第五章 阿部清美 8
『モーニングタイム』の星座占いは本当によく当たるもので、俺はのどかと清美のやり取りを聞きながらニット帽を深く被り伊達眼鏡を決してずらさぬようぶるぶると震えていた。
「ごめんなさい、本当は行くべきだとわかっているんだけれど……」
「いえ。兄の葬式に来てくださったあなた達を追い返したのは私なので」
追い返したのかお前。折角葬式に来てくれたのに。色々あったみたいだけど、一応≪
「……申し訳ないと思っているわ。お葬式は勿論、お線香のひとつも上げていない……だって彼は私の――」
「あなたにその権利があるとお思いで?」
清美の言葉を、のどかがぴしゃりと刃物みたいにして切り捨てる。息を飲む清美。俺からは表情は全くわからないけれど、二人の声が、空気が、行動が、すべてを俺に伝えてくれる。
「兄との待ち合わせに遅れたどころか、不貞をしていて忘れていたなんて……信じられません。人として、母親としても」
清美が、ぐっ、と息を飲む。コーヒーが苦い。こんなにも苦いものだったのか、コーヒーというものは。愛想のないマスターが、どばどばと角砂糖とミルクを突っ込む俺のことを不思議そうに見ている。ごめんねマスター。折角入れてくれたのに。
けれど俺の後ろの清美とのどかは、コーヒーよりももっともっと苦い話を続けている。
「……兄のことは遊びだったんですか」
「ちがっ……」
「あれほど好きだと言っていた兄のことは遊びだったんですか。兄の親友の健一さんと関係を結ぶほど、それほどまでにどうでもいい存在だったんですか。折角のクリスマスの約束を忘れてしまうほど、それほどまでにどうでもいいようなことだったんですか」
「そんなわけ――」
「兄は」
のどかはそこで一度言葉を止め、続けた。
「本気でしたよ。あの日のために、一か月間殆ど休みを取っていないようでしたから」
落ちる沈黙。時計の音がちくたくちくたく音を刻む。古い古い壁掛け時計だ。正午と十五時、十八時になると中から動物達の人形が出てきて太鼓で時刻を知らせてくれる。まだ十一時二十分。熊や兎は人形は出てこない。
秒針がもう一回りしたくらい、清美が漸く口を開く。
「わ、たしは……浩之が好きだったわ。本当に好きで、好きで、大好きで、だからこそ」
清美が、ぐ、と息を止め、吐き出した。
「不安だったの……彼はいつも明るくて、頼りがいがあって……いつだって、皆の輪の中心にいたわ。目立って、輝いて……私はそれが嬉しくて、誇りで、自慢で……だからこそ、とても、不安だった。いつか彼が離れてしまうんじゃないかって、私みたいななんの取り柄のない女、すぐに愛想つかされるんじゃないかって、もっと別の、素敵な女性に取られてしまうんじゃないかって、いつだって、気が気でなかった」
「……だから、健一さんと関係を結んだんですか?」
「違う!」
そこで初めて、清美が声を荒げる。そして、はっ――と我に返ったように呼吸をし、続けた。
「……彼は、浩之の親友で、彼のことを一番知っていて……なんでも相談できたから……」
「兄を裏切っているという意識はなかったんですか」
「……勿論あったわ。でも……」
かちゃり、という食器の音で、どちらかがカップを置くのがわかった。多分のどかだ。のどかは俺に似て気が短いから、こうやって意識的に、気持ちを落ち着かせなければならない。
「あの日、兄との約束は忘れていたんですか?」
「勿論覚えていたわ。ただ、ずっと会えてなくて、寂しくて、それで……」
「別の誰かと関係を結べば、兄を繋ぎ止められると? 兄が嫉妬してくれるとでも?」
黙る清美。それが鼻水をすする音になり、泣き声に変わる。ずるい女だ。弱く、儚くて、いかに自分が可哀そうなのかを演出する方法を知っている。
「事故の連絡をもらって……後悔したわ……もし、私があの日健一と会っていなかったら、ちゃんと時間通りに行っていれば、って……」
「後悔しても兄は帰ってきません」
ぴしゃり、と氷みたいに跳ね返すのどかに、清美は何も言えなくなる。
「……私はずっと、あなた達のことを恨んでいました。もし、あなたが健一さんと会っていなかったら、あの日、約束に遅れなかったら、いいえ、あなたと兄が出会っていなかったら、付き合っていなかったらと、ずっとずっと、そう思っていました……勿論、あなたの娘さんにも」
「そんなっ……娘はなにもっ!」
「わかっています。でも、私も人間です。教師として彼女達の前に立つ反面、ずっとずっと、思っていました。あの日、大雨の日も……どうして兄は死んだのに、この子は生きているのかって。兄はトラックに轢かれ、あんなにも辛い思いをして死んでしまったのに、どうしてこの子はこんなに元気で、笑って、生きているのだろうと。八つ当たりなのはわかっています。でも、そう思わずにはいられなかったのです……でも」
のどかはそこで一拍置いて、続けた。
