第1章 あの場所へ ⑥人生が一変する
「ホントに、何もないね」
美咲の声はかすれていた。
「全部、流されちゃったんだね」
ああ、とオレは短く答えた。
これほどまでとは。
これほどまで、ダメージを受けていたとは。
あの日、家にいた人も家ごと流されて亡くなった。
オレが津波の映像を観たのは、東京に行ってからだ。避難所ではテレビを観る気になれなかったから。家も車も大きな船もあっけなく流されて、橋にぶつかった一軒家が、まるで紙でつくった家のようにクシャクシャに壊れていく映像を観たときは、息ができなかった。
なんだ、これは。この家にいた人、どうしたんだろう。避難したんだろうな、きっと。避難していてほしい。
そんな風に、今さらだけど祈ったんだ。
「ここに住んでいた人たちは、今どうしてるんだろ」
美咲がポツリとつぶやく。
分からない。ここは、人が暮らしていた記憶を根こそぎ持って行かれてしまったんだ。
住んでいた人は、きっと、どこかで新しい人生を送ってるよ。そんな気休めみたいなこと、オレには言えなかった。
今にも雪が降りそうな、厚い雲に覆われた冬の空。10年前のあの日も、こんな天気だったっけ。
どんよりした天気の日は、あのころを思い出すから嫌い。
あの、ヒリヒリした日々。
「いいな、美咲ちゃん、スタイルがよくてうらやましい」
転校した日、体育の時間があって、体操着に着替えていたときだった。近くにいた女の子が話しかけてきた。ちょっとぽっちゃりした色白な子、名前は静香ちゃん。
「え?」
私はたぶん、固まっていた。
「私さ、身体測定のときに、保健の先生から注意されちゃって。肥満の傾向があるんだって。それからママがうるさくて。野菜ばっか食べさせられるんだよね。でも、それだけじゃお腹すくから、甘いものをこっそり食べちゃうの」
静香ちゃんは私の反応を気にせず、ペラペラとしゃべり続けた。
私はちょっとムッとしたかもしれない。
私がスタイルいいわけないでしょ。
転校してきた私に対して、気を遣ってお世辞を言ってくれてるのかもしれない。でも、よりによって体型を言わなくてもいいじゃない。
私は抗議をする気にもなれず、適当に話を合わせた。
校庭に向かうために階段を下りていたとき、ふと、踊り場に貼ってある大きな鏡の中の自分に気づいた。
「えっ」
私は思わず足を止めた。
仙台にいた頃の私はデブだった。
ママが料理好きで、私がたくさん食べると喜んでくれたんだ。だから、いつも残さず食べてたし、おかわりもした。私の体型について、ママは「大きくなったら痩せるわよ」って、真剣に受け止めていなかった。
前の学校では、デブだブタだと散々からかわれてた。もう、鏡を見るのが大っ嫌いだった、あの頃は。朝、顔を洗うときにチラッと見る程度で、デパートで全身が映る鏡を見かけたら逃げたくなった。
けれども。鏡には、信じられないほどすっきりと痩せた、私の姿が映ってたんだ。
私はしばらく呆然と鏡を見つめていた。
これが私? これが、私?
「どうしたの?」
静香ちゃんが、不思議そうに訊ねる。
「あ、ううん、顔に何かついてるかなって」
「何もついてないよ」
「うん」
適当にごまかしてその場を去ったけれど、胸はいつまでもドキドキしていた。
避難所にいる間は、まともにご飯を食べられなかった。配給される量が少ないっていう理由もあったけど、精神的に参っていて、まったく食欲がなかったんだ。
多分、それで自然とダイエットになったんだろうな。あんなに悩みのタネだった体のお肉が、どこかに消えちゃった。
それにしても、痩せたってことにそれまで気づかなかった自分にも、驚きだった。仙台にいた時は、それどころじゃなかったから。服も寄付されたものを着ていたから、サイズダウンしたなんて気づかなかったんだ。
その日は、かけっこで自分の体が軽くなっているのを実感した。あんなに体が重くて足がもつれていたのが嘘のように、スイスイと走れる。
今までビリしかとったことがないのに、いきなりクラスで真ん中ぐらいのタイムになった。ビリは、さっき私を褒めた静香ちゃんだった。
静香ちゃんが、しきりに「給食食べたばっかだから、苦しくて」と言い訳しているのを聞いて、「分かる分かる。私も、マラソンで吐いちゃったことあるもん」と返した。
今までは、自分が言い訳する側だったのに。
ホントいうと、そのとき私はちょっとだけいい気になってた。間違いなく、いい気になってた。
勉強も、最初のころはついていけなかったけど、必死に勉強したらクラスで上位になった。まるで、地震をきっかけに、理想の私に生まれ変わったみたいだった。
「いいな、美咲ちゃんはスタイルがよくて」
「いいな、美咲ちゃんは頭がよくて」
周りのみんなから、うらやましそうな眼で見られる。
私は普通の人とは違う。特別な人間なんだ。
私はそう思い始めていた。
子供の思い込みって、すごい。
静香ちゃんが体のことで男子にからかわれていたときに、
「もう、やめなよ、そういうの。私、大っ嫌い」と、止めに入ったんだから。男子も、私から言われると、なぜかシュンとなった。
静香ちゃんには感謝され、尊敬のまなざしで見られた。
クラスのみんなから薦められて、生徒会の書記に立候補し、見事当選した。
パパは私の活躍を素直に喜んでいた。ママだけは、「美咲はこっちに来てから、変わったわねえ」と複雑な表情をしていた。私がどこかで無理をしていると、見抜いていたのかもしれない。
今思い出しても、胸が痛む、あのころの私。
今までの人生で一番輝いていたはずなのに、胸が痛むんだ。だって、それは転げ落ちるために山に登っていたようなものなんだから。
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