社員であり、且つ、アスリート
萱場は一部上場の海運会社、東城トランスポートのバドミントン部に所属している。東城トランスポートは海運が主たる事業ではあるものの、最近ではタンクローリー等の陸上燃料輸送分野にも注力している。萱場は小型ではあるが、自らタンクローリーの運転手として、東京近郊の農協や漁協系のガソリンスタンドや油槽所に、主にスポットの灯油を輸送する仕事をしている。実業団のバドミントン部員として日本リーグで男子ダブルスの全日本ベスト4を5年維持し続けてきた選手が、自ら勤める企業の、しかも現場の最前線で普通に働くということは異例のはずだ。しかし、萱場にとってはごく当たり前の自然なことだった。自分はバドミントン部員である前に、東城トランスポートの社員なのだ、と常に意識していた。
萱場は横浜にある県立高校の工業科を卒業した。本当は商船高校に入りたかったのだが、就職の選択肢を広げる必要性に迫られ、工業科を選んだ。彼は友達に誘われて高校からバドミントンを始めたのだが、身長188cm、リーチも長い彼の体格が物を言い、3年の夏、シングルスで神奈川県大会優勝。インターハイに出場した。インターハイでは個人戦でベスト16に入るのがやっとだったが、いくつかの実業団からスカウトされた。しかし、彼は、声のかからない東城トランスポートに自ら就職活動を行った。そしてそれは、バドミントンを続けるためというよりは、東城トランスポートに入るためにバドミントンを利用した、と言った形の就職活動だった。
萱場は高校時代、バドミントン以上に学業にも打ち込み、危険物取扱の国家資格を幾つも取得した。そして、それを活かし、小型タンクローリーの免許も取得する。自分は仕事でもバドミントンでもどちらでも即戦力としてお役に立てる、と高卒枠の筆記試験をトップで合格した彼は役員面接で猛烈にアピールした。その甲斐あってか入社することができた。
若く、真面目で責任感も賢さも持つ萱場はあっという間に仕事を覚え、配送先の農協・漁協でも可愛がられた。それも、若い新入社員をからかう、というような可愛がり方ではなく、「カヤさん」と、既に一人前の社員として、半ば尊敬を受けるように取引先の現場担当者たちから慕われた。
仕事の面ではわずか19歳の頃から会社に貢献し続けてきた萱場だったが、バドミントン部員としては雌伏の時を過ごしてきた。
萱場はシングルスの控え選手として20代を過ごした。
‘息の長い選手’と彼は言われたが、それは‘鳴かず飛ばず’という意味でもあった。
彼がバドミントン部を退部せずに続けられたのは、社員としての現場での仕事ぶりが申し分ないものであったお蔭、とも言えた。
競技者としての転機は、ちょうど30歳となった年に訪れる。
萱場は監督からやんわりとコーチ兼マネージャーのような形で若手の育成に当たるよう言われた。それは暗に現役を退くようにという勧告だった。萱場ももう現役にそこまで固執するつもりはなかった。関東大学リーグのダブルスで準優勝した入社間もない若手を育成するために、しばらくダブルスのペアを組み、トレーニングの方法等、‘実業団選手’としての体づくりやメンタル面の自己管理等を教え込んだ。
萱場は老い行く肉体を維持するため、当時としては先駆的に体幹トレーニングを導入していた。そしてまた、コートをレギュラーほどは自由に使えない控え選手だったこともあり、
膨大な走り込みを自身に課していた。萱場はその新人にも同様のトレーニング量を求め、基礎体力から徹底して鍛え直させた。新人は何度も音を上げそうになったが、30歳の萱場が自分以上の過酷なトレーニングを涼しげにこなすのを見せつけられ、なにくそ、と食らいついてきてくれた。
そして、萱場自身、それまでやったことのなかったダブルスが見事なまでにはまった。
新人育成のために組んだにわか仕込みの萱場・新人ペアが部内のランキング戦で、レギュラーのペアを次々に打ち破った。
萱場たちのペアは相手から、「とにかく、やりづらい」と舌を巻かれた。膨大な走り込みで作った足腰という土台の上に、体幹トレーニングで鍛えた軸のぶれない体、そしてシングルスで培った相手の心の動きまでも読む洞察力。これらが、萱場のスピードの衰えを補って余りあった。何よりも、「小僧どもが」と相手を呑んでかかってしまっているかのような萱場のどっしりとした精神力に、敵は試合の途中でほとほと疲れ果てる、といった塩梅だった。
レギュラーの座を勝ち取った萱場たちは、低迷していた東城トランスポートの日本リーグ団体準優勝に貢献しただけでなく、個人戦でも国内ベスト4となった。
しかし、萱場は1人の新人選手を育て上げると、「お前はもっと若い奴と組め」、と、二十代半ばの油の乗り切った選手に預けた。そのペアは国内でもトップを争い、世界ランキングでも10位台のペアに成長した。
そして、萱場自らはまた一から別の新人を鍛え上げて新たなペアを組み、国内ベスト4に食らいこみ、またその選手に別のペアを組ませて国内トップペアにさせる、という作業を5年近くも続けてきた。
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