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機織 了

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 鏡に映した自分が女だったのでアイシャドウを引いた。

 姉譲りの時短メイクで最低限゛見られる゛顔を作ると、毎朝恒例のタイムトライアルの始まりである。これは主として出発時間ギリギリまで寝ている俺という人間の生活習慣に起因する。

 クローゼットを開けてブラウスと細身のパンツを取り出した。一緒に掛かってた薄手のカーディガンも保険として連れていくことにした。

 なるべくどちらの性別のときも着られるような服を選んでいるが、肩周りなんかがどうしても合わなくなるので、上だけ男物と女物の両方を用意している。

 近ごろはスカートを履く男性も増えてきたとはいえ、もともと男として長くやってきたのでどうにも落ち着かないのだ。



 正面入口を抜けてゲートに社員証を通したらオフィスへ向かう。

 自分のデスクに腰を下ろすと、「おはよう。今日はそっちなんだね」と隣に座るサヤカが言った。彼女はツイッターに次々と流れてくる美少年のイラストを「いいね」するのに忙しそうだ。

 「あっちの゛彼女゛は朝からあんな感じよ」

 サヤカが視線を投げた先には、小柄な青年が課長と談笑していた。

 社内規定範囲内で明るく染めた短髪に、ネイビーのスーツがよく似合う。ダークブラウンの革靴はきちんと磨かれていたが、あまり使い込んだ様子はなくまだ少し固そうに見えた。ドット柄のネクタイの動きに合わせて覗くシャツの合わせは逆で、それが女物であることを示していた。


 子供のころ、小学校のクラスに一重まぶたになったり二重まぶたになったりする友人がいた。彼が言うには、朝起きた時点でどちらかになっており、気がつくと変わっているということだった。

 生まれて此の方一重の俺にはにわかに信じ難いが、彼にとってはそれが普通らしい。

 「違和感はないのか」と尋ねると、彼は少し逡巡した後、「ちょっと目がゴロゴロする……こともある?」となぜか疑問系で答えた。なんだかものもらいみたいだなと思った。

 家に帰った俺は洗面台の前でまぶたを引っぱって被せてみたり、摘まんで寄せたりしてみた。

 高校から帰宅した姉が俺を一瞥して「お前に変顔の練習は必要ない」と言って部屋に向かった。じゃあ同じ顔の姉ちゃんも練習要らずだな、とは口に出さずにおいた。いのちだいじに。

 高校生になってしばらくしたある朝、自室で目覚めると俺は女になっていた。

 シャツの裾から手を入れるとないはずの膨らみがあり、パンツの上から手を入れるとあるはずの膨らみがなかった。

 本気で驚いてはいたのだけれど、とりあえず巨大な虫になっていたわけでなくてよかったと、のんきにそんなことを思った。

 それ以来、目覚めるとときどき性別が変わっているということが起こるようになった。


 小柄な゛彼女゛は俺と目が合うやいなや顔を綻ばせ、とてとてと俺のもとへ駆け寄ってきた。そのさまは少女マンガなら「ぱあっ」という擬態語とともに花でも撒き散らしそうなほどである。

