから目が離せなかった。声も出ず、冷や汗ばかりかいていたように思う。ようやく動けるようになるまで何分立ち尽くしていたか。震える手で僕は、手形に触れてみた。手の平で擦ってみた。あまり大きくはなく、指の跡も細い。女性か十代の子どものものに思える。近所の子どもの悪戯かもしれない。だがいくら擦っても、手形は落ちなかった。汚れが強いとかではなく、効果が見られない。
内側から?
周りはまだ明るかったし、表通りには人気がある。大丈夫だ。覚悟を決めて、ハッチを開けた。荷物を即座に抱え、アスファルトの上に放る。上を見やる。上がったハッチの裏を。腕を伸ばして、袖口で窓を、今度は内側から擦る。汚れは消えた。夢中でハッチを閉めた。手形はやはり内側からついたもので、おそらく出発時にはもうあったのだ。この時間、アパートの駐車場は夕日を遮るので日陰になる。停めていた時は光の加減でわからなかったのだろう。
走って営業所に飛び込んだ。喉はカラカラだった。唾もうまく呑み込めない。まだ何が起こったわけでもないじゃないか。あれが世間で言う、霊障だって確証もない。震え続けている手に力を込めたら、伝票にボールペンで穴を空けてしまった。そんな情けない様子を、後ろから誰かが覗き込んでいる気がした。
無事荷物を預けたはいいが、あの車に乗って帰るのは気が進まなかった。どうにも嫌な予感がした。いい歳こいて情けないけれど、本当にもう乗りたくなかった。かといってここに置き去りにはできない。営業所の玄関前で散々悩んだ末、隣のコンビニで、コーラを一本買った。気付け代わりだ。店を出て一気飲みし、空いたボトルをゴミ箱に捨てる。
あまり目立たないよう深呼吸をしたのち、バンの所へ小走りで戻った。運転席のドアを開けて、さっさとエンジンをかけ発車する。少し走ったが、なんてことはない。やはり思い込みであったのだ。そういえば伸一くんは、この車に友達をよく載せている。昨夜か一昨日かはわからないが、女の子を載せたのかもしれない。もしくは、心霊スポットにでも行ったのか。何にしても気味が悪いから、そのまま放置していなくならないでほしいものだ。
安心して溜息をひとつ吐き、鼻から吸った時に気づいた。さっきと違う匂いがする。後ろの方から。最初に生乾きの布の匂いがした。次に汗のそれを感じた。ひりひりする金属。錆か。隙間風が吹くはずもないのに、空気がこっちへ押しやられてくる。
顔から血の気が引くのが時はっきりわかる。信号は黄色になり、僕は無理やり突っ込む。背後にはまた誰かの息遣いがあり、匂いは少しずつ変わる。何故匂いが変わるんだ。そして雨が降った後の、濃い、吐き気を催す香り。森のような。その角が嗅覚を刺す。
おかしい。おかしい。
車内の空気はいつの間にか熱を持ち、人混みのような湿りを帯びて、だが首元が、背中が寒い。揺れもしないのに、後部座席から何かが飛んできてフロントガラスに跳ね返り膝に載った。黒いプラスチック。それが切れた結束バンドの残骸と気づくのと同時に僕は叫んでいた。
僕は警察に見つかり、免許を取り消された。たまたま対向車線を走っていた白バイに停められたのだと聞いた。伝聞調なのは途中から記憶が無いためで、声を掛けられた途端半狂乱で運転席から転がり出てきたらしい。あまりの怯えぶりに、病気や薬物の使用を疑われたとも聞いたが、それどころでは無くなった。運転していたバンが手配されていたためだ。
そのまま警察署に連れて行かれ、落ち着いてから改めて事情聴取された。僕は親戚から借りた車だと白状し、伸一くんは自宅に戻ったところを連行された。彼とつるんでいた人達も数名逮捕された。僕は速度違反分の罰金を払い、二日ほどで解放されたが、伸一くん達は出てこなかった。恐らくもう会うことはない。
数日経って、伸一くん達の名前が夕方五時のニュースに出た。すぐに実家から親が飛んできて、しこたま叱られた。人様を轢かなくてよかった、と言われた。ショック状態の伸一くんのご両親と話し合い、僕は引っ越すことになった。幸い、大学は一週間の停学だけで済んだ。その間にお祓いにも行った。でも居づらくなって、結局講義には出たり出なかったりだ。まあすぐに就職活動の時期が来るので、なんとかなるだろう。
あれから車の運転は一切していない。
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