第4話 先代の祈乙女
「姫ー!」
呼びかけながら石段を下りてきたのは、ふっくらした頬の女性。
五十を越える歳だが、まるで少女のように走る、先代
輿から降りた水遥可は、嬉しそうに見上げる。
「手繭良さま、お久しゅうございます」
「もうっ、『繭』とお呼び下さるようにと、以前申し上げましたよ。水遥可姫、すっかり大人になって、美しくおなりで!」
水遥可と女官見習いのレイリは、手繭良みずからの案内で客間に落ち着く。黒い格子窓越しに、美しく整えらえた庭の小さな滝が見えていた。
「さ、さ、ゆるりとなさって。……陽廉陛下がこんなに早くお隠れになるなんて、残念なことでした。水遥可姫も急なことで、戸惑っておいででしょ? 都に戻りたくなんてなかったのでは?」
手繭良はまっすぐに、水遥可を見つめた。上座の椅子に座った水遥可は、目を伏せる。
「祈宮では、穏やかな時を過ごしておりましたので、都に戻るのが嬉しいと申し上げれば、嘘になります。けれど……わたくしは降嫁する身。宮中での暮らしに戻るわけではありませんから」
「……そうね」
手繭良はうなずき、どこか不敵な笑みを浮かべる。
「亡き
手繭良に励まされるような思いで、水遥可も「はい」と微笑む。
水遥可の母、小雪野は、美しく賢い女性だった。陽廉の妃たちの中で最も若く、最も位の低い貴族の家の生まれで、他の妃たちから常に見下されていた。
はじめのうちこそ陽廉が小雪野をかばっていたものの、発言力のある家出身の妃たちがいてはそれも長くは続かず、やがて捨て置かれるようになった。
そんな母に可愛がられながら、水遥可は育ったのだ。宮中の隅で、周りの迷惑にならぬよう、静かに。
「……繭さまは、お幸せにお過ごしですか?」
水遥可はそっと尋ねる。
「もちろん!『帝と乙女の祈りが、神の御元に届いていればこそ』」
決まり文句を唱えた手繭良は、ふと格子窓から庭を眺めた。
「わたくしは、婿殿に大事にしていただきました。だから、婿殿が先に逝ってしまった時、女の身ながらこの地を預かることに決めたのよ。次の領主が成人するまで、守ろうと」
手繭良がこの地に嫁いだ十三年前、彼女はすでに四十歳を過ぎていた。ヤエタの領主の奥方は男子を産んですぐに亡くなっており、手繭良は母代わりになったのだ。
「婿殿よりもむしろ、婿殿の連れていた乳飲み子がかわゆらしくて嫁いだようなものよ。幸せな日々でした。もちろん、今もね」
手繭良は声を上げて笑い、続ける。
「亡き奥方のためにも、この任を無事に引き継がなくては」
「繭さまも、引き継ぎなのですね」
水遥可も微笑む。
「来年には、若き領主殿が誕生されるのですね。お祝いするのが待ち遠しいです」
「そのころにはきっと、姫も今より動きやすくなっておいでだわ。ぜひまたお会いしたい! わたくしは少々、都に行くにははばかられるのですけれど」
「何かございましたか?」
「ええ、まあ。かつての祈乙女が領主という地位にいると、色々とね」
手繭良は苦笑する。
「
「そう、ですか」
「さあ、お疲れでしょ、ゆっくり過ごしてね。後で息子にも挨拶させます」
手繭良は立ち上がり、水遥可ににこにこと笑いかけてから部屋を出ていった。
立って見送った水遥可は、ゆったりと椅子に座り直す。
祈乙女という任を果たしてきた者同士で話をすることは、まるで仲の良い姉妹同士のような気安い感覚で、水遥可を癒した。
しかし、すぐに彼女は考え事を始めた。
しばらくして「レイリ」と声をかける。
静かに部屋の隅で控えていたレイリが頭を下げると、水遥可は命じた。
「夕餉の後で、輝更義を呼んでください」
「はい。……水遥可さま」
珍しく、レイリの方から話をしそうな気配に、水遥可は身体をレイリの方に向ける。
「何?」
レイリはじっと、水遥可を見つめる。
「私も、お役に立ちたいです」
水遥可は軽く目を見開き、やがて微笑んだ。
「ありがとう。輝更義と話をするとき、レイリも一緒にいてください」
「かしこまりました」
レイリは目元を和らげ、頭を下げた。
夕餉は、水遥可は自室で、レイリのようなお付きの者はその近くの部屋で、そして武官たちは大部屋で交代でとる。
その後、夜の警備のために明かりの指示を出していた輝更義のところへ、レイリがやってきた。
「水遥可さまがお呼びです」
「え、あ、わかった!」
輝更義は廊下を急ぎ足で離れに向かった。
離れにはぐるりと回廊があり、回廊から突き出すようにしてあずまやがある。そこに水遥可が立って、彼の方を見ていた。彼女の白い姿を、夕日の残照が染めている。
輝更義は急いで駆け寄り、あずまやの入り口で片膝をついた。
「お呼びでしょうか、みっ、水遥可さま!」