 「おはようございます! 今日も美人ですね!」

「おはようミナト。………あのさ、俺が女で来た日だけテンション高いのやめない? 割りと複雑な気分になるから」

 もう何度も゛転換゛を経験してきたが、それとこれとは別である。俺は繊細なのだ。

「もちろん男性のお姿も素敵です」

 伝わっていない……。どうやら話すだけ無駄だと悟った。あと、その言い方だと普段が男装みたいに聞こえるだろ。

「゛転換者゛だってもう昔ほど珍しくないわけですし、もっと堂々としてればいいんです」

 「他人事みたいに言ってるけど、そういうお前だって今日はガッツリ男じゃんか」

「言わないでくださいよ。デリカシーがない男は女の子にモテませんよ」

 どの口が言うんだという話だが、は自分が男性の姿でいることをあまり気分よく思っていないらしいので、それ以上はツッコまないでおいた。

 「ああ」隣で話を聞いていたのであろうサヤカが得心いったという風に頷く。

「営業部は確か昼から報告会よね。今回は初めてのプレゼン担当なんでしょ? がんばって」

 それでこいつ、他部署まで来てウチの課長と喋ってたのか。

「ありがとうございます~! はぁ、林田先輩は流石だなぁ。そうなんですよー。本部や社外からお偉い方々が来る席にで出席するわけにはいきませんから」

 「お前……、もしや緊張して落ち着かないからって俺をイジりに来たのか?」

普段より妙に口数が多いし。思わずじろっと睨むと

「違いますよ! なんでそう卑屈なんですか」

と即座に否定された。ほんとかなぁ。

「先輩にはちょっと頼みたいことがありまして――」

 「ねぇ」

 そうミナトが言いかけたところで、

「盛り上がってるところ悪いけど、そろそろ始業よ。二人とも席に着きなさい」

とサヤカに嗜められてしまった。

 サヤカは俺と同期入社だが大学入試のために一年浪人しているため学年はひとつ上で、友人であり同時に姉のようでもあった。

 それからすぐに課長による朝礼がおこなわれ、またいつも通りの一日が始まる。

 女だろうが男だろうが、黙々と目の前の仕事を片付けねばならないことに変わりはない。

 やがてミナトは報告会へ行き、俺とサヤカはひたすらデスクで業務に追われた。

 ミナトの「お願い」とやらは休憩中にメールで内容が来ていた。先輩のアフターファイブを奪うとはなかなか強気な後輩だ。

 ビル街を駆ける風が昼の匂いをどこか遠くへ運んでいった。



 「クマノミって魚いるじゃないですか」

 ミナトはいつもこんな調子で前触れもなく話題を投げてくる。そういえばさっき覗いた小洒落た店に小さい水槽があったな。中身は淡水魚だったが。

「急にどうした」

「単なる雑談ですけど。とりあえず聞いてくださいよ」

 お互いに少しの残業をこなしたのち本社から戻ってきたこいつと駅で合流。そのまま駅ビルの服屋に来ている。

 「買いものに付き合ってほしい」それが頼み事の内容だった。

「別にいいけどさ。ニモだろ」

「まあ、そうです。クマノミってつがいの大きい方がメスになるらしいんですよ」

 ミナトは短くなった襟足を確かめるように首元に手をやる。昨日まで肩口に届いていた髪は面影すら残していない。

 あらかじめ目をつけていたらしいブティックに二人で入った。駅ナカのこじんまりしたスペース内は仕事や学校帰りと思われる若い女性客で賑わっている。

「つまりそれって、好きになったときには男とか、女とか、全然気にしてないってことですよね。すごくないですか?」


 ミナトとは定食屋のカウンターで隣になったのをきっかけに話すようになった。

 当時転職して間もなかった俺は゛体質゛のこともあって色々とオフィスの注目を浴びていた。別にそれで嫌がらせを受けたとか、過度に詮索をされたとか、そういうことはなかったが居心地が悪いことに変わりはなかった。

 仕事に集中してるあいだは気にならない視線も、休憩時間となるとそうもいかない。部署の同僚のほとんどが社屋内の食堂やコンビニで済ませるなか、外に゛逃げ場゛を求めたのは自然な流れだった。

 なぜだったかはもう忘れてしまったが休憩に入るのが少し遅れた日があった。得意先のオヤジの電話が長かったとか、そんな程度の理由だったと思う。

 「唐揚げ定食で」

「申し訳ありません、たった今唐揚げが切れてしまいまして……」

 品切れなら仕方ないか、と思っているところに店員のもつ唐揚げ定食が飛来し、隣の客の前に着陸した。

 そいつは心底申し訳なさそうに「あの……、よかったら何個か食べます………?」と、おずおずと皿を差し出してきた。

 いい人には違いないのだろうがそれよりもまず、ヘンな男だなぁと思ったのを覚えている。

 ミナトとは他部署だったので、お互い「なんとなく見覚えはあるな」くらいの認識だった。新卒の青年と転職直後の俺。歳も近くどちらも新人の、打ち解けるのにそう時間はかからなかった。

 随分久しぶりに女になった日、俺は何も考えず普段通り定食屋に向かった。今考えてもあの日の俺は気が抜け過ぎだったと思う。

 そしてあろうことかそのままミナトの隣に座り、いつものように話しかけてしまった。相手からしたら知らない女が他に空いてる席があるのにわざわざ隣に座り、さも知り合いかのように話しかけてきたわけで、さぞかし怪しさ爆発だっただろう。

 その後誤解は解けたのだが、その「知らない女」が俺だと知ったあいつはただひと言「いいなぁ」と言った。外見の性が変わるこの身体が心底羨ましいと、そう言った。

 生まれてからずっと、彼女は一貫して男性だった。

 男性として誕生し、男性として育った。

 「性同一性障害」

 男として生きる彼女を世の中はそう呼んだ。

 「いいんじゃない? 身体が男でも自分を女だと思って生きれば」

 唐揚げ定食を平らげながら俺はそう言った。

「簡単に言わないでくださいよ。相手によっては殴られても文句言えないですからね、その発言」

 俺の言い様に多少の怒気をはらんで彼女は返す。

 「うん……でもさ、俺みたいのが他にも大勢じゃないかもしれないけどそこそこいてさ、そいつらは外見が男になろうが女になろうが生活をしてるわけじゃん。どんな格好してようが俺は俺だし。

