どこにもない世界の獣と夢

配線

本文


 街路樹の緑が優しくささめいて、安らかな影を落としている。


 カソックを纏った色素の薄い長身の男が悠々と歩いても、通行人は気にも留めない。これはあくまで心象風景であり、実際に生きている人間は1人もいない。ただの映像のようなものだ。

 それにしても穏やかで、細部まで鮮やかな景色を観察していると、不二定という人間が愛した日常というものがどれほど彼にとって大切であったのかが窺えた。

 そしてその世界を奪い、壊したのは自分である。後悔や罪悪感はなく単にそう思い起こされて、魔神の残滓はそろそろ戻ろうかと考えた。

 この世界の主は、かつて戦った地下空間の上に位置する廃ビルに置いてきている。


「…………サダム?」


 時間だけはあるこの消失点で彼の過ごした街をゆっくりと見て回る間、少し目を離していた。

 自分が街を見たいと言った時には笑顔で手を振って見送ったくせに、いざ戻ってくると彼は血塗れで横たわっていて、アルス・マグナはまたか、と思うのみだ。



 不二は衝動を抑えるために何度も自傷行為を行なっている。しかし、過剰に活性化したレネゲイドは彼の意思とは関係なく肉体を修復してしまう。歪んだ十字架のような刃で彼自身を貫こうが、死ぬほど痛いだけで死なず、衝動は消えはしない。

 アルス・マグナにはそれがわかっていたし、不二に忠告もした。だが、止まらない。

 何もせずに耐えること、そのこと自体に耐え切れないのだろう、アルス・マグナは推測する。



 最後に見た時は屋上にいたが倒れていたのは地面なので、恐らく自傷の上転落したのだろう。それが自主的なのか、ふらつきでもしたのかはわからない。

 アルス・マグナは淀みなく、いつものように歩み寄ると不二の襟首を掴み上げ、屋上まで運んだ。





「…………アルス、」


 しばらく自分に凭れさせていた不二が身じろいで、声を発した。刺し傷だらけの死体じみた様相だった彼だが、放っておけばこうして目覚める。


「ああ。もちろん今度も、死ねはしなかったようだな」

「……わかってるって。ちょっとさっきは……思い出しちゃって」


 彼が言うのは、人間だった頃の記憶のことである。

 アルス・マグナとの戦いで人間としての不二定は全ての存在の碇を失い、ジャームとなった。その際、信じがたい強靭な精神力によって押し殺されていた衝動が顕在化し、ウロボロス・シンドロームはそれに伴い限りなく増幅され、彼は人類悪――ビースト・ワンの幼体に変貌した。


 不二定は世界の全存在から魔力を剥奪しその全てを治める王となる。

 彼の衝動が目指す願いの、どれほどおぞましいことか。


 オーヴァードたちが、それぞれに必ず衝動を抱えているのをアルス・マグナは知っている。

 強い感情の動きや他のオーヴァードとの接触などでレネゲイドが活性化すると、刺激されるという。ある者は破壊衝動、ある者は恐怖感。飢餓、憎悪、自傷。ただ、そのような分類に大した意味はない。

 重要なのは、それらが宿主の理性と生命を食い潰して発現し、災いをもたらしうるということだ。


 不二は、現実世界に存在する(さらに、未来に生まれるはずの)全ての衝動をその身に抱え込もうと言う。

 たった一つの心と身体で、何千何万の荒れ狂う力の奔流を留める柵になろうと、そう考えているのだ。


 恐らくそれは可能である。不二定の精神性と、輪廻の獣をもってすれば。

 愚かな、本当に愚かなことだ。声には出さずアルス・マグナは繰り返す。

 壊れて死ねるのならいいが、彼(の衝動)は自分が死ぬことも許さない。痛み続け、壊れ続ける。そのつもりだと言う。

 理解も、認識すらされない。彼の愛した日常は、彼1人を永遠に弾き出して続いていくだろう。それでいいと、言う。

 ヒトとは一線を画す精神構造を持つアルス・マグナからしても、うんざりするような想像である。人理焼却という目標のため途方もない時間を計画に費やしてきたが、それができたのは魔神たちが肉体を持たぬ高次元生命体であったことや、それに加えて主に追随する群体であったことも理由となろう。

