1-2:世界一いらない能力
「それじゃあ、詳しく聞かせてもらえるかな?」
東京都、御手洗警察署。
道路を渡れば海岸というほど海に近いこの警察署の窓からは、青青しい海原しか見えない。現在は春の終わりで衣替え前。ブレザーは少し暑いなと、経は上着を脱ぐと座っているパイプ椅子の背にかけた。夏に移り変わり始めた生暖かい風が吹くこの時期。節約だろうか、クーラーは使われておらず窓が全開の取り調べ室。
海に入るにはまだ肌寒く、さらに平日ということも相まってか普段はするはずの観光客の声は聞こえない。時折風に乗ってやって来る潮の香りが、ここが海の近くなのだと教えてくれる。
「基本的には、他の人と変わらないと思いますけど……」
経が持っていた学校指定カバン。その中身を一心不乱に見ている若い男を視界に入れたあと、経は目の前の堀巣と目を合わせた。
ただでさえ人の良さそうな顔の堀巣は、穏やかな笑顔を称えている。その目元のシワから経は堀巣が四十代半ばくらいだろうと勝手に推測したが、直接聞く気はないのか堀巣の問いに応えるためだけに口を開いた。
「構わないよ」
責めるでもなく、怒鳴るでもなく、ただ聴くという姿勢をとった堀巣に好感を持った経は、電車内での出来事を話し始める。
通学途中だったこと、前に立っていたスーツ姿の男性がひっきりなしに汗をぬぐっていたことや、赤パンプスの女性は常にスマートフォンを操作していたこと。誰かのイヤホンから漏れてくる音楽が少しうるさかったことなど、全く関係ないと思われる内容も全て話してみる。
堀巣は遮ったりせず、相槌を打ちながら経の話を聞いていた。だが奥でカバンを漁っていた男は手を止め、イライラしているのか靴の爪先で床を叩いている。
「堀巣さん、そんな関係ないところじゃなくてっ――」
「関係あるかないかは、聞いてみないとわからないよ。
我慢の限界がきたのか、若い男は声をあげた。しかし、堀巣にやんわりと注意され口を閉じる。だが、ギリギリと奥歯を噛み締めているので納得はしていないのだろう。やりとりを見ていた経はぼんやりとそう思った。
「すまないね。まだ新人なんだ」
「いえ、大丈夫ですよ」
わざわざフォローを入れてくれる堀巣に、別になんでもないと手をひらひらと振る。もしかしたら倒れた人に知り合いでもいたのかもしれない。そうだとしたら、苛立ちを募らせるのも当然だろうと思えたからだ。
「じゃあ、他にも何かあれば教えてくれるかい?」
ありがとうと微笑んで、再び堀巣が口を開いた。経は一瞬だけ静止したあと、関係あるかわからないが。と前置きをしてから、大きく息を吸った。
「変な……匂いがした、気がするんですよね」
吸った息の量からは想像できないくらい小さな声で、経はもごもごと話した。後ろめたいからではない。ただただ恥ずかしいからだ。
「変な、匂い?」
「あのー……アレをした時、みたいな」
経も一応思春期の男子だ。小学生の頃みたいに「おなら」と、大きな声で楽しそうに言うなどもうできない。
閉じた口の中で喋るように籠っていて聞き取りづらい声だったにも関わらず、堀巣はきちんと経の話した内容を理解してくれた。そして、予想に反してコクリと小さく顔を縦に動かした。
「ああ、君も感じたんだね」
「俺も……ってことは」
「署に同行してもらった人は、みんなその匂いをわずかにだが感じてたよ」
顔から火が出そうになったのは初めてだった。経がしたものだと知らないとわかっているのに、経を気遣って「それ」と発言したことすら気になって仕方がない。脈打つ心臓をなんとか鎮めるため、経は顔に集まった熱を逃すのに意識を集中した。
「まあ、大方事件の時に偶然、誰かが我慢できなくなったんだろう」
正しくその通りです、と頷く勇気は経にはなかった。我慢できなくなる時もあるよね、と朗らかに笑う堀巣は本当に菩薩のようだ。恥ずかしさがピークを超えて思考がおかしくなっていた経は、なんだか居心地が悪くなって声をあげる。
「すみません。トイレ、借りてもいいですか?」
「ああ、結構長く待たせてたもんね。案内させるよ」
重要参考人という理由で、経の事情聴取が最後だった。都合よく解釈してくれた堀巣に心の中でお礼を言って、案内を指示された中荷に続いて部屋を出る。
二人の間に会話はない。中荷の磨き上げられた革靴がかつかつと音を鳴らす中、経のスニーカーがごく稀に、床をキュッキュとこする音が響く。
「さっさとしろよ」
「はいはい」
堀巣とは全く逆のタイプに見える中荷は、嫌悪感とはまた違う、探るような視線を隠さずに向けてくるのに何も言ってこない。違和感に首を傾げるも、自分から聞く理由もないからと経はトイレの中に入った。
用を足している最中でも頭を占めるのは、当然先程の出来事。
「まあ……言えないよなあ」
そして思わず声に出して、苦笑してしまった。
「屁したの、俺だなんて」
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