第4話 地の底で

 マスケドニア=アリスト、両国を隔てる国境の一部は、深い谷になっている。

 これは、石灰岩地形の柔らかい大地を水が侵食してできた地形で、場所によっては、二百メートルを超える深さがある。

 そのほぼ最深部ともいえる谷底に、二つの人影があった。

 立派な青い狩衣が目立つ壮年の男性と、薄青い長そで長ズボンを身に着けた二十歳くらいの若い女性で、彼女ははこの世界には珍しい黒髪だった。


 彼らが着る上等な生地の上下は、その所々が破れていた。

 ただ、谷を成す崖の上から落ちたにしては、不思議な事に大きなケガをしているようには見えなかった。


 それは、男性が持っていた魔道具によるものだ。

 二人がもつれるように谷底に落ちた時、『防護の魔道具』が発動し、二人を風魔術のシールドで覆ったのだ。

 二人が谷底近く降りるまで、シールドは球の形を保ち、男女二人をその中に守った。

 使い切りの魔道具が壊れ、最後の十メートルほどで彼らは宙に投げだされたが、男が風魔術を唱え、勢いを十分殺して地面まで降りることができた。


 そうはいっても、着地した時、そのはずみで地面をかなり転がったのだ。

 全く何もなかったわけではない。

 ところが、娘が挫いた左手は、彼女が患部に右手をかざすと、その手が白く輝き、まるで最初からケガなどなかったように治った。

 彼女は、男が負っていた足首の負傷も、同様に治療しおえたところだ。


 キュキュイ


 崖際にある岩の陰から、ウサギに似た小型の魔獣が顔をのぞかせる。


「あなた!

 無事だったのね!」


 娘が声を掛けると、魔獣は岩陰からぴょんと跳びだし、男を警戒するような仕草を見せながら、彼女に近づいた。


 ◇


『飛びウサギ』を抱えたヒロコは、とても美しかった。

 ウサギを撫でる彼女が見せる、とろけそうな表情が余の心を鷲掴みする。


「ヒ、ヒロコ、ケガはないか?」


「……」


 ぐうっ、余は何を間違えたのだろう。

 ヒロコは、こちらを見むきもしない。

 崖から落ちる前、ヒロコがショーカに掛けた声が蘇る。


『ショー、あんたも、陛下も最低ね!』


 ショーカを「ショー」と呼ぶのは、若くして亡くなった彼の母ルートレだけだったはず。ヤツは、なぜヒロコにその呼び方を許しているのか?

 胸に痛みが走る。

 落下の際、余は胸を痛めたのかもしれない。


 ◇


 谷底の細い地形は、地面が比較的平らで、ところどころ大きな岩が転がっていた。

 中央には、飛びこせるほどの幅しかない小川が流れている。

 水は透きとおっており、手で触れると身を切るように冷たかった。


 見上げると、白い崖の壁面にはところどころ灌木や草が見られたが、なぜか、下方にはほとんどなにも生えていなかった。

 谷側に迫りだした岩肌により、崖上の草原までは見通せない。それに、たとえ見通せたとしても、騎士たちがここまで降りてはこれまい。この谷は、人が降りるにはあまりにも深すぎるのだ。


 まっ白な崖が陽の光を反射するからか、谷底は思ったより明るかった。

 そこを半日は歩いたろうか。

 明るかった谷底にも、次第に夕方の影が差してきた。


 ここに来るまで、余が話しかけても、ヒロコは無言のままだった。

 彼女が機嫌を損ねた理由が分からないので、取りなす方法がない。

 今まで女性はおろか、いかなる者からも、このような仕打ちを受けたことがない余は、ただ戸惑うだけだった。


 痛めた足を治癒魔術で治してくれたことからも、彼女が完全に余を嫌っているとは思えない。

 それより……。


「ヒロコ、そなた聖女なのか?」


 ヒロコは問いかけに答えず、魔獣を抱えたまま黙々と歩いている。

 治癒魔術は、魔術の中でも特に難易度の高いもので、彼女が余に施したほどの術が使えるのは、聖女か聖騎士くらいだろう。

 聖騎士は男性が就くのが普通だと言われているから、ヒロコは聖女かもしれない。


 いずれにせよ、彼女を他国にやることはできない。

 聖女にせよ聖騎士にせよ、一度、国が抱えこんでしまえば、国外どころか城外にも出さないほど貴重な存在だ。

 そうなってしまえば、二度と彼女に会えなくなる。

 崖から落ちた時、痛めたと思われる胸にまた鈍痛が走った。

 

「おかしいわ」


 突然ヒロコが立ちどまった。


「どうしたのだ、ヒロコ」


 ヒロコは谷底中央を流れる小川を見ている。

 小川を見ると、水量が増えている気がする。先ほどまでより流れが速くなっているようだ。

 そして、透きとおるようだった水が、白く濁っていた。

 

 その時、何かの音が、谷の上流から聞こえてきた。音は谷間に木霊し、次第に大きくなってくる。

 やがて、谷の曲がり角から、音の正体が現われた。

 それは、白く渦巻く濁流だった。


「ヒロコっ!」


 彼女の腰をしっかり抱く。彼女に投げとばされなかったのを喜ぶ間もなく、二人とも水の壁に押し流された。

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