珍しく、どこか困ったような表情の水遥可は、手にしていた扇を軽く下に振って広げながら言った。
「忙しいときに、ごめんなさい。迷ったのですけれど、輝更義しか相談できる人がいないのです」
「えっ」
輝更義は胸を高鳴らせた。
(この俺に、相談!? そういえば、祈宮でも何か言いかけて、おやめになったことが……)
水遥可は、口元を扇で隠した。庭にいる警護の武官たちからは彼女の口元が見えないよう、そして輝更義からは見えるように。
「大事な話なのです。おかけなさい」
「は……」
輝更義はあずまやの中に入り、水遥可が座るのを待って自分も椅子に腰かけた。この距離であれば、武官たちには二人の会話は聞こえないだろう。
いつの間にか、あずまやに通じる廊下でレイリも控えている。
水遥可は、一度視線を机の上に落としてから、輝更義を見つめた。
「輝更義は、祈乙女がどんな力を持つか、知っていますか?」
「力、と申しますと……その、神事によって神の声を聞き、未来を占うと」
基本的なところを輝更義は答える。水遥可はうなずいた。
「ええ。しかしそれらは、
遠くの物事や、隠されたものを見通す力――千里眼。
輝更義は戸惑いながらも答えた。
「そういった文献を、読んだことはあります。しかし、占いとどう違うのか、俺にははっきりとは」
すると、水遥可は輝更義の目をじっと見つめた。
黒い瞳の奥で、まるで狐火のように、青い光が揺らめく。
輝更義は息を呑んで、その光を見つめた。
(これを、見たことがある。……そうだ、あの時と同じ……俺が熱を出した、あの時と)
水遥可が口を開く。
「……輝更義は、
「えっ!?」
ぎょっとなって、輝更義は目を丸くした。
「ど、どうしてそれを」
水遥可は扇の陰で目を伏せる。
「今、あなたの目を通して『視た』のです。……私には、古の乙女が持っていたと言われる千里眼の力が備わっているのです」
(千里眼)
呆然となった輝更義に、水遥可は続ける。
「私がまだ都にいたとき、当時の乙女である手繭良さまを『視た』ところ、そのような力はお持ちではなかったようでした。ですから、受け継がれたのではなく、先祖返りか何かかもしれません」
次の瞬間、輝更義は大いにあわてた。
「み、水遥可さまは、それでは、俺のっ、色々、恥ずかしいことを」
「いいえ、いいえ」
彼女は白い手を上げ、急いで言う。
「力があることの証立てとして、つい先ほどの様子を少し視ただけ。よほどのことがない限り、視ることはありません」
「そ、そう、ですか」
「本当です。幼い頃は、力を面白がって色々と見てしまったこともありますが……覗き見をするのは、はしたなく失礼で、そして信頼関係を壊すことだと、母に厳しく教えられました」
(小雪野さま、ありがとうございますううう!)
輝更義は心の中で、すでに亡くなっている水遥可の生母にバシッと両手を合わせる。
(
実は今も、守り袋に入れた絵姿を懐に持っている輝更義は、背中を冷や汗が伝うのを感じた。
そんなこととは知る由もない水遥可は、真摯な眼差しで続ける。
「恥ずかしいことなんて、誰にでもあること。もちろん、わたくしにだって。それを暴くことなどしませんから、どうかわたくしを信じてください」
輝更義は、胸(と懐の絵姿)を片手で押さえこみながらも、一瞬考えてしまった。
(水遥可さまの恥ずかしいことって、何だろう。……いやいや)
あらぬ妄想を頭から追い出したとき、ふと輝更義はそれに気づいた。
「……もしかして、俺が高熱を出したときに
「あ……。あの時のこと、覚えていたのですか?」
水遥可は瞳を揺らし、輝更義からも口元を隠した。
初めて見る、その恥じらう仕草が可愛らしく、輝更義は一瞬どこか幸せな世界へ旅立ちそうになった。必死で耐える。
「……本で読んで、崖紫の実のことを知っていたのは、本当です。でも、神域にあの木があることは知りませんでした。熱の原因を知りたくて、視たのです……あなたが実を食べたところを。あのときは、嘘をついてごめんなさい」
少ししおれたその様子に、輝更義はあわてて身を乗り出す。
「謝らないでください、それこそ必要なことだったのですから。水遥可さまのおかげで、命が助かったのです。さあ、ええと、俺に何かご用なんですよね? 何なりとお伺いします!」
「ありがとう。……わたくしはね、輝更義」
水遥可は少しためらう様子を見せたが、結局いつものまっすぐな視線を輝更義に向け、言った。
「正直に言って、わたくしは個人的に、新皇帝の陽永さまが大嫌いなのです」
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