 着たい服着て言いたいこと言って生きたいように生きればいいと俺は思うけどね」

 もちろん皆がそう割りきっているわけではないだろうが、少なくとも俺のスタンスはそうだった。どうしようもないものはどうもしなくてよい、それはある人から見れば傲慢かもしれないけれど、そう思っていた。

 俺の言を聞いているうちにこいつには何を言っても無駄だと悟ったのか、それまでの怒気は身を潜め、顔には呆れの色が浮かんでいた。

 「じゃあ言わせてもらいますけど。先輩、貴方それで化粧してるつもりですか!?」

「え。あれ、そんなにダメ?」

「女子ナメてんですか?ここまで言われたからには迂闊に外を歩けないくらい絶世の美女に仕立て上げてやりますから覚悟しててください」

「待って? 俺はあくまで心は男であって趣味でこんな女の格好をしているわけではないんだよ?」

 「でも『どんな格好でも俺は俺』なんでしょ?」

そう言って彼女は意地悪い表情で笑った。

 翌日彼女は女性ファッション誌の表紙モデルごときそれはそれは美しい格好で出勤し、その場に居合わせたうち何名かが道を踏み外したらしいことは、俺を含めた支部の誰もが知るところだ。


 その彼女は今、「NEW ARRIVAL」の棚から次々と商品を手にとっては、すっかり着せ替え人形と化した俺に合わせてうんうん唸っている。

「先輩。をもらってやってはくれませんか」

「またそれか。しかもよりによってこの姿のときの俺にそれを言うの?」

「いつ言ったって同じです。いつの貴方だって貴方なのですから」

「いつ言われたって同じだよ。NOだ。」

 彼女はもう、毒針の要塞に逃げ込んだか弱い魚ではない。俺という安心できる共生者にいつまでも住み着いていてはいけないのだ。

「つれないなぁ。もらえるもんはもらっとけばいいのに」

「あのね? そういう自己評価の低さをどうにかしてほしいってずっと言ってきたつもりなんだけど伝わってる?」

「やっぱり身体が女じゃないと嫌ですかー?この変態さんめ」

「どちらにせよ俺が言えた立場じゃないんだよなあ。正直それもなくはないよね」

「ではもしものときのために女どうしのやり方も伝授しておきましょうか」

「そんなもしもはいらん」

 というかなんで知ってる。


 「いらっしゃいませ~」

 ミナトが気になった服を片っ端から俺に試着させているところへ店員の女性が話しかけてきた。

 俺にあてがわれた服を店員がチラッと見て言う。「こういったイメージの服がお好みですか? それでしたら―――」

 それからの俺は、ミナトと店員の二人に小一時間おもちゃにされながら、ものすごいスピードでいっぱいになっていくカゴを恐怖とともに見守っていた。半ばヤケクソになってカードを切ったころにはすっかりへとへとになっていた。

 「彼女さんのお洋服選びにこんなに付き合ってくれる彼氏、ほんと羨ましいです~! 私の彼にも少しは見習ってほしいくらい」

 彼女を見た店員は俺にそう言った。

「いえいえ、があんまりにもファッションに無頓着だから、僕のほうから引っ張り出してきたんですよ」

 答えたのは彼女だった。

 女性の店員はふわっと優しく微笑んで、

「いいんですよーそのとき着たい服を着れば。

 しわしわのおばあちゃんになってからタイトなドレスを着たっていいし若い人が和服を普段着にしたっていい。

 男性がスカートを履いたっていいし女性がネクタイにこだわったって本当はいい、と私は思います」

 脳裏に、まっ白なドレスに身を包んだミナトの姿が映った。迷いない足取りで彼女が向かった先にはタキシードを着た人物が待っている。

 彼、あるいは彼女がミナトの手を取り二人は祝福を受ける。

 披露宴が始まると入れ替り立ち替り人がやってきては夫婦と楽しげに言葉を交わす。その笑顔を俺は少し遠くの席から眺めている。

 そうして華やかな披露宴には少しだけ場違いな唐揚げを口に放っては、身勝手な寂寥感にひとり苛まれるのだ。

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