久遠の宝石姫

@KOUCHAN1103

サファイア

目覚ましが鳴った。2つ目の物だ。3分ほど前に鳴ったスマホの目覚ましよりも大きな音で部屋中に鳴り響く。


ガンッと思い切り叩きつけるように目覚ましを止め、俺はベッドから起き上がった。


カーテンの隙間から朝日が差していた。心なしか田舎の太陽は東京よりも無駄に明るい気がする。


俺は重い瞼を擦りながら食パンにバターを塗り、トースターに放り込んだ。


ふらふらと洗面所まで行き、冷水で眼視を落とす。鏡に映る自分の顔は相変わらず不細工だった。


棚の上に置いた整髪剤をちらりと見て一瞬迷う。高校に入学した当時は毎日欠かさずに整えていた髪の毛も最近では寝癖を直すだけで登校することが増えた。


頭に軽くお湯をかけて跳ねた髪を梳かしているとチーン、と今にも壊れそうな音を立ててトースターが鳴った。


冷蔵庫からりんごジュースを取り出し、食パンと一緒に並べた。2年間ほぼまったく同じ朝食を続けている。また今日も一日が始まる。渇いた喉を通るりんごジュースの甘みがそれを思い出させた。


俺はため息をつく。この生活から逃れることは出来ないのだろうか。もしあの頃に戻れるならば。


市役所の鐘が鳴った。登校まであと15分。


もう一度大きなため息をつき、俺は重い腰を上げた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


最近変な夢をよく見る気がする。歩きながら俺は両目を擦った。


どんな夢かは覚えていない。しかしほぼ毎朝、形容し難い気味の悪い感覚がある。


「ストレスかな…」


俺は顔を上げた。アパートから徒歩10分ほどの場所にある高校。東京の実家から通うと片道2時間以上かかる上に始発でも間に合わないという理由で2年前、入学した時から一人暮らしをしている。


「こんなとこ来なければなぁ」


呟きながら、俺は髪を掻きむしった。なんて馬鹿なことをしたんだろう。中学生だった時の自分を呪いたくなる。


白い校舎から鐘が鳴った。ホームルーム開始5分前の合図だ。周りで談笑しながら歩いていた生徒たちは皆んな駆け足で校門へ入っていく。


「よう海堂(かいどう)。遅刻するぜ」


背中に衝撃が走る。前方によろけそうになるのを必死に堪え、振り返る。


「てめぇ鷹四(たかし)。朝からそりゃあないだろ」


スクールバッグを両手で振り回しながら満面の笑みを浮かべるクラスメイトの矢木(やぎ)鷹四を睨みつける。入学してから月に3度ほどのペースで同じ悪戯をされている。


「別にいいじゃん。楽しいし」


「楽しくねぇよ。意外と痛いんだぞ、それ」


教科書がぎっちりと入った鷹四のバッグに視線を移す。構えているならまだしも油断してる時にこれで殴られればそれなりに痛い。


「とりあえず早く行こうぜ。遅刻しちまうよ」


「あ、おい。待てよ」


鷹四が軽快に走り出した。俺も慌ててその後を追う。


「あぶねー。ギリギリセーフ」


8時49分。ホームルームが始まる1分前になんとか昇降口にたどり着いた俺たちは急いで上履きに履き替え、階段を駆け上がった。


教室に入ると、ほとんどの生徒は既に席についていた。幸いなことに担任の教師はまだ来ていなかった。


鞄を机のわきにかけ、木製の椅子に座ったところで教室のドアが開いた。


「「おはようございます」」


俺を除いた39人が一斉に挨拶をする。紫色の年寄りくさい服を着た中年の女性教師が満足気に頷いた。


なんの運命かあの教師は俺が入学してから今年で3年連続で担任になっている。


トラフグのように丸い体型。怪物のように分厚い唇。便所の消臭剤のような独特な臭いの香水。中世の魔女がつけてるようなダサいネックレスに無駄にヒラヒラとしたババアくさい洋服。


元小児科の看護師だったらしいが、こんな奴に看護された子供は一生のトラウマになると思う。


先生は昨日の天気の話やら近所のフードコートで学生が勉強していた話を延々と続け、一限目の授業が始まる30秒ほど前にやっと教室から出て行った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


