降嫁おとめと守護ぎつね
遊森謡子
第一章 伴侶選びの儀
第1話 水鏡の乙女
空気はしっとりと水分を含み、甘い花の香りをまとっている。
「はぁ……。つらい」
眼下に開けた光景を見つめながら、ため息混じりに両手を合わせる。
「あのお方が美しすぎてつらいので、とりあえず拝んでいいですか」
苔蒸した岩が細く高く、何本もそびえている。そんな巨岩群の合間から、山の斜面に張りつく赤い
滝を眼下に臨む位置に、まるで広い舞台のような円形の見晴らし台が突き出ていた。輝更義の視線はそこに据えられたまま、離れない。
なぜならそこには、彼の憧れの
高く結い上げた黒髪は、金の
この見晴らし台は、神に祈りを捧げる場所で、
花の形をした大きな水盤の上に、女性の手からひらひらと花びらが落とされた。彼女が歌うように
女性は緩やかに両手を合わせたり、片手を額や耳にあてたりする祈りの所作をしながら、水盤を見つめている。
緩やかに風が吹き、女性の羽織った薄物がほっそりした身体の周りを、天女の衣のようにふわりふわりと舞う。
「……今日も尊いな……
頬を緩めてはため息をつく、輝更義である。
山の奥深くに存在するこの建物群は、『
祈乙女とは、ここ
皇帝は、祈乙女の占いを元に
そして、祈乙女を含む皇族を守る『守護司』の任には、
「静かだ……」
つぶやく彼の姿もまた、彼の一族が、とある神の血を引くことを示していた。
長い黒髪は後ろで一本にまとめられ、その頭の両脇の黒い耳が遠くの音まで拾おうと澄まされている。上衣は丸首の襟を首の横で留め、下衣は袴、その袴の隙間からどのように飛び出ているのかふっさりとのぞく尾は黒。剣の鞘と
玄氏の本性は、瑞獣の黒狐なのだ。
普段は耳や尾を出したままだと女官たちに厳しく注意されるが、誰も見ていない今、そして周囲を警戒するべき時には、人間の耳よりも遠くの音を聞き分ける狐の耳を立てている。
彼が今まさに従事しているのは、水鏡壇で占いをする祈乙女に、誰も近づかないように見張る職務である。
祈宮では一
ふと、祈乙女・霽月の動きが止まった。
しばらくの間、彼女は水盤を見つめたまま静かに立っていたが、やがて身を翻した。占いが終わったのだ。
彼女が背後の床から突き出した柄を倒すと、見晴らし台の上を通る水路が開かれ、水盤の水が花びらとともに川へと流れ落ちていく。この花びらを下流で拾った民は、縁起物として身につけるという話を輝更義は聞いていた。
(むしろ俺が欲しいわ! 霽月さまのお手に触れた花びらとか! むしろ花びらを包む水になりたい! ……はぁー。さて、仕事、仕事)
祈宮の存在する山全体は神域であり、守護司は常にそこを護っている。輝更義はいい加減にうっとりするのをやめて、霽月が水鏡壇から降りるのを待ってから見回りの任務に戻ろうとしたのだが――
壇を降りる石段の途中で、霽月がふらりとよろけた。欄干にすがるようにして、座り込んでしまう。
「あっ」
反射的に、輝更義は枝から跳んだ。
いくつもの岩を足場に、一気に壇に近づく。女官は水鏡壇への立ち入りは許されておらず、祈乙女に何かあったときに助けられるのは、ここでは狐神の子孫である玄氏の者だけだ。
「霽月さま!」
ざっ、と石段に着地した輝更義は、霽月のそばに片膝をついた。
「いかがなさいましたか!」
「……あ」
欄干に捕まった手に顔を伏せていた霽月が、ゆっくりと顔を浮かせた。
伏せられた長い睫からのぞく、青みがかった黒い瞳。陶器のようななめらかな頬、薄紅色のふっくらした唇。その唇が、澄んだ声を紡ぐ。
「少し……めまいが。香に酔ったのかも、しれません。大丈夫です」
(わあああ! 霽月さまのお声!
輝更義は声をうわずらせてしまう。
「こ、香、ですか」
身じろぎする霽月から、
狐の鼻は敏感だが、この香は祈宮ではよく焚かれるもので、輝更義は慣れていた。
「そ、それでは、早くお着替えを。下で女官が待っております。……よ、よろしければ、そこまで、お手を」
輝更義は、緊張でがくがくぶるぶると震える手を差し出した。もちろん、霽月に触れたことなど今まで一度もない。初めてである。
「はい……」
小さくうなずいた霽月は、ようやく顔を上げた。
二人の視線が出会う。
霽月の瞳に、ふと光が点った。
「……輝更義」
「えっ」
名前を呼ばれ、かちーん、と、輝更義は固まった。
霽月は、彼をじっと見つめる。
「輝更義、でしょう……? 小さい頃、山で熱を出した、あの……。違ったかしら」
「そ、その輝更義でございますー!」
輝更義は思わず、その場に平伏した。
(覚えていて下さった!)
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