第2話 子ぎつねは山の中

 それは、霽月せいげついのり乙女として祈宮いのりのみやに着任して、まもなくのこと。現在十八歳の輝更義きさらぎが、五歳の頃のことだ。


 山の古道に忽然こつぜんと現れた石段を登りきると、玉砂利の敷かれた広場に出る。黒い壁に赤い欄干を持つ祈宮本殿はそこにあり、ちらほらと旅姿の参拝客が参拝していた。本殿から上には、一般の人間は入れない。

 その広場の参道に、一匹の子狐がふらりと倒れ込み、騒ぎになった。


 玄氏げんしは、幼い頃は狐の姿で過ごし、五歳を過ぎると少しずつ人の姿を取れるようになる。そして、都の本家から祈宮に移り住み、神域としての山の中で学んだり遊んだりしながら過ごすことで、その地を知り尽くすようになるのだ。全ては、祈乙女と神域を守るためである。

 輝更義も、祈宮に移ってきて数ヶ月経ったところだった。山に慣れてきて気が大きくなり、一人で勝手に山に入ったのだが、途中で空腹を覚え、いくつかの果実を口にした。

 するとたちまち具合が悪くなり、かろうじて本殿までたどり着いたものの、熱を出して倒れてしまったのだ。


 輝更義は、彼の家でもある守護司の寮に運び込まれた。

 大人たちに、何か虫に刺されなかったか、おかしなものを口にしなかったかと尋ねられたが、まだ小さい輝更義は何が原因なのかわからず、詳しい説明もできない。

 様々な薬草が試されたが、熱は数日に渡って下がらなかった。彼の兄たちは輝更義の命を危ぶみ、都にいる父親に使いを出そうかと相談を始めた。


 そんな時、寮の一室で苦しむ彼の元に、話を聞きつけた霽月が現れたのだ。

「霽月さま、伝染する病の可能性もあります。近づいてはなりません」

 周囲の止める声に、当時まだ十歳だった霽月は部屋の入り口で立ち止まった。しかし、中をのぞき込んで静かにこう言った。

「顔を見たいの。……輝更義、でしたね。こちらを向いて」

 低い寝台の上、狐の姿でぐったりしていた輝更義には、その美しい声がまるで気持ちのよい涼しい風のように思えた。風を顔に受けようと、耳を立て、鼻面を彼女に向ける。

 白く輝くような姿の霽月と、視線が合った。


 黒い瞳の奥で、ちらりと動く青い炎――輝更義にはそんな風に見えた。


 霽月はじっと彼を見つめ、そして話しかける。

「……輝更義。山で、紫色の細長い実を食べましたか?」

 おぼろげな記憶の中から、その実を食べたことが浮かび上がってきた。

 輝更義は小さくうなずく。

 とたん、周囲は騒然となった。

「この山に、崖紫がくしの木があったのか!」

「あれには三露さんろだ、三露の薬草を!」

 大人たちの立ち去る、入り乱れた足音が遠ざかる。


 静かになった部屋に、しゅっしゅっという衣擦れの音が響いた。

 輝更義がもうろうとしながら頭を傾けると、衣の裾を引いて近づいてきた霽月がすぐそばにいた。

 彼女は立ったまま、口を開く。

「薬を飲めば、すぐによくなるでしょう」

 その声が心地よく、輝更義はうっとりと聞き返した。

「……どうして……実……」

「植物の本で、読んだことがあるのです。高熱が出る実があると。原因がわかれば大丈夫、もう少しだけ耐えなさい」

 淡々とした口調ではあったが、最後に彼女は、ほんのりと笑みを浮かべた。

 少女から女性へと羽化しつつある、美しい人。間近で見たのは初めてだった。


 そのまま輝更義は朦朧となり、熱が下がるまでのことはあまり覚えていなかったのだが、あの時の微笑みは残像となって脳裏に焼き付いていた。


(二年前、守護司の隊を任された時にご挨拶だけはさせていただいたが、まさか十三年も前のあの出来事まで覚えていて下さったとは! ぶっ倒れてよかった!)