授業は退屈だ。俺は解剖生理学と書かれた教科書を閉じた。


どこぞの病院からきた医者がつまらない教科書の内容を淡々と読み上げている。既にクラスの大半は寝ているか本を読んでいるかスマホをいじっている。一番後ろの俺の席からは丸見えだ。


茨城県立瀬山高校は関東地区内で7校しかない衛生看護科の高校だ。


栃木県と茨城県のほぼ境にあり、周りは田んぼと畑と山しかないこの高校に進学することを決めたのは中学校3年の夏だった。


そこまで偏差値も高くなかった俺は医者である父親と看護師である母親の望むような有名な高校には到底手が届かなかった。


実家から離れた学校に通いたいという俺の希望が聞き入れられるはずもなく、通っていた中学校のすぐそばにある普通科の高校に願書を出した。


しかしその後に新聞で瀬山高校の存在を知り、看護師になりたいから入学させてくれと両親を説得し、なんとか志願先を変更したのだ。


幸い受験倍率は等倍だったため合格し、念願の一人暮らしができるようになった。


一人でいる方が色々と楽だ。両親や兄弟に気を使う必要はないし、自由がある。仕送りも十分に送られてくるためそれなりに贅沢も出来る。


しかし学校生活は恐ろしいほどにつまらないし、苦痛だ。


ただ実家から離れたかった俺にとって看護師などなりたくもないし、医療にも何の興味もない。


2年間も看護や医学に関する勉強をしているが、まったく関心が沸いてこない。2年生の時に実際に病院に行って実習をしても考え方は変わらなかった。


きっと向いてないのだろう。俺にとって看護師も医療従事者も天職ではないのだ。


じゃあ一体、俺には何が向いているのだろうか?


俺は机に突っ伏して考える。


得意なことなんて何もない。昔から特別興味があることもないし、何かに深い関心を持ったこともない。


「逃げてるだけじゃん」


悪寒が走った。慌てて顔を上げ、周囲を見渡す。教室の様子はさっきまでと同じだった。誰かが俺に話しかけた訳ではない。


冷や汗が背中をつたう気味の悪い感覚に思わず顔をしかめる。


誤魔化すように机の端に教科書を置き、俺は再び突っ伏した。


目を閉じ、両腕の中に顔を埋めるようにして意識を別のことに逸らす。


新発売の漫画のこと、気になっているアニメのこと、今日の夕食のこと。


「逃げるなよ」


あいつの声だ。確かに聞こえる。聞こえるはずはないのに。


俺は席を立ち、講師に体調が悪いと伝えて教室を出た。


廊下は窓から差す春の日差しで暖かかった。しかし俺の身体は震えていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「また早退? 内海(うつみ)君最近多くない?」


