第22話 二人の歌姫(下)
笛の音がやみ、ルルが舞台袖に姿を消しても、観客席に音は戻らなかった。
女帝は大きな椅子にぐったり身をあずけ、なにかしらもの思いにふけっている様子だった。
そして、その静寂の中、舞台にコリーダが現れた。
流れるような漆黒のドレスは、彼女の身体美を強調しており、首周りに薄雲のように巻かれたヴェールが、彼女の神秘性を高めていた。
それを目にした客席のジョセフィンは、独り言をつぶやいていた。
「ふん、大道芸まがいの出しものじゃない!
この女の歌も、たかだか知れたものね!」
静寂の中で、やけに大きく響いた彼女の言葉は、しかし、それを聞くものなど誰もいなかった。
舞台に立つ、黒褐色の肌を持つ女性から伝わってくる、圧倒的な存在感に、みんなが言葉を失っているのだ。
手にしたクリスタル型の魔道具を、コリーダが胸の前に持ってきたとき、客席のジョセフィンの顔が、邪悪な笑みに歪んだ。
家令のフォルツァに命じ、その魔道具に細工させておいたのだ。
そのため拡声の機能は失われているはずだ。
聞こえるかどうか、ぎりぎりの声でコリーダの歌が始まり、彼女は拡声の魔道具から手を離した。
カラリ
乾いた音を立て、クリスタルが舞台に転がる。
しかし、それに注意をはらう観客など、一人としていなかった。
コリーダの声が、静かな波のように、舞台を、そして会場を浸しはじめたからだ。
その場にいるすべての者が、歌姫の声に溺れた。
◇
司会が催しの終わりを告げ、客席から人がいなくなっても、ジョセフィンは座席から動くことができなかった。
あれが本物の歌。
それじゃあ、私が今までやってきたことはなんだったの?
絶望と羨望、後悔と渇望が交互に彼女を襲う。
そして、それが過ぎさった時、残っていたのは、虚しさと自己嫌悪だった。
彼女は、すぐ横に人が立っているのにも気づけなかった。
「ジョセフィンさん?」
その声を聞き、反射的に顔を上げる。
そこに立っていたのは、コリーダだった。
薄いヴェールは外しているが、黒いドレスは舞台に立っていた時のままだ。
間近で見ると、彼女の美しさは、さらに際立っていた。
「あ、あの、あなたは――」
「コリーダです。
あなたの歌、とても良かったわ」
一瞬、頭に昇りかけた血が、彼女の目を見てさっと落ちつく。
この人は、心からそう言ってくれている。
「私の歌なんて……。
それより、負けましたわ。
私、これでも、少し歌に自信がありましたのよ」
心からそう言いながら、ジョセフィンは、ドロドロと粘つくものが、体からすうっと抜けていくのを感じた。
「ジョセフィンさん、歌に勝ち負けなんてありませんよ。
私には、あなたの歌が歌えない。
自分の歌を大事にしてください」
「……コリーダさん、いえ、コリーダ様。
一つお願いしていいでしょうか?」
「なんでしょう?」
「私を貴方の弟子にしてくれませんか?」
コリーダの形がよい唇が、驚きのため少し開いた。
「……残念ながら、それはできません。
なぜなら、私の歌は、私だけのものではないからです」
コリーダは目を閉じ、胸に両手を当てると、彼女に歌を教えてくれた、血のつながらない母、そして、一人の青年を思いうかべた。
「そう……それは残念です。
でも、私には目標ができました。
いつの日か、あなたと肩を並べ歌いたい」
微笑むジョセフィンの目からは、一筋の涙がこぼれた。
「ふふふ、思わぬ場所で、ライバルに出会えたわ」
コリーダが笑顔になる。
「負けませんことよ!」
生来の勝気をとり戻したジョセフィンがキッと見かえす。
「あはははは!」
「おほほほほ!」
観客のいない舞台に、歌姫二人の笑い声が響いた。
会場の出入り口脇の壁に背を着け、それを陰から見守っていた青年が、肩の白猫を撫でながらその場を後にする。
茫洋としたその顔には、珍しく明るい笑顔が浮かんでいた。
◇
荷物を確認するため控室まで来たリーヴァスは、軽く肩を叩かれた。
「リーヴァス、久しぶりだな」
「む、もしやフォルツァ殿か?」
振りかえったリーヴァスの前には、年老いていたが、かつて知る一流冒険者の姿があった。
「ああ、老けただろう?」
「ははは、そうは見えませんな」
「ウチの嬢ちゃんが、色々迷惑かけた。
コリーダ殿だったかな?
あの歌姫が使う拡声の魔道具に細工したのは私だ」
「ほう、なんのことですかな?
彼女の舞台は、見事なものでした。
なにも起こらなかった。
違いますかな?」
「……やれやれ、お前さんにゃほんと敵わないな。
俺が一番脂がのったとき決闘で負けたのに、またこの年で負けるのかよ。
老骨には、ちときついぜ」
「ははは、まだ言うほど老けてはおりませんぞ」
「ふふふ。
ああ、そうだ。
女帝には気をつけろ。
間違っても、『天女』がなにかなんて調べるんじゃねえぞ」
「む、そうですか。
もし、その忠告を聞かず、調べたくなったらどうすればいいですかな?」
「……やれやれ、お前さん、変わらねえな。
相変わらず、竜の
俺なら、南方のカーライル辺りを調べるかな」
「貴重なお話、感謝ですぞ」
「なんのことだ?
「ははは、そうですな」
「そうさ。
ギルドも無くなって、俺たち冒険者にとってこの国は窮屈な場所になっちまった。
また昔みたいに依頼をこなしながら旅がしたいぜ」
「もしかすると、その望み、叶うかもしませんぞ」
「……あんたがなんとかするってのかい?」
「いえ、ウチには活きのいい若いのがおりましてな。
すでに世界群の危機を二度救いました」
「あははは!
相変わらず、冗談の好きなやつだぜ!
じゃあな!
またどっかで会おうぜ!」
「ええ、ではまた」
二十年ぶりの再会だというのに、フォルツァとリーヴァス、ふたりの挨拶は、あっさりしたものだった。それは、いかにも冒険者同士らしいといえた。
「またどこかで会おう、ですかな。
意外と早いかもしれませんぞ」
リーヴァスは、フォルツァと反対方向へ歩きながら、そんな独りごとを洩らしたのだった。
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