第四章 鍋島のどか 7

 放課後、俺達は桑原に言われた通り体操着姿で校庭に集合する。

 昼休みの様子を心配してか、ライトが「大丈夫かよ」なんて気遣ってくるのだけれど、俺は大丈夫だ。ただちょっと、驚いただけだ。

 俺の具合も人を心配することも知らない鋼鉄の心を持つ馬鹿である桑原は、授業が終わった瞬間からずっとテンションが高い。やたら声がでかくてリアクションもでかい。全身の痣や絆創膏にも納得できる。

 しかし桑原はただの馬鹿ではなく運動ができ指示ができるタイプの馬鹿で、俺達はまず桑原に言われた通り一人ずつ二百メートルのタイムを計る。速さの順番で言えば一番から桑原→ライト→俺→藤崎。この結果を元に、桑原ががりがりと地面に作戦を書いていく。

「最初は清水から始めるのがいいと思う。アンカーは俺。藤崎と辰巳はトントンだからどっちでもいいけど、どうする?」

 桑原の提案に、俺は右隣にいる藤崎青児ふじさきせいじを見る。

 藤崎は無口でクールでおとなしくて、頭がよくてそれでいて何を考えているのかよくわからない。存在感が薄くてまるで透明人間みたいなやつだ。俺はまだ、こいつとまともに話をしたことがない。

 藤崎の意見を俺が待っていることに気が付いたのか、藤崎がぽつりぽつりと意見を出す。

「……最初が清水なら、次は辰巳がいいと思う」

「へー。なんで?」

 これは桑原。桑原はうるさくてしつこくて面倒くさいやつなのに、どういうわけか藤崎と話しているところを頻繁に見る。

「俺は多分、清水のバトンは受け取れないと思う。いや、受け取れると思うけど。受け取るんだったら、辰巳の方がうまいよ。多分」

 なんて言いながら藤崎が俺達を見る。今気が付いた、藤崎の目はハイライトがない。死んだ魚みたいな目をしてる。意味が分からず顔を見合せる俺とライト。桑原は

「あー、うん、いいんじゃねーのー」

 なんてわかったようなわかっていないような口調で地面をごりごり削っている。意味が分からない。

 ライトが座り込んだままの桑原の背中を突く。

「おい」

「なんだよ」

「意味がわからないんだけど」

 そのままの感情を素直に伝えるライトに、桑原が答える。

「えぇー、だってさー、なんつーか、その、清水って藤崎のこと知らないじゃん」

「うん」

「でさー、辰巳も藤崎のことよく知らないしさぁ、よく知らないとさぁ、うまくできねーじゃん、こういうのって」

 どうやら気まぐれな神により素晴らしい運動能力と引き換えに脳みそを半分近く減らされてしまった桑原の言うことは、俺達には少し難しいらしい。ぽんぽんぽんと頭上にクエスチョンマークを飛ばす俺達に、藤崎がヒントを出す。

「信頼」

「そうそう、信頼! 信頼が大事だから、こういうのって!」

 信頼、信頼ね。

 トラックは陸上部が広々と使っているので、俺達は校庭の隅を利用する。簡単なものだ。バトンを渡す練習と、あと走るだけ。なのだけれど、やはり桑原の気合がすごい。気合が入りすぎている。

「バトンの渡し方はさぁ、右手でこう! 左手でこう! そんで持手を――」

 なんて身振り手振り全身で解説する桑原は運動の申し子だ。語彙力は0。俺達はあまり聞く気がないので一人で舞台に立っているようなもの。俺達が地べたに座り適当に寛いでいる間も、桑原は一人で汗を掻いて走り回っていた。

 ライトが藤崎に話しかけている。

「藤崎ってさぁ、一年の時も桑原と同じクラスだった?」

 藤崎が首を振る。

「違うよ。今年初めて。なんで?」

「いや、仲いいなって思って」

 藤崎の眉が一ミリほど中央に寄る。心外らしい。

「別に仲良くないよ。話しかけてくるから話してるだけ」

 へぇ。

「なぁ、藤崎ってなんでリレーの選手になったの? こういうの、面倒臭がってあんまやらないイメージがあったんだけど」

 ライトの失礼な意見に、確かに、と同意する。

 藤崎はクールでおとなしくておどけたり騒いだり誰かとつるんで目立つことをやるよりも教室の隅で一人本を読んでいるようなやつだ。リレーの選手なんて体育祭の目玉に自ら立候補をするような奴には到底見えなかったのだ。