「不思議ですね。あの大雨の日、あの子を助け、毎日毎日教壇の上から見守り、教え……誕生日を祝ったこともありました……そうしたら、とても愛しく、大切な存在に思えて……」
のどかはそこでごそごそとなにか音を立てた。
「これは?」
と清美が言う。
「……兄の遺物です。恐らく、十五年前のあの日、あなたに渡そうとした」
俺は思い出す。十五年前のクリスマス・イブ。十二月二十四日。一か月間殆ど休みなしで働いて、給料の三か月分をつぎ込んだ。
「……ずっと、私が持っていました。あなたに渡したくなかったから。でも、もう、私には必要のないものです……ただ、忘れないでください。あなたのことを、本当に愛した人がいたということを」
のどかがそこで、がさごそと席を立った。
「娘さんはとても素直で素敵な子です。成績も優秀で、これからの未来も楽しみです。どうか、娘さんのことをきちんとサポートしてあげてください。それでは失礼します、加藤心愛さんのお母様」
ちりんちりん、という音は、のどかがこの場を去ったという証拠だ。壁掛け時計が愉快で軽快な音を立てる。熊と兎と鳥の人形がぴょこんと飛び出て、正午丁度を知らせてくれる。俺はニット帽を深く被り伊達眼鏡をかけたままずっと背中を向けているので、清美がどんな顔をしているのかわからない。スマホが鳴っている。俺じゃない。
「……心愛ちゃん? 今? 今ね、ちょっとお友達と会っていて……ええ? わかってるわ。明日のケーキのことでしょう? 大丈夫、最高においしいケーキを作ってあげるから……」
なんて立ち上がる清美の声はしっかりしているが、今にも倒れてしまいそうだ。店を出る清美の目元は真っ赤になっていて今にも泣きだしてしまいそうだが、それはもう、俺の仕事じゃない。
俺は冷めたコーヒーを前にしたまま、カウンター席に座っていた。ブラウン管のテレビの中では相変わらず野球選手がバッドをぶんぶん振っていて、なんとかっていう野球選手がホームランを打った辺りで漸くココアがやってくる。
「テル君? テル君! なんでそんなニット帽被って眼鏡なんかしてるの!? 誰かと思っちゃった!」
なんて騒々しく俺の隣に座るココアは台風みたいに騒がしくて、先ほどまでの陰鬱な空気を一気にどこかに吹き飛ばす。ミルク色のダッフルコートを着て白い花のカチューシャをつけたココアは、まるで冬の妖精みたいだ。
「ほんとごめんね! ベリーちゃんが彼氏と別れたって大泣きしちゃって!」
嘘だろベリ子彼氏いたのかよ。彼氏いたくせに藤崎のことかっこいいとか言っていたのかミーハーめ。
「はぁ、でもテル君待ってくれててよかった! ママがね、あんまり遅れると帰られちゃうよ、なんていうからさ。本当にごめんね! お腹空いたよね、ママからお金余分にもらったからご飯のお金私が出す……」
と、そこで、俺の隣に座ったココアが何かに気が付く。伊達眼鏡をかけた俺の顔をじいっと覗き込み、心配そうに首を傾げた。
「テル君、大丈夫? なにかあった?」
何もないよ、と俺は言う。
ココアは、そっか、と答えたまま、メニュー表を手に取り開いた。
「ここ、わたし初めて来たんだけど、結構ご飯おいしいって! 穴場だってママが言ってた!」
「へぇ」
「何がいいかなぁ。ほら、このオムカレーハヤシなんておいしそうじゃない?」
「太るぞ」
「運動するからいいんですー」
なんでベロを出すココアは本当にかわいい。かわいくてかわいくて、思わず涙が出てしまいそうだ。
清美。
弱くて頼りなくて泣き虫だった清美。
甘えるのがうまくて料理が苦手で卵焼きすらうまく焼けなかった清美。
恥ずかしがり屋ででも頑固で、構ってやらないとすぐ拗ねた。
守ってやらないと、俺が慰めてやらないととずっとずっと思っていた。
俺が悪いのかわからない。
清美が悪いのかもしれないが、一概にそうとも言えない。
だって俺達は、現にこうして間違えてしまっているのだから。
双方の理解がないと、間違いなんて簡単に起きるのだから。
涙は出ない。決して悲しくないわけじゃない。ただこの悲しみは、長い時間をかけて氷のように徐々に徐々に溶けていき、俺の体の一部になるのだ。
俺は『ラ・ブール』で食事をして、ココアと共に店を出る。『ラ・ブール』はずっとそこにあるだろう。今までも、これからもきっと。
俺は空を見上げる。いい天気だ。青くて、澄んでいて、雪の一つも降りそうにない。隣ではココアがはしゃいでいる。明日のケーキは何がいいとか、プレゼントはこれがいいとか、こんなゲームがやりたいとかそういうこと。そんなココアの話を適当に流し頷きながら、俺は思う。
理想の形ではなかったのかもしれない。
幸せな結果にはならなかったのかもしれない。
でも、お互いがお互い、本当に相手のことを考えて、愛していた。
さようなら、清美。
俺の愛した人。
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