第二章 並木平介
第二章 並木平介 1
七月に入り雨の季節も少しばかり落ち着いてきて、その代わりに白い雲の間から灼熱の太陽が顔を出して気温がぐっと上がる。ぐっと背の伸びた向日葵の成長を祝い歌う蝉達は、さぞ精が出るだろう。
そんな、開いた窓から響いてくる運動部の掛け声を聞きながら、俺と真美子は教室の前に並べられた椅子に座っていた。
「あんた大丈夫なんでしょうねぇ」
心配そうな真美子に「なにが」と答える俺。白いブラウスにダークグレイのスカート、ストッキングといういつもより小奇麗な服装をした真美子は、てし、と指先で軽く俺の額を突きながら
「色々よ。成績とか授業態度とか友達関係とか……あんた短気だからすぐにかっとなっちゃうし。この間も警察にお世話になるようなことしでかして」
なんてつらつらつらつらと小言を並べていく。真美子の小言は長い。放っておくといつまでもいつまでも続いてしまいそうなそれを、俺の額を突き続ける小指と一緒に振り払う。
「大丈夫だって。テストの結果も見せただろ? 成績だって授業態度だって……」
「そうね。体育は5だったわね。英語は2だったけど」
「遺伝!」
なんてぎゃーぎゃー騒いでいると、教室の扉が開いて、母親に耳を引っ張られながらライトが出てくる。
「全くもう、あんたって子は!」
「いてっ、やめろよぉ、耳引っ張るなよぉ!」
「あんた家に帰ったらお説教だからね! それでは鍋島先生、ありがとうございました」
なんて、息子の耳を引っ張りながらもぺこー、と器用にお辞儀をするライトの母親の正面にのどかがいる。
「はい。こちらこそお忙しい中ありがとうございました」
「それでは失礼します。ほら、頼人、行くよ!」
「いてぇ!」
帰り際、また一度バシィ! なんて叩かれたライトのケツはまるで太鼓みたいだ。涙目のライトは、恐らく手形が残っているであろうケツを両手で押さえながら俺の方へ小走りできた。ライトの母親が真美子を見つけてお辞儀をする。
「どーも、辰巳さん」
「こんにちは清水さん」
「いつもいつもうちの頼人がお世話になりっぱなしで……」
「いえいえ、こちらこそ。あまり家にいることができないので、頼人くんには本当に感謝しています。ありがとうございます」
「輝大くんこそ、本当にしっかりした子でねぇ。ほら、頼人! 輝大くんのお母さんに挨拶しな!」
なんてもう一度ケツを叩かれて飛び上がったライトが、着地と同時に真美子に頭を下げる。
「こんにちは、おばさん」
「こんにちは。いつも輝大がありがとうね……ほら、輝大も」
真美子に促されて、俺もライトの母親に礼をする。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。またうちにご飯食べに来てね! ちび達も待ってるから!」
豪快に笑う清水家の母に、俺は少し引き攣った笑いを返す。以前、清水家に泊まりに行ったとき丁度ライトの甥姪が合計で四人遊びに来てて、俺達はとんでもない目にあったんだ。まさか赤ちゃんのおむつを替えることになるとは思わなかった。
うっかり盛り上がってしまった母親達に、真美子は少し困った顔で制止をかける。
「申し訳ありません、お時間が迫っているので……」
あっ、と気が付いたように口に手を当てる清水家の母。それからまたぺこりと頭を下げた。
「それでは辰巳さん、また」
「ええ。清水さん、また」
母親に腕を引っ張られながら遠くなるライトが、俺に手を振りながら叫ぶ。
「テル! またあとでな!」
ずるずるずると引きずられていくライトに手を振り返す俺。仕方がないなぁというような表情ののどかが教室の扉を開けて待っている。呆れ顔の真美子。
「それでは辰巳さん、どうぞ」
三者面談用に作られた俺達の教室は、ちょっとした異世界気分だ。
教室の後ろに窮屈に寄せられた机と椅子。それと対照的にがらがらになった前半分と、そこに置かれた四つの机。完全に開けられた窓の外から運動部の掛け声が聞こえてきて、そのたびに白いカーテンをひらひらと揺らすのだ。
いつも誰かの笑い声と足音で溢れかえっているこの教室も本日ばかりはのどかの静かな話声しか響いていなくて、その、小さな呼吸の間を、紙同士の擦れる音が走るだけだ。
「……辰巳くんの成績については特に問題はありません。生活態度も悪くありません……友達との交流も友好にできています」
真美子とのどかの間には俺の成績表や前回のテストの結果が置かれている。今日の朝から教室に入るまで真美子はずっと難しい顔をしていたのだが、のどかの「問題がない」という言葉に少しほっとしたらしい。
「そうですか」
「はい。ただ……」
「ただ?」
そこで真美子が、ぐっ、と身を乗り出したのでのどかが驚いた顔をする。それから、ぷっ、と噴き出して
「……これはあくまで私の私見ですが……輝大くんは少しばかりその――能力を伸ばすことを渋っているといいますか――」