「…すいません」


「あんた最近色々と評判悪いわよ」


先生の分厚い唇が動く。趣味の悪いネックレスが蛍光灯の光で輝いた。


「挨拶ができてないとか、姿勢が悪いだとか、歩き方が悪いだとか、態度が悪いだとか」


「はぁ…」


「もっとキッチリできないの?」


「キッチリ…ですか?」


「視線を上げて、もっと胸を張る。話すときはもっとはっきりと丁寧に!」


「はぁ…」


先生のくだらない説教を聞きながら壁にかけられた時計にチラリと視線をやる。早く帰りたい、と切実に思った。


「おい、今どこ見た?」


声が鋭くなる。気づかれてしまった。めんどくせぇ、と思わず心の声が出そうになった。


「別に、何も」


顔面の肉に埋もれそうになっている細い目で俺を睨みながら先生は口をパクパクさせた。


きっと何かを言っているのだろう。しかし俺の耳には届かない。気分が悪い。それどころではないのだ。


「…わかったわね。次はないわよ」


俺は頷いた。実際のところ何を言っていたのかはほとんど理解していないがとりあえず解放されたらしい。


軽く一礼し職員室を出た。鞄を取りに一度教室に戻り、講師に事情を説明して再び教室を出る。


昇降口で急いで外履きに履き替え、外に出る。花壇で煉瓦をを積み重ねる用務員に会釈し、重い校門を開けた。


早退することはたまにあった。先生の言う通り最近は帰りすぎたかもしれない。つい先週も体調不良を理由にして早退したばっかりだった。


あまり目立ったことを繰り返していると両親に連絡されてしまうかもしれない。夏休み前には保護者を交えた三者面談もあるのだ。そろそろ真面目にしなければな、と思った。


あの不気味な声はもう聞こえない。不快な感覚もなくなってきた。


最近は寝不足だったのかもしれない。帰ったらしっかり休んで明日に備えようと思った。


コンビニで夕食用の弁当と明日の朝食用のパンと間食用のアイスを買い、アパートへ帰った。


俺の住むこの古びたアパートは築15年ほどで、中はそこまで汚い訳ではないが住民はほとんどいない。


塗装の剥がれかけたドアを開き、靴を適当に脱ぎ捨て部屋に上がった。


高校生の一人暮らしにはちょうどいい広さの1LDK。


一つしかない部屋はほとんど物置と化しており、使うときは寝るときだけだった。


俺はブレザーを脱ぎ、ハンガーにかけてワイシャツ姿のままベッドに横たわった。


そのまま目を閉じると直ぐに眠くなった。意識がだんだんと遠のいていく。


眠りに落ちる直前、誰かの声が聞こえた気がした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


無限に広がる真っ白な大地。


俺は自分が地に立っているのか、それとも宙に浮いているのかすら分からなかった。


「夢…?」


呼吸が苦しい気がする。まるで深い海の底にいるような恐ろしく、不快な感覚だ。


「夢じゃないわ」


艶やかな声が聞こえた。俺は振り返る。


「また会えたわね」


その少女は俺に向かって微笑んだ。薔薇のように甘い香りがふわりと漂う。吸い込まれそうな美しい碧眼と目が合った。


「また…会えた?」


少女は首を傾げる。覚えてないの、と不思議そうに俺に尋ねた。


「誰…ですか?」


知らない。俺はこんな外国人と出会った覚えはない。しかしどうしてだろう。呼吸はより苦しくなり、胸が締め付けられるように痛い。


少女は小さく笑う。白い光を受けて輝く絹のような金髪が揺れた。


「あなたを変えてあげるわ」


誘うように少女が囁く。背筋に鳥肌が立った。思わず身構える。


「そんなに警戒しないで」


少女が一歩ずつ俺に近づく。甘い声はまるで鎖のように俺の体を拘束していた。筋肉が動き方を忘れてしまったかのようにまったく体動ができない。


「お願い。私を殺して」


華奢な腕を俺の背中に回し、真っ直ぐに俺を見つめる。その瞳はどこか悲しげだった。


「殺す…? そんなこと…」


俺は目の前の少女が何を言っているのか、その意味がわからなかった。


「ふふふ。難しいことじゃないわ」


