モラトリアムの蜘蛛
豚餅
第1話 真夏に春の美女
目覚めると家具一式がなくなっていた。それどころか、ベッドと窓を残しすべての物が消えてしまった。玄関やトイレ、風呂場のドアもセメントで埋められていて、泥棒にしては大掛かりな仕掛けだ。
エアコンも扇風機もない。夏の盛りで、カーテンが消えた窓からは容赦なく日差しが照りつけている。熱中症気味な頭で、『なんだこれは』と思った。なんだこれは。訳がわからない。
こんな非日常を演出できるのはテレビ局か神様くらいである。しかし、一介の大学生のために、テレビ局や神様の力が働くとは思えない。一瞬、大家の顔も浮かんだが、2ヶ月の家賃滞納でトイレまで差し押さえはしないだろう。しかも、元よりトイレは大家のものである。ベッドの上で思い煩うこと数分、充電しっぱなしのiPhoneが残っていることに気づく。
「へい、Siri。」
「ピン!」
機械音が鳴る。使用できるようだ。「ゴヨウケン」を急かされる。頼みの綱が見つかった。アップル社らぶ。
iPhoneの画面に表示された日付は8月30日。昨日は29日だったから、記憶通りの日付だ。時刻、現在地は不明。ネットワーク接続なし。使えるアプリケーションは方位磁石のみであった。頼みの綱はあまりに早くちぎれてしまった。ため息がでる。昨日飲んだ酒の匂いがする。昨晩の記憶が甦ってくる。
8月29日は就職活動を諦めた日だ。選考を受けていた全ての企業から不採用通知を受け取り、早々に留年を決め、仲間を集めて夕方にはもう酒を飲み始めていた。蒸し暑い気温の中、渋谷の安居酒屋を転々とし、3軒目のやきとり屋を出た頃にはできあがっていた。ただ、一人で立ち寄った4軒目のバーでその女に声をかけたのは、酒のせいではない。
アイアンメイデンがかかる、毛羽だった雰囲気の店で、その女は一人孤高であった。女は黄色のワンピースを美しく着こなし、カウンターに腰かけていた。菜の花のようだと思った。油のパッケージでしか見たことのない花が目に浮かぶほど、春色であった。隣に座って声をかけると、ハツラツとした笑顔を見せるものだから、たまらない気持ちになった。
普段は女に声などかけたことはない。だからこれは酒の力ではなく、運命の力である。8月29日、酔った頭で最後に考えたのは、そんなくだらないことであった。
その後のことは何一つ覚えていない。バーを出た時間も、帰宅の道中も、覚えていないのである。強いて言うなら、菜の花の女と人生について語り合った覚えがある。つまり、今置かれている状況を説明する記憶は一切見つからなかった。
状況をまとめると、ネットは通じない。記憶もない。エアコンはなく部屋は蒸し風呂で、汗をかいてもシャワーはない。何も知ることができず、このまま部屋にいたら死んでしまう。死んでしまうのだ。
思いきって窓から外へ飛び出した。飛び出す先は海であった。後悔の海だ。あの小部屋に留まり、意味不明な妄想を膨らませる内に、身体中の穴から汗を吹き出し死んでいくことと天秤にかけても、気が狂うことの方が恐ろしいのである。
窓の外では、世界が動物たちに支配されていた。
モラトリアムの蜘蛛 豚餅 @crocus05
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