第2話 子ぎつねは山の中
それは、
山の古道に
その広場の参道に、一匹の子狐がふらりと倒れ込み、騒ぎになった。
輝更義も、祈宮に移ってきて数ヶ月経ったところだった。山に慣れてきて気が大きくなり、一人で勝手に山に入ったのだが、途中で空腹を覚え、いくつかの果実を口にした。
するとたちまち具合が悪くなり、かろうじて本殿までたどり着いたものの、熱を出して倒れてしまったのだ。
輝更義は、彼の家でもある守護司の寮に運び込まれた。
大人たちに、何か虫に刺されなかったか、おかしなものを口にしなかったかと尋ねられたが、まだ小さい輝更義は何が原因なのかわからず、詳しい説明もできない。
様々な薬草が試されたが、熱は数日に渡って下がらなかった。彼の兄たちは輝更義の命を危ぶみ、都にいる父親に使いを出そうかと相談を始めた。
そんな時、寮の一室で苦しむ彼の元に、話を聞きつけた霽月が現れたのだ。
「霽月さま、伝染する病の可能性もあります。近づいてはなりません」
周囲の止める声に、当時まだ十歳だった霽月は部屋の入り口で立ち止まった。しかし、中をのぞき込んで静かにこう言った。
「顔を見たいの。……輝更義、でしたね。こちらを向いて」
低い寝台の上、狐の姿でぐったりしていた輝更義には、その美しい声がまるで気持ちのよい涼しい風のように思えた。風を顔に受けようと、耳を立て、鼻面を彼女に向ける。
白く輝くような姿の霽月と、視線が合った。
黒い瞳の奥で、ちらりと動く青い炎――輝更義にはそんな風に見えた。
霽月はじっと彼を見つめ、そして話しかける。
「……輝更義。山で、紫色の細長い実を食べましたか?」
おぼろげな記憶の中から、その実を食べたことが浮かび上がってきた。
輝更義は小さくうなずく。
とたん、周囲は騒然となった。
「この山に、
「あれには
大人たちの立ち去る、入り乱れた足音が遠ざかる。
静かになった部屋に、しゅっしゅっという衣擦れの音が響いた。
輝更義がもうろうとしながら頭を傾けると、衣の裾を引いて近づいてきた霽月がすぐそばにいた。
彼女は立ったまま、口を開く。
「薬を飲めば、すぐによくなるでしょう」
その声が心地よく、輝更義はうっとりと聞き返した。
「……どうして……実……」
「植物の本で、読んだことがあるのです。高熱が出る実があると。原因がわかれば大丈夫、もう少しだけ耐えなさい」
淡々とした口調ではあったが、最後に彼女は、ほんのりと笑みを浮かべた。
少女から女性へと羽化しつつある、美しい人。間近で見たのは初めてだった。
そのまま輝更義は朦朧となり、熱が下がるまでのことはあまり覚えていなかったのだが、あの時の微笑みは残像となって脳裏に焼き付いていた。
(二年前、守護司の隊を任された時にご挨拶だけはさせていただいたが、まさか十三年も前のあの出来事まで覚えていて下さったとは! ぶっ倒れてよかった!)
無茶をした五歳の頃の自分に
うつむいた霽月は、血の気の引いた白い顔をしている。輝更義はあわてて、もう一度手を差し出す。
「今度は俺が、霽月さまをお助けする番です。さあ」
小さくうなずいた霽月の細い手が、輝更義の大きな手に預けられる。ひんやりとした、しかし柔らかな感触。
立ち上がった彼女の身体がふらついた。
「ごごご無礼つかまつりマス」
ひっくり返る声を抑えながら、輝更義はもう片方の手でそっと霽月の背中を支えた。
(あああいい匂い細い柔らかい尊いもうだめ死ぬ)
脳内の霽月
降りきったところに、頭巾をかぶった娘が待っていた。女官見習いの童女だ。
「霽月さま」
年の頃は八、九歳ほどだろうか。童女は色素の薄い目を見張り、輝更義からサッと霽月を引き取った。そして輝更義を、まるで睨むように横目で見る。
その視線の動きに、彼ははっとして耳と尾を引っ込めつつ、ごまかすように言った。
「ええと、医師を呼びましょう」
「結構です。あとはこちらで」
短く答える童女は、霽月を全身で支えるようにして廊下を去っていく。
見送る輝更義の耳に、霽月の小さな声が聞こえた。
「占いが……」
童女が小声で何か聞き返したようだが、すぐに二人の姿は廊下の角を曲がって見えなくなった。
輝更義は頭の片隅で想像する。
(……もしかして、占いの結果が、良くないものだったのか……?)
その数日後、都からもたらされた知らせは、今代皇帝・
一ヶ月が経ったある日、輝更義は本殿の奥、謁見の間にいた。
壇上の、優美な椅子に腰掛けた霽月の表情はかげり、青みがかった黒い瞳は伏せられている。
(憂いの表情も……お美しいな)
思わず見とれてしまった輝更義は、すぐに我に返った。
(そうか。これから自分が告げることを、祈乙女である霽月さまはすでに知っているのだ)
彼はすぐに、言うべきことを口にする。
「都の玄氏の者から、知らせがありました。三日前に、陽廉陛下、崩御されたとのことでございます」
霽月は視線を落とし、小さくうなずく。
「はい。……帝国を導く尊いお方が……何ということでしょう」
澄んだ声は、いつもより低い。
齢四十の若き皇帝を失った果雫国に思いを馳せ、輝更義は哀悼の気持ちを表す。
「……まるで、南中の日輪が空から消えてしまったかのような心持ちです」
太陽の神の血筋と言い伝えられている皇帝は、民にとって太陽に等しい。そして祈乙女は、太陽と対の関係である月になぞらえられる。
霽月は、格子窓の外に目をやって言った。
「その光がこの祈宮に射すことは、とうとう、ありませんでした」
複雑な感情を秘めたその言葉に、輝更義はなんと答えれば良いのか迷う。
彼女の言葉は、陽廉が一度も祈宮に行幸しないまま崩御したことを指していた。
霽月、というのは祈乙女としての名で、彼女の本来の名は
(父帝が会いに来られるのを、霽月さまは待っていらしたのだな……)
「わたくしが乙女の任を拝命するとき、父上からどんなお言葉を賜ったと思いますか」
輝更義に尋ねながらも、どこかひとりごとのように言う霽月は続けた。
「祈宮に行け。そしてただ、そこにいればよい。……そう、父上はおっしゃった」
どういう意味なのか量りかねながらも、輝更義は黙ってその言葉を聞いた。おそらく、霽月は返事を期待しているわけではないのだろう、と。
「十の時にここに来て以来、わたくしは一度も、ここを出ていません。ずっとずっと、ここにいました。老いるまで、そうするのだと思っていました」
彼女は口をつぐみ、黙り込んだ。
それから、輝更義に視線を戻す。
声に、ピンと力が戻った。
「日輪の光は、全ての民のもの。国を照らす光を失って、民は不安に思うことでしょう。新たなる光が一時も早く天に昇るよう、わたくしは力を尽くさねばなりません」
三日前、陽廉が崩御してすぐに、陽廉の弟が仮の帝・
そして、対の存在である祈乙女も、代替わりすることが定められていた。
霽月は、祈乙女の任から離れると同時に、皇女の位からも降りることになる。
降嫁、という形で。
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