少女が笑う。俺を抱く腕の力が強まった。がっしりと密着した少女の体は氷のように冷たい。


「あなたが直接私を殺す訳じゃないわ。ただ協力してほしいだけなの」


吐息が首にかかる。俺は思わず顔を背けようとした。しかし動くのは唇のみでそれ以外の部位を動かすことはまったくできなかった。


「ねぇ、お願い」


「無理、ですよ。そんな」


俺は精一杯に少女を拒絶しようとした。「殺す」というフレーズが恐ろしかった。この少女に関わってはいけない、と本能が告げていた。


「じゃあ取り引きをしましょう」


不意に少女が俺から離れた。体の自由が戻り、反射的に身構える。


「取り引き?」


「そう。あなたは私が死ぬまで私に協力する。そのかわり私はあなたの願いを何でもひとつ叶えてあげるわ」


「だから…!」


無理だ、と言いかけたところで少女が俺の唇に人差し指をあてた。


「さっきも言ったけど別にあなたが私を殺す訳じゃないわ。あくまで私の"自殺"に協力してほしいだけ」


「自殺…?」


「そう、自殺。あなたは何もしないわ。そしてあなたは願いを叶えられる」


「願いを叶える?」


「そう。何でもいいのよ? 億万長者になることだってできるし、人生をやり直すことだってできるわ」


「人生を…やり直す?」


ほとんど無意識に俺は聞き返していた。


「ええ、あなたが私に協力してさえくれれば容易いことだわ」


少女の甘美な声色が俺を誘う。俺は一歩前に進み出ていた。


「…何をすれば?」


「なーんにもしなくていいわよ。ただ私と契約さえしてくれればね。とりあえず私をこの世界から出して欲しいの」


「この世界?」


俺は辺りを見渡した。ただひたすら白が続く大地。光はあるが太陽はない。


「ここは"虚の世界"。とっても寂しいところなの」


少女が胸に手を当てる。美しい睫毛からは水滴が流れていた。


「お、おい」


「でも、あなたに出会えた」


少女が顔を上げる。上目遣いで俺を見上げる金髪碧眼の少女を見つめていると、なんだか懐かしいような感覚があった。


「お願い。私をひとりにしないで」


優しいソプラノが鼓膜を揺らした。俺は不随意的に頷いていた。


「ふふ。ありがとう」


無垢な笑みを浮かべる少女の両手が俺の首にかけられた。俺が少し腰を屈めると少女の金髪が揺れた。


俺の乾燥した唇に柔らかいものが触れる。薔薇の香りが鼻腔をくすぐった。


それが接吻だと気がつくのにしばらく時間がかかった。まさか17年間することのなかったファーストキスがこんな形で奪われるとは思っていなかった。


少女が唇を離す。悪戯をした後の学童のような笑顔で俺を見つめ、首に絡めた手を解いた。


「もしかして初めてだった? ごめんなさいね」


「なっ…!」


「私の名前はティアラ。よろしくね」


少女は俺に向かって軽く一礼した。どうしたら良いかわからなかったのでとりあえず俺も頭を下げる。


「うっ…」


俺は頭を押さえた。ひどい目眩がした。視界がぼやける。


「ちょうど目が覚めるようね」


「目が、覚める?」


「向こうの世界でまた会いましょう。楽しみにしているわ」


少女の胸元が淡い青色に輝いた。そのまま霧散するように体が薄くなっていく。


「おい! どういうことだ! これは…」


体から平衡感覚が消えた。世界が暗転する。


何もないはずの世界に何かが落ちる音が鳴り響いた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


薄暗い部屋。雨の音。温かい感触。


俺は目を開いた。灰色の天井がぼやけて見える。


「夢…か」


ひとりで呟き、笑う。変な夢を見ていた。そうだよな。夢に決まってるだろあんなこと。俺は可笑しくてたまらなくなった。


「女の子とキスする夢なんて…俺まじでヤバイやつじゃん」


枕元のスマホを開き時間を確認すると1時を少し回っていた。


そういえば腹が空いた気がする。体調はもう悪くなかった。


いつのまにか外は雨が降っていた。俺は起き上がり、部屋の電気をつけようとした。


「ん?」


俺は異変に気がついた。大腿の辺りに温かい感触がある。両目を擦り、"それ"を見る。