 藤崎は死んだ魚みたいな目を瞬かせると

「面倒だったから」

 と言った。

「は?」

 これはライト。声には出していないけど、俺も多分、ライトと同じ表情をしてる。

 藤崎は地べたに座り込んだまま少しだけ体勢を変えると、

「面倒だったから。俺、人と話すの苦手だからムカデ競争なんて絶対無理だし。本当は百メートルがよかったけどじゃんけんで負けたから。リレーだったら走って終わりじゃん。だから」

 へぇ。

 藤崎はこんなに話しているところ初めて見た。藤崎は藤崎なりに、色んな考えがあるらしい。

 そこであちらこちら犬みたいに走り回っていた桑原が戻ってくる。

「辰巳と清水は仲いいよな」

 さっきの話聞いてたのかこいつ、地獄耳かよ。

「うん、仲いいよ」

 ライトの言葉に、桑原が太陽みたいな笑みを見せる。

「いいよなお前ら。お前らって、十年後もずっとそうしていそうだもん」

 十年後ね。

 少しして陸上部が休憩に入る。桑原の提案と行動力により、試しに一度走ってみようということになる。一周四百メートルのトラックを半周ずつで、一人二百メートル。早くも怠そうなライトと対照的に、桑原が落ち着きなくぴょんぴょん跳ねたり縮んだりしている。体力お化けめ。藤崎は能面みたいな表情で立っているだけだ。

 スタートは陸上部のやつにやってもらった。ライトの知り合いらしく、「お前、リレーの選手なの?」「うるせー」「ウケる」とか何やら親し気に話している。ライトは明るくて優しくて面白いやつなので、多方面に知人が多いのだ。勿論、俺の知らないやつだって。

 俺はふと、先ほどの桑原の言葉を思い出す。十年後。十年経ったら俺達は二十四歳だ。社会人として働き、それなりの地位を作っているはずだ。恋人もいるだろう、もしかして結婚をして、子供だっているのかもしれない。十年後、俺とライトは、同じように今みたいに仲良くしていられるのだろうか。

 信頼。信用。

 ≪鍋島浩之≫だってそう思っていた。健一のことを信頼していたし、信用していた。大事な友達だと思っていた。十年後も二十年後も、ずっと仲良くうまくやっていけるものだと思っていた。変化していく中で普遍的なものもあるのだと、俺はそう思っていた。信じていたのだ。けれど裏切られた。俺の知らないところで、呆気なく、最悪な形で。

 そもそも健一は俺のことを親友だと思っていたのだろうか。わからない。もしかして藤崎みたいに、「話しかけてくるから相手をしているだけ」だったんじゃないのか? 親友だと思っていたのは俺だけだったんじゃないのか? 全ては俺の勝手な思い込みで、そこには信頼も信用もなにもなかったんじゃないのか?

 トラックの向こう、バトンを持ったライトが全力でこちらに走ってくる。明るいライト。お人好しで心配性なライト。文句を言いながらなんだかんだで俺の我儘に付き合ってくれているライト。

 ライトもいつか、俺を裏切る日が来るのだろうか。

 あの日の健一のように。

「テル!」

 全力で走ってきたライトが、同じく全力で走り出した俺に向けてバトンを差し出した。受け取れていたはずだ――いつもだったら。しかし、完全に思考がドツボに嵌ってしまった俺はうっかりタイミングを逃し、バトンを落とす。それどころか靴紐が切れて顔面から地べたに転ぶ。

「テル!」

「辰巳!」

 地べたを蹴り付けるスニーカーの音が一斉に俺の元に集まってくる。よろよろと起き上る俺。膝が痛い、擦り剝けて、血が滲んでいる。

「あー、辰巳、血ぃ出てんじゃん。洗ってきたほうがいいよー」

 という桑原の言葉に、俺は頷く。顔も痛くてごしごしと擦るのだけれど、血は出ていない。ただ痛いだけだ。

「足とかは平気なのかよ」

 俺はライトに支えられたまま立ち上がり、両足を動かす。平気だ。痛いのは膝だけだ。他はどこも痛くない。

 俺は俺を支えるライトの体を押しのけて、

「水道で洗ってくる」

 と言う。後ろからライトの声が聞こえてくる。

「俺も行こうか」

 心配そうな声。多分、昼休みの一件もあり、俺のことが気がかりなんだ。でも、そのやさしさや気遣いが俺の心の傷に染み込んで、ちくちくという音を立てるのだ。

「悪い、大丈夫だから。ひとりでいける」

 背を向ける途中、ライトが俺に手を伸ばしているのが見えた。けれど、気が付かないふりをする。ライトが少し傷ついたような表情をしているのがわかった。けど、無視。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る