竜と猫
やんばるくいな日向
第一部 竜と猫
第1話
第1話・1章
シズハが物心付いた頃、世には魔物が溢れていた。
大陸の果て、氷に包まれた北の国には、魔物たちの王が住み、人間を奴隷か家畜のように扱っていると言う。
だがシズハが住む国や、その周辺の国は、互いに協力し合い、その魔物たちの王――冥王、と呼ばれていた――に立ち向かっているのだ。
夜に怯えるシズハの髪を撫で、優しい母親はそういう話を穏やかな声でしてくれた。
だから大丈夫。貴方は護られる。
でも、大人になって護る力が出来たのなら、今度は貴方が皆を護る番。
その言葉に、幼いシズハは強く頷いた。
その夜、シズハは小さなミスを犯した。
夜には踏み入ってはならぬ。そう大人たちからきつく言われている森へ、夕刻、踏み込んだ。
彼の小さな親友が居なくなったのだ。
もしかして昼間に共に遊んだ森へと行ったのでは、と、シズハは考え、母親に内緒で家を出た。
そして、紅い瞳の魔物に追われる事となる。
頭の上を爪が通った。
髪の毛を何本か持っていかれたのが分かるが、シズハの足は止まらない。
たすけて、と声を上げていられたのは最初だけ。今は、よろめく足で必死に走るので精一杯だ。
魔物は女子供を好んで喰らう。
特に子供は大好きだ。
頭から貪り食われるのだろうか。
それとも――と、魔物に食われた人間の話を思い出す。
嫌だ。
死にたくない。
森。
木々の隙間から月が覗く。
僅かに照らす足元は頼り無く。シズハは何度と無く転びかける。
それでも魔物は追いつかない。
幼いシズハには気付かない。
魔物が、この狩りを焦らして遊んでいる事に。
その遊びにも飽きたのか。
魔物の爪がシズハの背中を浅く薙いだ。
その衝撃で大きく転んだシズハは、立ち上がろうと四つん這いまでになるものの、それ以上は起き上がれない。
荒い呼吸を繰り返すだけだ。
それでも、振り返る。
闇の中、紅い瞳が光っている。
涙が浮かんだ。
死にたくない。
此処で死にたくない。
紅い瞳が、近付く。
その紅い色の向こう、緑色の光が、揺れた。
ずるり、と。
ふたつの紅い光が上下にずれる。
「――大丈夫か?」
紅い光の向こう、人間の声がした。
シズハは何が起こったのか分からない。
真横にその青年が立った瞬間も、混乱しきっていた。
金髪に綺麗な緑の瞳をした青年だった。その時はずいぶんと大人に見えたが、後から思えばせいぜい二十歳前後だったのだろう。
精悍と言うよりも優しい顔立ちの人だった。
シズハは呆然とその人を見上げる。
優しく笑う緑の瞳と同じ光を放つ剣を背に片付け、剣士にとって最も大切と言える右手を、シズハに差し出す。
「立てるか?」
「……うん」
がっしりとした手に掴まり、立ち上がる。
いまさら背が痛み出して、シズハは泣きたくなった。でも初対面の人の前で新たな涙を零すのは恥ずかしくて、唇を噛む。
「こんな夜遅くに森に立ち入るなんて危ないぞ。――家は何処だ、送っていこう」
「……アルタット殿」
背後の闇。
闇に紛れるように黒ずくめの男が立っている。
「早く王の元へと行って貰わぬと――」
「分かってる」
アルタットと呼ばれた男は少しだけ不機嫌そうに言った。
「でも子供を見捨てて置けないだろう?」
「……」
黒ずくめの男は沈黙した。首元にたまっていた布を引き上げ、口元を完全に隠してしまうと、男がそこに居るのが嘘のように思える。
「家は何処だ?」
「……森の、外」
「ああ、小さな村があったな。あそこか」
分かった、と、アルタットはシズハの身体を抱き上げた。
「どうしてこんな所に居るんだ?」
「……イルノリアが……」
「いるのりあ?」
「ぼくの、大切な子……」
「……まだ一人子供が行方不明なのか」
アルタットは黒ずくめに視線を送った。
闇が揺れた。
恐らく頷いたのだろう。
微かな音が響き――アルタットはシズハに笑顔を向けた。
「友達は俺の仲間が探しておくから、君はもう家に帰ろう」
「でも」
「大丈夫。すぐに会えるさ」
アルタットは歩き出す。
大人の足ならば対した距離ではなかった。
村の灯りが見えてくる。
アルタットがシズハを地面に下ろしてくれた頃、闇の中からアルタットを呼ぶ声がした。
見れば、黒ずくめの男と――
「イルノリア!」
アルタットは驚いたようだ。
黒ずくめと顔を見合わせる。
シズハはイルノリアの細い身体を抱き締める。
「良かった、無事だったんだ!」
「――そうか」
アルタットが笑い、シズハの頭に手を置いた。
「竜騎士なの、か」
シズハとイルノリアは同時にアルタットを見上げる。
イルノリアの銀の翼を軽く羽ばたかせた。
細い体躯の、銀色の飛竜。
幼さ故に今は大型犬ほどの大きさしかない。
それでも、間違いなく、竜族だ。
そうかそうか、と、アルタットが笑う。
「立派な竜騎士になるんだぞ」
黒ずくめが何か言うのを視線で封じ、アルタットはシズハにそう笑いかける。
シズハは笑顔で頷いた。
アルタットは少々乱暴にシズハの頭を撫で、黒ずくめと共に立ち去った。
――それから数ヵ月後。
冥王が勇者とその一行によって倒されたと、噂で聞いた。
勇者の名前は、アルタット。
緑に輝く魔剣を持った、凄腕の剣士だと、話を聞いた。
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