白と青を基調にした中世の貴族のような洋服を身にまとい、俺の足元で丸まっている金髪の少女。


「嘘…だろ」


血の気が引くのを実感した。こいつはさっきの夢の中にいたやつだ。


「んー」


少女がゆっくりと動く。そのままムクリと起き上がり、目を開いた。


俺は息をのんだ。夢の中でも見た美しい碧眼。サラサラと流れるような金髪。あどけない顔。


「あら。おはよう」


まるで元から家族であるかのように自然に少女が言う。


「お、おはようございます」


「ここがあなたのお家?」


部屋を見渡しながら少女が尋ねた。


「まぁ、そうですけど」


「狭いわね。日本の住宅って感じだわ」


「…え?」


「まぁいいわ。贅沢言えるような状況ではないしね」


「ちょ、ちょっと待って。あなたは、その…誰なんですか?」


俺の問いに少女は怪訝そうな顔をする。


「さっきも自己紹介したじゃない。ティアラよ。あなたと契約した」


「け、契約?」


「そう、契約。あなたは私に協力する。私はあなたの願いを叶える。同意したはずよ」


契約。同意。それはさっきの夢の話だろうか。でもなんで夢の中の少女と俺は話しているんだ。俺は頭を抱えた。何がなんだかさっぱりわからない。


「ところで、あなたの名前は?」


「へ?」


「名前よ。ネーム。あなたのお名前をまだ聞いていないわ」


「海堂…内海海堂です」


「カイドウ、ね。いい名前だわ」


「はぁ」


褒められたのだろうか。とりあえず反応しておく。


「あの、何がなんなのかよくわからないんですけど、あなたは何処から来たんですか? さっきのは夢ですよね?」


「違うわ。さっきまで私たちがいた場所は夢なんかじゃない。"虚の世界"よ」


「"虚の世界"?」


「ええ、その名の通り何にもない世界よ。あれは夢なんて素敵なものじゃないわ」


「なんで俺がそんな場所に? というかなんで君は俺の部屋にいるの?」


「"虚の世界"は現実の世界、つまりあなたが今いる世界で何かから逃れようとした人が偶然たどり着く場所よ」


少女は細い人差し指を俺に向けて続ける。


「あなた、何かから逃げようとしているでしょう?」


心臓の拍動が速まった。こいつは何を言っているんだ。なんで俺のことを知っているんだ。"虚の世界"ってなんだ。何もわからなかった。


「そして私はその世界に閉じ込められていたの」


「閉じ込められてた?」


「ええ、私は1人だけでは現実の世界に存在できない。誰かと契約しない限り"虚の世界"から出ることはできないの」


俺は少女をまじまじと見つめた。日本人ではないだろうが、間違いなく人間だ。触れたということは幽霊やオバケでもないだろう。


「…君は、一体何者なんだ? 人間なのか?」


「私は人間よ。でもね、少しだけあなたとは違うの」


少女は立ち上がった。小さな拳を握り、胸元を叩いた。


「この国の言語では"不老不死"って言うのかしら? 私は決して死ぬことができないの」


「ふ、不老不死?」


「そうよ。今年で1528歳。見た目はまったく変わらないけどね」


「そんなことあるわけ…」


俺が言いかけたところで少女が胸元へ手を伸ばした。華やかなドレスのボタンを外す。


露わになった小さな胸。胸郭の、ちょうど心臓がある辺りが薄く輝いていた。


「綺麗でしょう。私の心臓にはサファイアが埋め込まれているの」


「サファイア…」


思わず見惚れてしまった。少女の雪原のような白い肌の下で輝くブルーの光は確かに美しかった。


「この宝石には呪いがかけられているの。決して死ぬことができない悪魔の呪いが」


「呪い?」


「ええ、呪いよ。はるか昔にある男にかけられたの」


「それで…そのサファイアがあるから君は死なないし歳もとらないってこと?」


「そうよ。そしてこのサファイアは人間の願いをひとつだけ叶える。私が無事に死ねれば」


不思議だった。目の前で起きていることは俺がこれまで培ってきた常識で考えればあり得ないことだらけなのに何故かこの少女、ティアラの言っていることがすべて真実に聞こえるからだ。


