第五章 加藤清美 7
思い返せば『喫茶店 ラ・ブール』はいつだってそこに存在していた。
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当時まだ十歳にも満たない俺にとって喫茶店の食事なんて『お洒落』以外の何物でもなかったし、父さんと二人きりで摂る食事はとんでもなく特別なことだった。
『ラ・ブール』での食事の後、父さんはいつも俺に言った。
「母さんには内緒だからな」
唇に手を当てて小声で話す父さんはとんでもなくクールでかっこよかった。今となって考えると、多分、母さんにはばれていたと思うけど。
『ラ・ブール』は狭くて小さくてちょっと寂れた喫茶店で、正直いつ潰れてもおかしくはない。駅前にあるくせに風景に溶け込みすぎて、誰かにトントンと肩を叩かれなければわからないようなそんな場所。学生時代は、健一や清美と連れてよく来た。ここに来るのは久しぶりだ。もう、十五年ぶりくらいか。≪
初老のマスターは、俺がカウンター右端に腰かけたことで、愛想のひとつもなく水を出してくる。これもいつも通り。俺はこのマスターの笑顔を見たことがない。
店内には俺の他に誰もいなくて、まぁよく経営が成り立っているという感じだ。ブラウン管テレビで野球中継を見ながらグラス拭きとか、優雅すぎるだろう。そのグラス、一体誰が使ったんだ。
一見さんだとビビッて逃げてしまうくらいの愛想のなさだけれど、俺は何度も来ているので気にせずメニュー表に目を通す。コーヒー。アイスコーヒー。コーヒーフロート。メロンソーダ。へぇ、昔はメロンソーダなんてなかったのに。マスター、さり気に時代を追っているじゃないかと感心しつつコーヒーを頼む。
マスターはコーヒーにこだわっていて、豆から挽くので時間がかかる。それもまたよし、男の楽しみ嗜みってやつだ。ココアやライトじゃわからない遊び方だ。大人の男は余裕と落ち着きがないと困るのだ。
そこでまたココアからLINEが来る。
『もう少し時間かかっちゃうかも! ごめんなさいっ! 必ず行くから!』
全く、母子揃って時間にルーズで本当に困る。
さて、ネルドリップからゆっくりコーヒーが落ちていくのを眺めていると、またちりんちりんと玄関扉の鈴が来客を知らせる。珍しいな、と思い好奇心半分暇つぶし半分にそちらを見る。そして驚く。
清美だ。
黒のコートを羽織り、赤いチェックのマフラーをして、化粧をばっちり施した清美だ。
清美はきょろきょろと誰かを探すように店内を見まわした。それからほっとしたかのようにもしくはがっかりしたかのようにして胸元を抑え、俺の真後ろのテーブル席に着席した。コーヒーはぴたぴた静かに落ちているのに、俺の心臓は一気に跳ねる。蛙みたいに飛び上がる。なんでだよ。どうしてそこに座るんだよ。どうしても外せない用事があったんじゃなかったのか。なんでここにいるんだよ。健一と待ち合わせでもしているのか。そうだ、そうに違いないと自分で自分を落ち着かせるが、それは次の瞬間あっけなく覆される。
のどかだ。
ちりん、ちりんという音を立て、のどかが『ラ・ブール』にやってきたのだ。
ブラウンのロングコートと紺のマフラーをしたのどかは、清美の姿を見つけると、つかつかと早足気味にやってきた。ここで俺の心拍数は最大速度を記録する。時速で言えば140キロ、廃工場に閉じ込められて誘拐犯から逃げるとき花野が出したスピードと同じだ。高速道路でも捕まるレベルだ。
のどかは清美の前にすっと立つと、ぺこり、と頭を下げた。
「お待たせしました。兄のお墓参りに、少しばかり時間がかかってしまって」
墓参り。へぇ、のどかは俺の墓参りをしていたのか。
でも残念だよな、そこに俺はいないんだぜとか他人事みたいに考えている俺の前に、コーヒーが差し出される。睨みつけるみたいな顔のマスター。でもこれは全然怒ってない、いつもの顔だ。
それよりも修羅場なのは俺の後ろの席にいる清美とのどかで、顔が見えなくても清美が慌てているのがわかる。
「い、いえ、そんな……」
「私からお呼び出ししたのに申し訳ありません。でも、一度も兄のお墓を訪れたことのないあなたに言っても、仕方のないことかもしれませんが」
そこで沈黙。ぎゅっとなる俺の心臓。無表情のマスター。
のどかは、真冬の冷たい風みたいな声色で、言った。
「ずっと話さなければならないと思っていました。あなたと、健一さんとは」
今日の山羊座は六位。ラッキーアイテムはニット帽と伊達眼鏡。『友達の大事な秘密を知ることになっちゃうかも~』ってこういうことかよ。
俺はニット帽をぎゅっとかぶり直し、コーヒーに口をつけた。
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