III 闘いの国へ
天秤にかけるまでもない
「タイスケさん、どうしよう」
日奈は制服のままで体育館に現れた。萱場は何があってもどこか適当さのある日奈のいつもの表情とは異なることを察した。まずは落ち着け、と言ってクーラーボックスの中のスポーツドリンクのキャップを開けて渡してやった。
ごくごくごくとほぼ一気飲みする。
「それで、どうした?」
「おばあちゃんが倒れたって」
「倒れた? 病気か?」
「転んで骨折したらしくて、入院したって。母から電話が入ったんです」
「そうか。わかった。俺が車出すからすぐ空港に行こう。夕方の便に乗れればそう遅くない時間に鹿児島に着けるだろう」
「でも・・・強化合宿が」
「それは後で考えればいい」
「でも!」
萱場たちオリンピック出場選手は最後の強負荷の実戦練習として今週末から強化合宿に入る。同じくオリンピック出場の高瀬ペアの練習のためにも自分が参加しなければという責任感が滲み出ていた。
萱場はそれを察した上で日奈に語りかけた。
「日奈は長女だろう」
「え? は、はい」
「物事にはやりたいことと為すべきことの二種類ある。日奈が合宿に参加して責任を果たしたいという気持ちはよく分かる。だけど、今実家へ戻っておばあちゃんを見舞い、怪我の程度や今後必要な対応をご両親と一緒に相談することの方が優先度が高い。いや、長女である日奈の『義務』とさえ言ってもいい」
「義務、ですか?」
「そうだ。天秤にかけるまでもない。日奈が今なすべきこととしてもう決まっていることだ。それにご高齢での怪我はとても心細く感じるものだ。日奈、長女として、孫として、行ってあげなさい」
「はい・・・ありがとうございます」
萱場の軽四は普段ローリーを運転する時の抜け道知識を総動員して最短で空港に着いた。怪我ならば食べ物でもいいだろうということでアンリシャルパンティのフィナンシェをお見舞いに持たせてやった。
こうして日奈は鹿児島へ行ってしまった。
・・・・・・・・・
「泰助さん、日奈ちゃんが行ってからぼんやりしてるね」
「ん? ああ・・・なんかあの騒がしさがないと調子出ないもんだな。まだ2日しか経ってないのに」
「ふふ・・・今、練習は?」
「女子部の選手たちにペアになってもらって高瀬組と実戦形式でやってる」
「日奈ちゃんがいないとフォーメーションの練習もできないでしょ」
「ああ。日奈にはあと30パターンの連携動作を覚えさせなきゃいけないのに」
「わあ、かわいそう。『ゆかりフォーメーション』があればそれでいいじゃない」
「妙子も割と冗談言うようになったな」
「日奈ちゃんの影響よ」
『ゆかりフォーメーション』に反応したのか、布団の上のゆかりがゴロンと寝返りを打って腕立てふせの準備のような態勢でぐっと背中を反らせた。もうすぐハイハイしそうな勢いの成長ぶりだ。
「あ、電話よ」
萱場の携帯が振動する。見たことのない番号だった。
「夜分遅く失礼いたします。萱場コーチの携帯電話ですか?」
「はいそうです。ええと・・・」
「佐倉日奈の父でございます」
「ああ、お父さんですか。ご無沙汰しております。この度はおばあちゃんが大変でしたね」
萱場は日奈を東城トランスポートの女子バドミントン部にスカウトする際、両親に会っている。それ以来だった。
「萱場コーチ、日奈から連絡させて頂いているとは思いますが私の母はつまずいて転倒した際の背骨の圧迫骨折で大事には至りませんでした」
「ええ。リハビリすれば歩くのにも支障ないと聞いて安心しました」
「ただ・・・実は少し事情が複雑でして・・・」
「複雑?」
「ご多忙な萱場コーチにご無理なお願いとは思ったのですが、一度鹿児島にお越しくださいませんか?」
「え、私がですか?」
「はい。日奈に言って聞かせてやって欲しいんです。まさにあの子の人生の岐路だという気がするものですから」
そのあとやや長い時間をかけ、メモさえ取りながら萱場は父親の説明を聞いた。それほどに事情は重く、父親の言う通りここが日奈の人生の分かれ目だと萱場自身も直感した。
「わかりました。一旦職場の上司と部の監督に確認だけとらせてください。その上でお父さんにもう一度お電話します」
電話を切った後で妙子が心配そうに訊いてきた。
「日奈ちゃん、大丈夫なの?」
「・・・大丈夫なようにしてやりたいと思ってる」
「鹿児島へ?」
一瞬だけ萱場は目を閉じてから妙子に答えた。
「妙子。日奈は俺の責任と判断で東京に出て来させた。そして彼女は佐倉家の大事な跡取り長女だ。なんとかして鹿児島に行かせて貰えるよう課長と監督に頼んでみる」
「そうよね。大事な娘さんを預かってるんだもんね」
「ああ。日奈のためだ。天秤にかけるまでもない」
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