 この少年はそのどちらでもない。ただの人間だった者に、そんなことが。


 犠牲の獣は装置である。充電されてスイッチが入れば、後は決められたように作用する。

 今の不二は、スイッチの隙間に入り込んだ小石に苛まれている。

 昇華されてなお彼の心を揺さぶる、絆の残響。何百の世界線を越えて初めて、不二が救うことのできた相手。


「あいつに……あいたいよ……」

 純白の祭服に血のついた背中を預けて、不二が呟いた。

 アルス・マグナは、不二の腕や腹から乾いて剥がれ落ちていくそれを見下ろす。もう傷が塞がったらしい。

 見てくれは無力な子供のそれでしかないくせに、内部ではこちらが蒸発しそうなほどの魔力が渦巻いている。何ともちぐはぐな化け物だ。



 俯いた茶髪に触れ、指先で辿って顎を掬った。上向いた顔にも血の流れた痕がある。額の傷から溢れた一筋はちょうど目蓋から頬を滑り落ち、まるで涙のように見えたが瞳は潤んでなどいない。

 獣が泣けるものかと彼自身が言った通り、彼の感情は発生と同時に殺されるようだ。


消失点ここに至ってまで捨てきれぬ想いとはどのようなものだ」

「…………うん……?」

「奴はお前に何をした? いずれ獣となる、その覚悟さえしたお前に、何を齎した」


 不二は長い息をついて、考えを巡らすように視線を彷徨わせた。

 だがやがて目を閉じると、ふっと吐き出すように笑った。


「いえない。あ、言ってもわからないからって意味じゃないぞ」

「では、なぜ」

「なんかもう、ぐちゃぐちゃで表現できないし」


「不二定がこれを明け渡すとしたら、相手は矢神だけだ。だから、お前には教えない」


 アルス・マグナは無言で返した。良いも悪いも、快も不快もない。それが不二の選択なら受け入れるだけである。


「……ごめん、アルス・マグナ。お前の欲しいものをやれなくて」

「私は私の意思でここにいる。今さらサダムに望むことはない」


 白い手袋のはまった手に、不二は手を重ねて引いた。胸に焼きついた十字の刻印まで導かれて、とんとそこに掌をつく。

 心臓の鼓動と、それを上回るほどに主張するレネゲイドのうねり。

 本人はさぞ苦しいのだろう。苦しいかとアルス・マグナが冷淡に問い質すと、不二は疲れたように頷いた。


「あのさ、また頼んでいいか。あれされてるうちは少しマシになるんだよ」

「苦痛を紛らわす術が別の苦痛でしかありえないというのも、なかなかに不毛なことだな」

「呆れた?」

「とっくに」


 巨大な目玉の浮かぶ黒いストラが生き物のように持ち上がり、枝分かれして、脱力した少年の手足に静かに絡む。

 鼻先が掠める距離に近づいて、アルス・マグナは蒼い瞳を覗く。これほどまで疲弊して、不二の瞳は未だ澄んでいた。


「ただ、どんな道行きだとしても、どんな結末になるとしても、お前が生きるのを見届けたい。そのために私を必要とするなら、応えよう」


 宇宙外存在の冷えた鉄のような声にも、不二はやんわりと笑んで返した。


「……焼いてくれ。思いっきり」




「ああ」


 アルス・マグナの肉体テクスチャからすれば小さく見える不二が長い腕に抱き込まれ、次の瞬間、2人は炎に包まれた。

 焼却式。アルス・マグナが織り上げた、凶悪な攻性魔術である。

 本来は対軍用とも言える殲滅力の高いものだが、今のアルス・マグナにはそこまで規模を広げる魔力はない。彼の力は確実に弱まっている、しかし無抵抗な1人を焼き尽くすぐらいのことは造作もなかった。


「――――――……!!」


 轟々と音を立てる炎の中に呑み込まれて、不二の悲鳴は全く響かない。

 その叫びを聞くことができるのは、同じく炎の中心に位置するアルス・マグナだけだ。


 魔神の残滓は考える。不二定はもはや自らの衝動を抑えきれない。持ってあと10年、いや、それ以下であろう。そして、自分にもそれを阻止することはできない。


 だとしたら未来を変えられるのは現実世界の住人。不二定との絆を手放さなかった者、あるいは、その協力者。

 彼らがここに辿り着く可能性は低く、辿り着いたとして犠牲の獣を打倒しうるのか、生きて戻れるかは不明である。

 それでもアルス・マグナは、待つことに決めた。最後の希望が訪れるまでは、例え全魔力を失ってでもここに残ろうと。



(なに、我々は3000年待ち続け、失敗した苦い経験がある。10年など、ほんの一瞬の夢に過ぎぬ)



 焼け爛れ、崩れては再生を繰り返す不二の両腕が、縋るようにアルス・マグナの肩を掴んだ。したいようにさせておく。泣きそうな小さな声が、ごめん、と言うのも黙って聞いた。




 今はまだ誰も知らない場所の、誰にも見えない狼煙。

 延々と燃え続ける黒い炎がそこにある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どこにもない世界の獣と夢 配線 @haisensan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る