第5話 激流


 激流にもまれながら、余はヒロコを離さないよう強く抱きしめた。

 二人の頭が水面に出たところで、何とか風の魔術を唱えようとする。


「風の精霊よ、我に――」


 そこで濁流が押しよせ、再び水底へと引きこまれる。

 そして、また水面へ浮上する。

 それを何度かくり返した後で、やっと魔術に成功する。


 ワンドを使わず詠唱したので、風の動きは不安定だ。 

 それでも、余とヒロコを水面に浮かせるくらいの現象は起こせた。

 風が作る球に包まれ、二人の体は水面ぎりぎりに浮いている。

 しかし、このままだと、余の魔力が尽きるのは時間の問題だ。

 

 ヒロコは気を失っているようだ。水の冷たさで、彼女の唇は紫色になっていた。

 なんとかせねばならぬ。

 何があっても彼女を助けねば!


 おお、あれは!

 少し下流、そそり立つ岩肌に、洞穴が見えた。

 問題は、そこまでどうやってたどり着くかだ。


 余は風の球を少し水に近づける。

 防壁の役割を担っている球を下げすぎると、再び濁流に呑みこまれるおそれがある。

 ワンド無しで精密な魔術を使うため、魔力が一気に失われていくのを感じる。

 ヒロコと余を守る風の防壁球、その底が流水に触れる。

 その事により、風で作った球が少し下流に動いた。

 しかし、同時に防壁球がぐらりとバランスを崩す。

 必死でそれを立てなおし、球状に張った風の防壁球を洞穴の前までもっていく。

 

 洞穴の前まで来たはいいが、新たな問題が立ちふさがった。

 余が作る風の防御球は、その魔術の特性上、横方向に動かすことができない。

 しかも、洞穴は水面よりやや高い位置に、その口を開けている。

   

 人の背丈ほどの距離が、無限と思えるほど遠くに感じられた。

 すでに魔力切れの兆候である、強い頭痛が始まっている。

 魔力の残量は後わずか。ぐずぐずしている時間はない。

 ヒロコを胸に強く抱きよせ、魔術を唱えた。


「火の精霊よ、我に従え!

 ファイアーボール!」


 伸ばした手の先に握り拳大の火球が生まれる。

 それを背後の足元に投下した。

 風の防壁と濁流の接点にそれが命中する。

 

 ボンっ


 爆発音がし、防壁球の内側がまっ白く染まる。

 背中に衝撃を受け、呼吸が停まる。

 ヒロコを抱えた余の体が、何かに強くぶつかった。

 

「がはっ!」


 左側頭部を強く打ち、溜めていた息が吐きだされる。 

 動こうとすると、背中に激痛が走る。

 ヒロコと余は、岩床に倒れていた。

 無事とは言えぬが、なんとか洞穴の中に入れたようだ。

 目と鼻の先で白い濁流が渦巻いていた。


 意識が遠のきかけた私は、首を振り頭をはっきりさせる。

 ここは洞穴の入り口だ。

 水位が上がれば、濁流がここまで来るだろう。

 今、気を失う訳にはいかないのだ。

 

 気を失ったままのヒロコを抱えあげ、やや上に傾斜している洞穴を奥へと進む。

 魔力切れからくるめまいに、もどかしいほど足は動かず、永遠と思えるほどの時間が掛かったが、入り口の光が届かなくなった頃、やっと広い空間に出た。

 自分の足音が反射する響きで、それが分かったのだ。


 ヒロコを足元にそっと降ろし、腰袋に手を伸ばし火起こしの魔道具を出す。

 魔道具は湿っていたが、なんとか火が灯った。

 それを地面に置くと、思ったよりも広い空間が照らしだされた。

 ほぼ円形の岩床で、ニ十歩で端につくほどの広さがある。


 小さな魔術灯では光が届かないほど、岩室の天井は高かった。

 洞窟は枝分かれし、さらに奥へ続いているようで、岩壁に大小の穴が開いていた。

 空気の流れが感じられるから、いずれかの穴は、外へ通じているのかもしれない。

 以前、ここを訪れた誰かが残しただろう焚火の跡があり、その近くに木切れが散らばっていた。 


 木切れの中で細いものを選んで焚火跡に並べ、火起こしの魔道具を近づける。

 乾いていたのだろう、木切れにはすぐ火が着いた。

 先ほどより太い木切れを継ぎたすと、ヒロコを抱きあげる。


「ぐうっ!」


 背中に激痛が走る。

 身体が上げる悲鳴に逆らい、焚火の横まで運び、そこにそっと彼女を横たえる。

 冷たい水に濡れたままだと、体温が下がり命の危険がある。ショーカから、そう聞いたことがあった。

   

 洞穴へ入る時に負傷した、ずきずき痛む左腕を上にして、ヒロコの側に横たわる。

 焚火の明かりに照らされた彼女の顔は、女神のように美しかった。

 彼女が息をしているのを確かめ、ほっとした瞬間、余の意識はフッと消えた。


 ◇


 頬に湿ったものが触れる。


「キュキュゥ」 

 

 小さな鳴き声を聞き、私は目を開けた。

 薄暗がりの中、目の前に耳の大きなウサギの姿があった。

 私の頬に鼻を押しつけてくる。

 頭を撫でると、目を細めている。


 そこは洞窟の中らしく、周囲は岩壁で囲まれていた。

 比較的平らな岩床には、焚火があったが、それはすでにきになっていた。

 

 身体を起こすと、横に陛下が横たわっていた。彼はなぜか呼吸が早く、その様子は明らかに普通では無かった。

 

「陛下!

 陛下!」


 彼の身体を揺するが、目を覚ます気配がない。

 その体を起こそうとしたとき、彼の背中側の服が、酷く傷んでいるのに気づいた。

 近くに置いてあった、火起こしの魔道具を点け、陛下の背中を照らす。


「ああっ!」


 私は思わず悲鳴を上げた。

 青い狩り衣には大きな穴が開いており、その周囲が焦げたように黒ずんでいる。

 陛下の背中はその一部が剥きだしで、信じられないほど大きな水膨れができていた。

 恐らく火傷だろう。


「なんでこんなことに……」


 そこでやっと崖から落ちたことや、濁流におし流されたことを思いだした。

 火傷の原因は分からないが、陛下は負傷した身で激流から私の身を守り、ここまで運んでくれたのだろう。

 愛しさと心配がこみ上げる。

 とにかく、今は陛下を治療しなければ。


 私は、陛下の背中に手を近づける。

 心を鎮め、彼の火傷が治っていくイメージを思いうかべる。

 自分の右手が白く光りだし、癒しの光が陛下の背中を包んだ。


 陛下の火傷はかなりひどく、何度も治癒魔術を掛けなおさなければならなかった。

 背中から水膨れが消えると、早かった陛下の呼吸も落ちついてきた。

 汗が浮かぶ陛下の額に手を当てる。

 凄い熱だ。


 彼の服は、その一部がまだ湿っている。このままではいけない。

 アウトドアが趣味の史郎君から聞いていた、このような場合の対処法を思いだした。

 

 陛下の服を全て脱がす。

 二人の服から比較的渇いているものを選び、それを焚火近くの岩床に敷く。

 熾きになっている焚火に、新しく木をくべる。

 火がおこったところで、ためらわず服を脱ぎ、陛下の背中に身を寄せる。その上から、残った服を掛けた。

 発熱で早くなった陛下の鼓動が、裸の背中を通し私の素肌に伝わる。

 

「陛下……」


 陛下への思いが、激流のように体の中を走りぬける。

 私は両腕で陛下の身体にしがみついた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る