 無茶をした五歳の頃の自分に上首尾グッジョブと言いたい、などと懲りないことを考えながら、輝更義はようやく顔を上げた。

 うつむいた霽月は、血の気の引いた白い顔をしている。輝更義はあわてて、もう一度手を差し出す。

「今度は俺が、霽月さまをお助けする番です。さあ」

 小さくうなずいた霽月の細い手が、輝更義の大きな手に預けられる。ひんやりとした、しかし柔らかな感触。

 立ち上がった彼女の身体がふらついた。

「ごごご無礼つかまつりマス」

 ひっくり返る声を抑えながら、輝更義はもう片方の手でそっと霽月の背中を支えた。

(あああいい匂い細い柔らかい尊いもうだめ死ぬ)

 脳内の霽月部位ゾーンたぎりまくっている一方で、武官としての輝更義は彼女を注意深く階段の下まで連れて行く。

 降りきったところに、頭巾をかぶった娘が待っていた。女官見習いの童女だ。

「霽月さま」

 年の頃は八、九歳ほどだろうか。童女は色素の薄い目を見張り、輝更義からサッと霽月を引き取った。そして輝更義を、まるで睨むように横目で見る。

 その視線の動きに、彼ははっとして耳と尾を引っ込めつつ、ごまかすように言った。

「ええと、医師を呼びましょう」

「結構です。あとはこちらで」

 短く答える童女は、霽月を全身で支えるようにして廊下を去っていく。


 見送る輝更義の耳に、霽月の小さな声が聞こえた。

「占いが……」


 童女が小声で何か聞き返したようだが、すぐに二人の姿は廊下の角を曲がって見えなくなった。

 輝更義は頭の片隅で想像する。

(……もしかして、占いの結果が、良くないものだったのか……?)

 

 その数日後、都からもたらされた知らせは、今代皇帝・陽廉ようれんが病に倒れたというものだった。


 一ヶ月が経ったある日、輝更義は本殿の奥、謁見の間にいた。

 壇上の、優美な椅子に腰掛けた霽月の表情はかげり、青みがかった黒い瞳は伏せられている。

(憂いの表情も……お美しいな)

 思わず見とれてしまった輝更義は、すぐに我に返った。

(そうか。これから自分が告げることを、祈乙女である霽月さまはすでに知っているのだ)

 彼はすぐに、言うべきことを口にする。

「都の玄氏の者から、知らせがありました。三日前に、陽廉陛下、崩御されたとのことでございます」

 霽月は視線を落とし、小さくうなずく。

「はい。……帝国を導く尊いお方が……何ということでしょう」

 澄んだ声は、いつもより低い。

 齢四十の若き皇帝を失った果雫国に思いを馳せ、輝更義は哀悼の気持ちを表す。

「……まるで、南中の日輪が空から消えてしまったかのような心持ちです」

 太陽の神の血筋と言い伝えられている皇帝は、民にとって太陽に等しい。そして祈乙女は、太陽と対の関係である月になぞらえられる。

 霽月は、格子窓の外に目をやって言った。

「その光がこの祈宮に射すことは、とうとう、ありませんでした」


 複雑な感情を秘めたその言葉に、輝更義はなんと答えれば良いのか迷う。

 彼女の言葉は、陽廉が一度も祈宮に行幸しないまま崩御したことを指していた。

 霽月、というのは祈乙女としての名で、彼女の本来の名は水遥可みはるか。陽廉皇帝の末娘だ。

(父帝が会いに来られるのを、霽月さまは待っていらしたのだな……)


「わたくしが乙女の任を拝命するとき、父上からどんなお言葉を賜ったと思いますか」

 輝更義に尋ねながらも、どこかひとりごとのように言う霽月は続けた。

「祈宮に行け。そしてただ、そこにいればよい。……そう、父上はおっしゃった」

 どういう意味なのか量りかねながらも、輝更義は黙ってその言葉を聞いた。おそらく、霽月は返事を期待しているわけではないのだろう、と。

「十の時にここに来て以来、わたくしは一度も、ここを出ていません。ずっとずっと、ここにいました。老いるまで、そうするのだと思っていました」

 彼女は口をつぐみ、黙り込んだ。

 それから、輝更義に視線を戻す。

 声に、ピンと力が戻った。

「日輪の光は、全ての民のもの。国を照らす光を失って、民は不安に思うことでしょう。新たなる光が一時も早く天に昇るよう、わたくしは力を尽くさねばなりません」

 三日前、陽廉が崩御してすぐに、陽廉の弟が仮の帝・陽永ようえいとして立った。現在は、代替わりの長い儀式の最中ということになる。


 そして、対の存在である祈乙女も、代替わりすることが定められていた。

 霽月は、祈乙女の任から離れると同時に、皇女の位からも降りることになる。

 降嫁、という形で。

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