認識してない過去

どろんじょ

一話完結

夏の暑さにゆだり切った緩慢な風が頬を撫でる。

太郎は仕事帰りの慣れた道を蝉の死骸を数えつつ歩く。

街路樹のたもとに、仰向けのまま無防備で息絶えている蝉を見つけ、十匹目と数えながらくたびれた革靴で覆った。一気に踏み潰そうとした矢先、もがくような蝉のか細い声が空気を割いた。そのとたんに靴底の裏を力ない抵抗がつついた。

その抵抗に答えてやることもできないまま太郎は蝉を潰す。

生きていたことに気づけなかった。

気づいていたとしても同じことだったが。

「ねえ、太郎君でしょう」陰鬱な中にも親しみが滲むような高い声が耳に届いた。

家と職場の往復で惰性を究めたこの道に僅かな期待を込めて太郎は振り返った。

「覚えてる?あたし尚子」目線の先にいた女は、少し古めかしいようなショートカットで、夏には似合わない、くすんだ白い肌をしている。

覚えていて当然だとでもいうように彼女は固い笑みを浮かべた。

「高校の時同じクラスだった尚子さんかな?」ようやく探り当てた過去の人物との合致に無意識に太郎の声は弾んだ。

「そうよ。懐かしいわ。まだ地元にいたのね」彼女は太郎の反応を楽しむように身体を跳ねさせる。同級生の女にしては幼い反応に思えて太郎には奇妙だった。

「うん、僕はずっと地元」懐かしさは確かに感じてはいたものの、学生時代からさしたる興味を持たない相手であり、彼女の親しみさえ不可解だった。

「でも太郎君、将来は東京に行って一人暮らしするんだってあんなに言っていたのに」

尚子は口元を抑えて内緒話するように笑っている。

「そんなこと言ってたっけ。僕あんまり高校時代の記憶ないんだよな」

尚子の顔を過去から取り出すことが出来たことさえ奇跡に等しい。

太郎は現在の忙しさに、過去を愛でる余裕さえなかった。

「そう、懐かしい話いっぱいできると思ったんだけどな」尚子は寂しそうに首をかしげる。その仕草は妙に色気があり、心惹かれるものがあった。

「太郎君、連絡とっている人はいるの?」思いついたように彼女は視線を輝かせて尋ねる。

「雄太ぐらいしか連絡とってないよ」高校時代から特に信用を寄せていたわけではないが、特に離れる理由もなかった友人の名前を挙げた。

「へえ、あたしは誰とも連絡とってないから」彼女は胸を震わせるようにため息をつく。

太郎は尚子の頭の先からつま先まで、彼女に悟られないように眺めた。

高校の時から華やかさに欠けた地味な女生徒ではあったが、今もその印象はあまり変わらない。

ただこの再開を切欠に、ちょっとした刺激程度の出来事を期待した。

「尚子さんも地元から離れなかったの?」会話を続けさそうとさして興味のない言葉を口にした。

「ううん、色々あって今こっちに少しだけ戻ってきたとこ」

尚子は言葉少なにそういうと、何も言わず踵を返した。

「もう帰るの?」名残惜しさに慌てて太郎は声をかけた。

「じゃあ、またね」彼女は振り返り手を振った。

しかし、その言葉を伝える唇が夕闇の中で赤く輝く。

あんな化粧をしていただろうか。呼びかけられた時には覚えなかった違和感。それが太郎を足止めした。



「雄太?急に電話してごめん」

一人の晩酌に心地よい酔いが回り、久方ぶりの連絡への抵抗感を薄めた。

電話の向こうでは雄太も酒を飲んでいるのか、喉を鳴らす音がしきりに届く。

「急になんだよ。久しぶり」

「今日、尚子さんに会った」酒でかすれた声を上げ、勲章のように彼女の名前を呼ぶ。

しかし、電話の向こうではノイズに混じって息を呑む気配がした。

「お前何言ってんの?」

心底気味悪がるような気配が受話器の穴から這い出てくる?

「は?覚えてねえの?尚子だよ」

太郎が言葉を続けると雄太は激昂したように「久しぶりの電話で冗談はやめろ」と声を荒げる。

「冗談じゃない。なんでそんなつまんない冗談を言わなくちゃならないんだ」

取り繕うように太郎が早口でまくし立てると、それを覆うように雄太が言葉をつなげる。

「冗談だって悪質だ。お前が尚子のラブレターをふざけて回し読みしたことを忘れたのか」「何の話だ」

「俺も楽しんだけど、でもお前のことが尚子は好きで」言葉を挟む余暇もないほど雄太は言葉を叫び続ける。

「お前にラブレターを馬鹿にされて、尚子は学校に来なくなっただろう」

そこまで言い切り雄太は息を大きく吸ってまた喉を鳴らす。

「お前こそ何を言ってるのかわからない」

太郎は非難しようと声を出したが、自分でもわかるほど声が震えていた。

「なんで忘れたんだよ。あいつ学校に来なくなってから、しばらくして死んじまっただろうが」雄太の言葉は最後は悲鳴に霞んでいた。

「死んだ?そんなはずないだろう。だって僕はさっき現に」

不可解な現状を頭に取り入れることを拒否したように太郎は雄太の言葉に食らいつく。

しかし受話器からはノイズが響くだけになった。

「おい、雄太。雄太」不安に胸を掴まれて太郎は身を乗り出した。

「尚子、自殺とも事故とも言えないって言われてて」受話器から喉を鳴らしながら絞り出すように雄太がつぶやく。

「だから、恨んでるんだよ。俺とお前を」飲み下すような喉の音が、急に締め上げられた鳥のように濁った。

「雄太、どうしたんだ。今一人じゃないのか?」

雄太ののどの奥で何かが弾けて暴れているような不気味な音が耳を刺激し続ける。

太郎は受話器を手放すことも耳を塞ぐこともできずその音を受け入れ続けた。

「ねえ、太郎君」陰鬱で親しみが込められた声が受話器から漏れる。

太郎はか細い悲鳴を上げながら受話器を投げ捨てる。

受話器からなるだけ遠ざかるように座り込んだまま後退る。

不意に何かにぶつかり、振り返りそうになる無意識を恐怖が凍り付かせた。

「太郎君、あなたの残酷なとこ、昔から大好きなの」

赤く輝く唇が、耳元で嬉しそうに歪んだ。

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認識してない過去 どろんじょ @mikimiki5

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