「怠けているということですか?」
「いえいえ、そういうわけではありません。ただ、その、彼の気持ち次第ではもっと彼の良いところ――成績に関してもそうですが――彼の才能や能力がもっと伸びていくのではないんじゃないかと、私はそう感じているのです」
『鍋島先生』がすごく優しい目で俺を見る。対照的に、疑いの目を向ける真美子。そんな目で見られても俺は知らん。
「これ、彼の進路希望調査なんですが」
のどかが白いファイルから小さな紙を取り出して、真美子の前に提示する。
【第一志望 淀川高校 第二志望 就職 第三志望 就職】
「あんた、就職するつもりなの?」
真美子が目を見開いて俺と紙を交互に見る。俺は、居心地の悪さに軽く体を捩り答えた。
「第一志望落ちたら」
「淀川高校って、他にも行けそうなところあるでしょう」
「俺、勉強好きじゃないし。それなら、就職してお金稼いだほうがいいよ」
きっちりと書かれた真美子の眉毛が中心に寄る。これは怒りを我慢しているときの顔だ、口だって、今にも文句を言いたいですっていうような形になっている。
「お母さん、輝大くんには伸ばすべき才能と可能性があると感じています。進学をするにしても、彼ならもっと幅広い選択肢があるはずです。ご家庭で一度話し合われてはいかがでしょうか?」
進路希望調査を見つめたまま黙る真美子。視線を逸らす俺。のどかは、一向に視線の交わらない俺達親子を交互に見て、愛想笑いを浮かべた。
「辰巳さん、お母さんから何か言いたいことはありますか?」
のどかの言葉に、真美子は、あー、と言うようにして両手で顔を覆った。それから心を決めたというようにしてすっと背筋を伸ばし、言った。
「私はシングルマザーです。この子には父親はいません。寂しい思いも辛い思いも沢山させてきたと思います。けれど、この子がここまで成長してくれたのは、周りの皆さんのおかげだと感じています。先生、本当にありがとうございます」
ぺこり、と真剣に頭を下げる真美子に、のどかは少し戸惑った様子で頭を下げた。
「い、いえ、こちらこそ……」
「進路については、また家で話し合ってみます。機関坊な息子ですが、先生、これからもよろしくお願いします」
教室を出ると、ココアと清美の加藤親子が待機していた。
「テル君」
「よぉ」
「どうだった? 怒られた」
「怒られはしなかったけど」
言葉を濁しながら、お辞儀をし合っている真美子とのどかを横目で見る。家に帰ったら怒られるかもな、あれ。
清美も立ち上がって俺に声をかけてくる。
「輝大くんこんにちは」
「こんにちは」
それから清美は、のどかとの別れの挨拶が終わった真美子に近寄って声をかけた。
「こんにちは。先日は大変申し訳ないことを……」
「あっ、いえいえ、そんな。輝大が余計なことをして勝手に首突っ込んだんだと聞きましたから。いつもお世話になっています」
「輝大くんのおかげで、心愛も毎日学校に行くのが楽しいようで……本当に感謝しています」
またお辞儀合戦が始まったところで、のどかのストップがかかる。
「加藤さん、どうぞ」
先ほどよりもいくらか強張ったようなのどかの声。一枚布を張り付けたようなのどかの表情。そんな表情に気を取られている俺に、ココアがさっと耳打ちしていく。
「じゃあ、またあとでね」
のどかの誘導に従い、教室の中に消えていく三人。それを眺めている俺の頭を真美子が小突く。
「いてっ」
「いて、じゃないわよ本当に!」
真美子はイライラを解消するようにして前髪をわしゃわしゃかきあげると、
「あのねぇ、確かにうちは貧乏ですよ! でもそれはブランド品買ったりとか海外旅行行ったりとかそういう贅沢ができないだけで、あんたを大学まで出してやるだけのお金はあるの! だからねぇ、そういう余計な心配なんかしなくていいわけ! 大体ね、中卒で一体どんな職業につけるっていうの!? つけないでしょう!? そんな大した給料貰えないならね、ちゃんと高校出て、大学出て、それからちゃんとお給料とボーナスの出る会社に就職して、それからお母さんのことを楽させてちょーだい!」
俺の鼻先に指を突き付けて叫ぶ真美子は、俺に言葉を挟むことを許さない。呆気に取られる俺。真美子は俺に指先を突き付けたままもう一度、確認するように問いかけた。
「わかった?」
こくこくと頷くしかない俺。すると真美子は、満足したようににこりと笑った。
「ならよろしい。今日は少し遅くなるから、先に夕ご飯食べてなさい」
「わかった」
「出かけるのはいいけどちゃんと七時前には家に帰りなさい」
「わかった」
昇降口で真美子と別れて、真美子が会社に戻るのを見送る。バイバイ、ミラ。
さて、俺はこれから、ライト達と出かける準備をせねばならない。
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