第二章 並木平介 9

 丸一日学校を休んだ俺は無事に社会復帰を果たす。熱もない。咳も出ない。頭も全く痛くない。健康って素晴らしい。健康だというだけで世界がキラキラ輝いて見える。太陽は眩しく俺を照らし向日葵は俺を祝福し蝉達は賛歌を歌っている。最高だ。めちゃくちゃうるさいけど。でも体は軽いし飯もうまいし言うことはない。

「テル、風邪治ってよかったな」

 とライトが言う。こいつにもだいぶ迷惑をかけた。ライトは五人兄弟の末っ子だけど甥姪合わせて四人いるししょっちゅう遊びに来ているので面倒見がいいのだ。ココアは相変わらず疑いの目で俺を見ているのだけれど、疑うも何も疑うことが何もないのでこれに関しては手の打ちようがないから放っておいた。多分そのうち気が済むだろう。清美だっていつもそうだったのだから。

 復帰初日、のどかに声をかけられた。

「大丈夫? もう治った?」

 大丈夫です、と俺は言う。にこにこという仮面のような笑みを浮かべるのどかは『三十歳の鍋島先生』であり、『雷を怖がって大泣きするような四歳ののどか』ではないということを改めて実感する。ふと、のどかが何か言いたそうな表情をしていることに気が付いて「どうかしました?」と俺は聞く。「なんでもないよ」とのどかは言った。

 TVの中では相も変わらずプリンス・ジャッキーと津島花野がずっと出ていて、西本と川辺が持ってきたファッション雑誌の表紙を津島花野が飾っている。しかも水着。

「わー、津島花野かわいー。ほそーい」

「ねぇー。私も津島花野みたいになりたーい」

 無理だって。

 その、川辺と西本に加わりココアもやたら熱心に雑誌を見ているので、なんだなんだと覗き込むと、プリンス・ジャッキーの占い特集が組まれていた。雑誌で見るジャッキーは相変わらずイケメンだ。『占い館 Ring of fate』のオープン日が決まったらしい。九月一日。そして俺はふいに、あの日別れ際、ジャッキーが言った言葉を思い出す。

『辰巳くん。体調管理に気をつけてね』

 店ひとつ構えることとなったプリンス・ジャッキーはまさに飛び鳥落とす勢いであり、この田舎町のどこを見てのプリンス・ジャッキーが存在していた。テレビや雑誌、インターネットは勿論、本屋、駅、飲食店、銀行などなど。ジャッキーの青い瞳も端正な顔立ちも白い肌も王子様としての素質であり証でしかないのだけれど、そのサファイアは俺の後ろにあるなにかをじっと見つめているような気がしてならない。

 プリンス・ジャッキーの顔を見ながら朝食を食べることすら日常になってしまった七月の日曜、俺は真美子から指令を言い渡される。

「テル、あんたライト君の誕生日どうすんの?」

 ライトの誕生日。はて。

 俺はチーズトーストに齧り付きながら聞き返す。

「なにそれ」

「だから、ライト君の誕生日。あの子、七月生まれでしょ? プレゼントあげないと」

「ライトの誕生日プレゼントぉ?」

 俺はトマトにフォークを刺してそれを口に運び、眉を寄せた。

「それ、いる? いらなくね? 女子じゃないんだし誕プレとか」

 すると真美子は読んでいた新聞からカバッと顔を上げて

「駄目よ。あんた去年、誕生日プレゼント貰ったでしょ」

「プレゼント貰ったって、俺と同じ名前のワインだろ。あれくれたのライトのおばさんだし、全部母さんが飲んだじゃん」

「あんたお菓子貰ったでしょーが」

「ばあちゃんちに行くと仏壇に飾ってあるようなやつな」

「あんたねー、あんたみたいな短気で身勝手なやつに付き合ってくれるのライト君くらいなんだから、たまには感謝しないと駄目よ。あんた普段蹴ったり小突いたりしてばっかりで、贈り物の一つもしないと愛想つかされちゃうんだからね」

 確かに。そうかもしれない。ライトは俺が蹴ったり突いたりするたびに怒るけれど、最終的にはいつだって許してくれている。

「でも俺、あいつのほしいものとかわかんない」

「なんでもいいでしょう。Tシャツでも雑誌でもお菓子でも。お金あげるから買ってきなさい」

 財布から五千円を差し出す真美子。あれ、多くね?