「でも…何で君は死のうとしてるの? というかその、不老不死なのにどうやって死ぬの?」


「永遠の生命なんてただの悪夢よ」


少女は目を伏せる。その体は小さく震えていた。


「別れ。悲しみ。あなたは想像したことがある? 何度も何度も繰り返させる悲劇と冷たい眠りを」


俺は何も言えなかった。少女は続ける。


「もう嫌なの。私は生きているべきじゃないわ。でも現時点で私が死ぬ方法はわからない」


「じゃあどうやって…」


「それはこれから考えるわ。とにかく"虚の世界"にいたままでは何もできない。あなたと契約したのは現実の世界に来るため」


「じゃあこれからどうするんだ? 俺はどうすれば」


「とりあえずこの家に住ませていただける? ここは日本でしょう? こんな格好で外に出ていたら目立ってしかたないわ。あなた、家族はいるの?」


「いるけど、ここにはいない。家族は東京にいる」


「トウキョウ? ああ、確か日本の首都ね。ここはトウキョウではないの?」


「ここは茨城」


「イバラキ? 聞いたことがないわね。まあどうでもいいわ。ところで私がこの家に住むのは差し支えないのかしら?」


「差し支えは別にないけど…俺、男だし、部屋ひとつしかないからそっちが嫌なんじゃ」


「私は別に構わないわ」


少女は胸元のボタンをしめ、静かに立ち上がった。


「あ、おい。どこ行くんだよ」


「お腹が空いたわ。何か食べるものは?」


「食べるもの? コンビニ弁当くらいしかないけど」


「それは美味しいの?」


「んー、美味しいと思うけど…ちょっと待ってて」


俺は立ち上がり、部屋を出た。ダイニングテーブルの上に置きっぱなしにした鮭弁当を電子レンジで温める。


冷蔵庫からペットボトルの緑茶を出し、2つのコップに注ぐ。その片方を一気に飲み干した。


電子レンジが鳴る。俺は温まった弁当と緑茶の入ったコップを持ち、寝室へ戻った。


「お待たせ。日本の弁当だから口に合うかわからないけど…あ、箸よりスプーンの方がよかった?」


「大丈夫よ。ありがとう」


プラスチックの弁当の箱を外し、器用に割り箸を割る。どこからどう見ても純西洋人の少女がコンビニの鮭弁当を食べようとしている姿はなんとなくシュールだった。


いただきます、と小さく呟いて少女が鮭を口に運んだ。


「これは確か鮭ね。とても美味しいわ。ああ、さすが日本ね。ライスも他の国とは全然違うわ」


弁当をパクパクと凄い速さで食べていく。その姿を眺めていると、この不思議な少女が自分と同じ"人間"であることを実感した。


「ご馳走さま。とても美味しかったわ」


少女は箸を置き、上品に緑茶を飲んだ。


「えーと、で、結局はこれからしばらくここにいるってこと…だよな?」


「そうよ。まあ、ただいるだけっていうのも悪いから家事の手伝いくらいならやるわよ」


「え? いいよ別に」


「駄目。私が一番嫌いなのは穀潰しよ」


胸がちくりと痛む。両親からしてみれば俺はただの穀潰しだ。


「とりあえず掃除でもしようかしら。この部屋空気が悪いわ。道具はどこにあるの?」


「掃除? いいよ別に」


「嫌よ。こんな部屋にいたら喘息になるわ」


少女は立ち上がり、部屋の中をぐるりと回った。綺麗好きなのだらうか。棚やクローゼットの埃をチェックしては顔をしかめている。


「このくらい大丈夫だろ」


「嫌」


少女の鋭い眼光に思わず竦んでしまう。よほどこの部屋の汚さが許せないのだろう。俺は渋々と掃除用具を取りに玄関へ向かった。


「掃除なんて滅多にしないからこれくらいしかないけど」


掃除機に箒、雑巾、ゴム手袋などとりあえずそれっぽいものを掻き集めた。


「ありがとう。しばらくかかるだろうからどこかに行っていてくれると助かるのだけど」


「え?」


「どうせ掃除なんてしたことないでしょう? いるだけ邪魔ってことよ」


何も言えなかったか。急に現れたくせに完全に主導権を握られている。


「じゃ、じゃあ買い物に行ってくる」


俺はテーブルの上のスマホと財布を持ち、ブレザーを羽織った。


「それは助かるわ」


少女はすでに窓を全開にして掃除の準備をしていた。


「頼むから変なことするなよ」


「掃除をするだけよ。心配することないわ」


「家から出ないよな? あ、誰か来ても開けなくていいからな。面倒くさいことになりそうだし」


「出ないわよ。見つかったら困るのは私も同じだし」


「もし何かあったらそこの電話からこの番号にかけて」


俺は自分の携帯番号を書いたメモを少女に渡した。


「わかったわ」


「じゃ、行ってくる」


「行ってらっしゃい」


外は思ったより肌寒かった。雨と風はさっきよりも強くなっていた。


俺は傘をさし、近所のスーパーに向かって歩き出した。途中で何度かアパートの方に振り返る。


「大丈夫かなぁ」


心配だった。得体の知れない少女を一人で家に残してきてよかったのだろうか。現金はほとんどないし銀行のカードや保険証は財布の中に入ってるので盗られるものはないと思うが。


