祈り
凪
第1章 あの場所へ ①2021年、3月11日
それは、ささやかな旅行の計画だった。
オレはまだ後一年学校があるし、美咲はもうすぐ臨月を迎える。
ホントは旅行なんて行ってる場合じゃないんだけど、
「産まれる前に新婚旅行をしておいたら? 産んだら、そんな余裕はなくなるから」
と、美咲のお母さんが提案してくれたのだ。
オレ達は結婚式を挙げないので、せめて思い出作りに、と思ってくれたのかもしれない。旅費はお母さんのへそくりから出してくれることになった。美咲のお父さんには内緒だけど。
旅行って行っても、お腹が大きい美咲と一緒に行けるところなんて、限られてる。
どこに行こうか。
国内旅行のパンフレットを山ほどもらってきて、二人で片っ端から見たんだけど、どこもピンとこなかった。
そうなんだ。
どこに行こうか、じゃない。
オレ達の行き先は、もう、決まっていたんだ。
「仙台、か」
オレがポツリとつぶやくと、美咲は唇をキュッと結んでうなずいた。
その言葉を待っていた、と言わんばかりに。
いつ行くか、なんてお互いに言わなくても分かった。
3月11日。
オレ達は、その日に仙台に戻るしかない。その日以外に帰るなんてこと、あり得なかった。
オレと美咲が仙台を出て10年が経つ。
その間、二人とも、一度も仙台には戻らなかった。
10年ぶりに東北新幹線の仙台駅のホームに降り立ったとき、何と言うか、初めて来た場所のようで、不思議な感覚だった。
ホームの椅子にボストンバッグをどさりと投げ出すように置いて、オレはぐるりとホームを見渡した。ホームの売店、駅名の看板、エスカレーター。何か記憶に残ってないかと思ったけど、何を見ても「懐かしいなあ」なんて気は起こらない。ちょっと肩透かしを食らった気分だった。
でも、無理もない。あの頃だって、そんなに仙台駅には行ったことがないんだから。
海辺に住んでいたオレにとって、仙台駅は同じ市内でも都会というイメージだった。
あの地震のとき、仙台駅もメチャクチャになったけど、今は何ともない(当たり前だけど)。普通のきれいな駅になっていた。10年前、仙台を発つときは、まだあちこち修理中だった気がする。
美咲は顔を高潮させながら、「あっ、あのお菓子の看板、懐かしいっ」なんて、軽くはしゃいでいる。
いいよな、はしゃげる思い出があって。
オレはちょっと羨ましくなった。
ボストンバッグから地図を取り出す。
そのボストンバッグ。何の変哲もない俵型のボストンバッグで、両外側には1つずつポケットがついている。茶色い皮はすっかり黒ずみ、持ち手は一度根元から取れてしまって、縫い付けてある。
たぶん、安物だろう。だけど、オレにとっては宝物の一つなんだ。あのとき、高田のおじさんが持たせてくれたんだから。
あれは確か、5月ごろだったか――。
どこのホームだったのか、覚えていない。覚えているのは、新幹線に乗り込んでからの光景だ。
窓の外では、高田のおじさんとおばさん、卓也が窓に張りつくようにオレを見ていた。3人とも、泣いていた。涙と鼻水で顔はグチャグチャになっていて、鼻は真っ赤だった。
オレは、ボストンバッグを抱えていた。前の日、おじさんとおばさんが、「こんなものしかないけど」「東京に行ったら、きっと新しい服を買ってもらえるよ」と言いながら、避難所でもらった服やおもちゃ、学校の友達がくれた寄せ書きなんかをバッグに入れてくれた。
それと、オレの宝物。
メチャクチャになった家から奇跡的に見つかった、一枚の家族写真。
父ちゃんの財布。
母ちゃんの指輪。
真吾の幼稚園の名札。
それらはおばさんがタオルに包んで、大事に包んでくれて、荷物の一番上に乗せてあった。
オレは泣かないようにぐっと歯を噛みしめたんだけど、ダメだった。どうしても、涙がボロボロこぼれ落ちる。
今考えてみれば、あの地震より前に、大人が泣く姿なんて見たことはなかった気がする。
でも、避難所では大人も泣いていた。
それはいろんな涙だった。
家族を亡くした人が夜中、毛布をかぶりながら泣き声を押し殺していたり。
家族と再会を果たした人が抱き合って泣いたり。
お医者さんや看護士さんに優しい言葉をかけられて、涙を流したり。
避難所で赤ちゃんが産まれたときも、みんな感動して泣いていた。
夜中、トイレに起きたとき、外で月を見ながら静かに泣いている人も見かけた。
オレは一回だけ大泣きして、それ以来、ピタリと泣かなかった。
高田のおじさんもおばさんも、そんなオレを見て、たぶん心配してた。おばさんはたまにオレをギュッと抱きしめてくれたし、おじさんはよく頭をなでてくれた。気恥ずかしかったけれど、ありがたかった。あのとき、人のぬくもりがオレの唯一の支えになっていたんだな。
「元気でな」
「いつでも帰って来なさいよ」
窓越しに、おじさん達の声がかすかに聞こえる。
卓也はもう、ワンワン泣いていて、何も言える状態じゃない。オレも、うなずくだけで精一杯だった。
発車のベルが鳴って、駅員さんに促されて、3人はようやく窓から離れた。
新幹線が動き出すと、3人はしばらく早足で追いかけてきて、スピードが上がると走ってついてきた。まるで映画やドラマのワンシーンみたいに。ホームが見えなくなるとき、3人が大きく手を振っている姿がチラリと見えた。
駅を出てしばらく経っても、オレは窓から離れられなかった。抱きかかえているボストンバッグの上に、涙が水溜りをつくっている。
ふと、肩を優しく叩かれているのに気づいた。
「坊や」
振り向くと、隣の席のおじさんが真っ赤な目でハンカチを差し出している。頭が禿げかかった、スーツ姿のおじさんだった。
「これで、涙を拭きなさい」
おじさんは涙声だった。オレは素直に受け取って、涙を拭いた。
それから、東京に着くまでの間、おじさんは優しくしてくれた。
「寒くないか?」「暑くないか?」「お腹すかないか?」って、ずっと声をかけてくれた。
お茶をくれたり、お菓子やお弁当を買ってくれたり。本当は、高田のおばさんが持たせてくれたお菓子やおにぎりがあるんだけど、言い出せなかった。
胸がいっぱいで食欲はなかった。でも、ボクは懸命に食べた。というより、のどに詰め込んだ。
「おじさんのお母さんもね、津波で亡くなったんだよ」
おじさんは、ポツリと言った。
「親父は随分前に死んで、一人暮らしだったんだけどね。一人でね、あんな恐ろしい津波に巻き込まれて、怖くて苦しかったんじゃないかって思うとねえ……」
オレはきっと、何も答えられなかった。確かおじさんは、他にも色々話してくれたけど、もう覚えていない。オレは途中から寝てしまったのかもしれない。
東京駅について新幹線を降りるとき、おじさんはオレの頭をなでて言ったんだ。
「元気でな」
その目には涙が浮かんでいた。
あのときのおじさん、名前も何も聞かなかったけど、今でも感謝してる。
きっと、どこかで幸せに暮らしてますように。
オレには、そんな風に、祈ることしかできないんだけど。
「隼人」
美咲の声に、我に返った。
美咲の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。何も言わなくても、今、お互いに何を思い出していたのかは分かる。
「卓也君たち、待ってるんでしょ? そろそろ行こうよ」
声がかすかに震えている。
オレは小さく頷き、ボストンバッグを肩からかけた。
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