「あんたどうせ今日暇でしょ? どうせ買い物行くんだったらショッピングモールまで行ってCALDIでバニラフレーバーコーヒーと紅茶のクッキー買ってきてね。よろしくぅ」

 五千円を受け取り黙る俺。笑顔の真美子。テレビから甲高い女の声が聞こえてくる。

『チャララ~ン♪ 今日の四位は山羊座~友達のプレゼントを買うと運気ア~ップゥ~。ラッキーアイテムは、コーヒーで~す』

「コーヒーとクッキー、よろしくね」

 語尾にハートマークでもつけてそうな真美子の笑顔は眩しい。俺は掌の樋口一葉を睨みつけ、それをポケットにしまい込んだ。

 うちからショッピングモールまではどんなに飛ばしても自転車で二十分、結構遠い。線路沿いに広がる光景はひたすら田圃、田圃、田圃。どこまでも広がり続ける田園風景と蝉の声、時折混ざる電車のモーター音と踏切警報機の音はちょっとしたノスタルジックでもある。どれほどの年月が経ってもこの風景だけは変わらない。真っ赤な太陽がアスファルトを照り付けて反射する。ひどく眩しい。勅使河原中学校の前を通り過ぎ宋明寺を中継地点に国道へと侵入する。懸命にペダルを漕ぐ俺の横を涼しげな顔で車達がエンジンを葺かしていく。ショッピングモールに着く頃には完全に汗だくで、干からびる直前だった俺のことを壮大なクーラーが癒してくれる。ショッピングモール様々。滅茶苦茶人は多いけど。真美子に言われた通り、CALDIコーヒーショップでバニラフレーバーコーヒーと紅茶のクッキーを購入する。バニラフレーバーコーヒーは文字通りバニラの香りのコーヒーで真美子の最近のお気に入りだ。正直香りだけで甘ったるくて飲めたものじゃないのだけれど、それを言うと怒られるので何も言わない。イタリア輸入の紅茶のクッキーはうまい。俺はマカデミアクッキーも好きなのでこれも買う。肝心のライトのプレゼントはと言うと、暇潰し程度に店内を散策して面白いTシャツを見つけたのでこれにする。可愛いライオンのイラストがこう言っている。『獅子座のB型』半額で七百円。馬鹿みたいに安い。あと、水着姿の津島花野が表紙を飾っているグラビア誌。本当だったらココアにちょっとかわいい服を着て貰ったほうが喜ぶだろうけど、まぁいいだろう。いいものを買ったとほくほくしていると、不意に視線を感じて顔を上げる。プリンス・ジャッキーのポスターが俺を見下ろしていた。

 涼しい空気の漂う店内から出た瞬間襲い掛かってきたとんでもない熱気に思わず太陽を睨みつけるのだけれど、地べたに這い蹲って生きている俺が空の一番高い場所で高笑いしている太陽様に勝てるはずもないので、おとなしくサドルを跨ぐことにする。日陰に止めておいたはずなのに、サドルもハンドルも滅茶苦茶熱い。掌とケツが焼けそうなくらいだ。

 七月の昼は目玉焼きを焼いているフライパンみたいだ。ペダルを漕げば漕ぐほど涼しくなるどころか湯気みたいなあっつい空気が顔面を直撃し、とんでもなく息苦しい。酸素が足りない。暑くて腹が減って喉が渇いて俺もちょっと限界で、宋明時で少し休憩を取ることに決める。宋明寺はもう四百年くらい前に建てられたらしい寺院で、関東三大不動として知られている。が、全体的に寂れているし年末年始含む季節ごとの行事以外は参拝者は殆どこないし手水舎の水は濁って汚い。俺としては≪今≫も≪昔≫も子供達のよい遊び場というか小学生が探検したり学校の授業で写生に来たりとかその程度のひどく身近なイメージしか持っていない。こんなところに神様なんているわけないだろ、っていうくらいに身近なものだ。

 こんな夏の真昼間、境内で遊んでいるのなんて近所の子供くらいだと思っていたのに、今日はなんだか人が多い。女ばかりだ。こんな古臭い神社なんて到底縁のないような、日陰と虫を嫌がって室内に籠ってばかりいるような、若い女。しっかりと日焼け止めを塗って化粧をして爪をピカピカに磨いてばかりいるような若い女達が、本堂に向かって一斉にスマホを向けている。嫌な予感がする。きゃぴきゃぴと黒板を引っ掻いたみたいな声で女性陣が話している。

「やだー。かっこいージャッキー」

「サイン貰っちゃったー」

 やっぱり。

 帰ろうとする俺。ざっと開かれる花道。湧き上がる黄色い歓声。ぞわりと背中に這い上がる悪寒。

「やぁ、また会ったね」

 美しい金髪と青い瞳。暑さを吹き飛ばす清涼剤のようなプリンス・ジャッキーが笑顔を振りまきながら歩いてくる。油の切れた機械みたいな顔をする俺。

「……どうも」

 どうやら今日のラッキーアイテムは、その役割をうまく果たしてくれなかったらしい。

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