「…何なんだろう」


冷静に考えるとすべてがあり得ない。不老不死、呪い、宝石、虚の世界…まるでおとぎ話のようだ。


でも実際に少女は存在している。普通に会話も出来るし、食事もする。


"契約" 少女はそう言っていた。確かに俺は少女の提案にのった。「願いを叶える」それは俺にとってまたとないチャンスだと思った。


しかしそれ以上に少女の必死さが俺の心を動かした。あの白い世界の中で少女は「死」を渇望していた。


俺は「高校を辞めたい」だとか「小さい頃に戻りたい」と思うことはあっても「死にたい」と思うことはない。


あの少女が本当に不老不死だとしたらその人生はどんなものなのだろうか。少女は誰かと契約しなければ"現実の世界"には来られないと言っていた。俺の他にも誰かと契約していたのだろうか。


気になることは山ほどあった。帰ったら色々と聞いてみよう、と思った。


俺はポケットからスマホを出した。時間は2時。この時間ならまだ同級生に会うことはないだろう。


衝撃的な出来事のせいで半分忘れていたが俺は今日学校を早退したのだ。誰かに見つかったら面倒くさいことになる。


しんしんと降る雨の中、俺は小走りでスーパーへ向かった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


店内にはほとんど人がいなかった。商品を並べていた店員が俺のことをジロジロと見ている。せめて着替えてくるべきだった、と思った。こんな時間に高校生が買い物をしてるのは不自然だ。


カゴにパスタを入れながら俺はため息をついた。あの少女は何が好みなのだろうか。見た目は完全に外国人だが鮭弁当のことは気に入ってる様子だった。


とりあえず色々と買っておこう。そう思い、店内を一周した頃にはカゴの中はいっぱいになっていた。


さっきまで何度か俺の方を見ていた若い店員のレジで会計をする。


「5円プラスになりますが袋つけますか?」


俺は頷き、財布から金を出した。今日1日で結構使ってしまった。仕送りはまだあるから大丈夫だとは思うが。


そんなことを考えながら会計を待っていると俺はある異変に気がついた。


「あの、すいません?」


目の前の店員に声をかける。しかし返事はない。真っ直ぐ正面を見たまま停止していた。


「どうしたんですか?」


俺は思わず店員の肩に触れた。しかしその体はまるで石のように硬く、冷たかった。


店内を見渡す。隣のレジの店員、商品を見ている主婦、自動ドアまでもが途中で止まっていた。大音量で流れていたBGMも今は聞こえない。


静寂の空間。聞こえるのは自分の鼓動と呼吸音だけだ。全身から冷や汗が出た。嫌な予感がする。


「驚いた? お馬鹿さん」


歌うような声が背後から響いた。


俺は勢いよく振り返った。しかしそこには誰もいない。キョロキョロと辺りを見渡すが動いている人間はいない。


「どこを見ているの? ここよ」


その声は頭上から聞こえた。俺は恐る恐る天井に視線を向ける。


「う、嘘だろ」


"人"が浮いていた。いや、人なのかはわからない。腰まである漆黒の髪、緋色の瞳、氷のような冷たい透明感を持つ肌、和人形のような衣。そして紫色に輝く胸元の光。ティアラと名乗ったあの少女と同じくらいの体格をしている。


「はじめまして。あなたがティアラの"契約者"ね?」


ゆっくりと少女が下降する。俺は黙って見ていることしかできなかった。


「"私たち"に協力してくれてありがとう。感謝するわ。詳しいお話はあの子からもう聞いた?」


「だ、誰…?」


「私? 私はアリス。アレキサンドライトを持つ宝珠姫の1人よ」


宝珠姫、アレキサンドライト。意味がわからない。そういえばティアラとかいうさっきの少女もサファイアと口にしていた。


「…宝石? ティアラってやつと知り合い…ですか?」


「あらあら何も知らないのね。ま、あの子が言うはずないか」


少女は静かに俺に歩み寄った。耳元に顔を近づけられる。ティアラと同じ匂いがした。少女の囁きが鼓膜を揺らす。


「私たちの目的は"生贄(サクリファイス)"よ」










































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