たえまなく、とめどなく

ギア

たえまなく、とめどなく

 それが初めて起きたのは半年前のことでした。朝食のあと、洗面所で歯を磨こうとしていたときでした。うしろのリビングからはテレビから流れる朝のニュースと病院に電話をしている妻の声がしてました。

 残り少ない歯磨き粉のチューブは、しぼり出しやすいように端から巻いてありました。前の晩の感じだともうあと1回が限度でした。だからもうこの朝で使い切ってしまうつもりでした。

 押しこみやすいように、注射器を持つような感じで、そうこんな感じで、歯磨き粉の容器を右手で構えてからフタを開けました。

 ええ、注射器です。いや、私よりあなたのほうが詳しいでしょう。こう、人差し指と中指で出口を挟みこむような感じで、親指を……いや、持ち方なんてどうでもいいんです。問題は結果です。

 もう片手に構えてた歯ブラシに歯磨き粉を押し出しました。思いのほか残っていたようで1回分の量はすぐに足りてしまいました。

 ただ私としては使い切ってしまうつもりだったんです。だから、まあ少しぐらい多くても構うものかと思って。

 分かっています。急いでいらっしゃるのはよく分かっています。しかし私の話を聞いてください。重要なことです。すぐ分かっていただけると思います。

 どこまで話しましたか。ああ、そう、そうです。もうほとんど残ってないと思ってた歯磨き粉が思いのほか残っていたんです。

 はい、ブラシにもう十分な量の歯磨き粉が出てました。でも使い切ろうと思っていた私としては「かまうものか」と……「多すぎてもかまうものか。多少こぼれてもかまうものか」と、まあ、そういう気持ちだったわけです。

 ところがいつまでたっても歯磨き粉は絞り出されました。ええ、いつまでも。

 チューブはこれ以上ないほどに小さく折りたたまれてました。歯ブラシの上に乗りきらなかった歯磨き粉は見苦しいほどに流しに垂れ始めていました。

 それなのに止めどなくチューブからは歯磨き粉が出てきました。親指を強く押しつけると、押し続けた間だけ歯磨き粉が出てくるのです。

 勢いよく噴き出すこともなく細々と、しかし決して止まらずに出てくるのです。歯ブラシからこぼれる白いそれは流しに溜まり続けました。

 どうしたの、と妻がリビングから声をかけてくれなかったら私は間違いなく会社に遅刻していたでしょう。私は慌ててチューブから手を離しました。まるで包丁の刃の部分を握りしめていたかのように。

 床に落ちたそれは呆れるほど軽い音をたてました。

 リビングにあるテレビが朝のニュース番組が時刻を告げました。

 このままでは遅刻するという思いが体のスイッチを入れました。床に落ちたチューブを流しの上に放り出し、形ばかりに歯を磨き、蛇口を目いっぱいひねり、流しに溜まっていた両手いっぱいの歯磨き粉を排水溝へと押しこみました。

 明らかにチューブの容量を超えるその真っ白いペースト状の何かを視界の外に追いやろうと必死でした。

 流し終えていつもどおりの流し台を見つめ、一息ついたところでワイシャツの袖が水浸しになっていることに気が付きましたが、着替える時間はなかったのでそのまま会社へ向かいました。

 会社に向かう途中、散々考えました。精神的なストレスが原因かとも思いました。え? ああ、はい、それはもう。いや、でもそれが原因とは思えませんでした。流しに溜まっていた白い歯磨き粉の山は紛れもなく現実だったのです。

 それから1週間ほどだったでしょうか。次はインスタントコーヒーでした。

 会社では数年前から節電を理由に自動販売機が撤去されました。私を含めて多くの社員が、自前のマグカップとインスタント系の飲み物を机にしのばせていました。

 インスタントコーヒーとかティーバッグとか、まあ人によって様々でした。私は家で飲めないカフェイン入りの飲み物が欲しくて、とりあえずスティックコーヒー派でした。

 ご存知ですか? スティック状の袋にコーヒー1杯分の粉末が入っている……ああ、知ってますか。

 え? ああ、はい、分かってます。確かに瓶詰めのほうがコストパフォーマンスは良いでしょうね。ただ、私はどうにも分量を調節するのが苦手でして、必ず同じ量を入れられるこのタイプの商品には助けられてました。

 あの日までは。

 いつものようにマグカップとスティックを持って給湯室へ向かいました。給湯室から私と入れ替わりで1人出て来ました。

 中には誰もいませんでした。

 待つ必要も、待たせる必要もないことがありがたかったです。苦手なんですよ。待つことも待たせることもね。だから今回の……ああ、すいません、分かってます。話を急ぎます。だから大事な話なんですよ。

 マグカップを消毒がてら軽く熱湯でゆすいでから、スティックの端をつまんでちぎりました。傾けると小さく開いた隙間から水のようになめらかに粉が出てきました。

 私はそれを眺めるのが好きでした。安物だとすぐ詰まるし溶けづらいしでイライラさせられるので、少し値が張るその銘柄をあえて買ってました。

 流れる粉がマグカップの底を薄く覆いました。

 そして粉は流れ出し続けました。

 粉がカップを半分ほど満たしたところで我に返りました。傾けていたスティックをそっと縦に戻しました。出続けていた粉は止まりましたが、カップを半分満たした粉はそのままでした。

 そうでしょうね。私を狂っているとお思いになるでしょう。当然です。仕方ないと思います。

 そのときも、私は取り乱すべきなのかもしれない、と冷静に考えている自分がひどくおかしくて、笑ってしまいそうでした。

 手にしていたスティックはほとんど空のように感じられました。振ってみても軽くてかすかな音しかしません。でもあらためてスティックを傾けると、岩の隙間から湧き出る水のように細々と、いつまでも止まることなく粉が出続けたのです。

 それがマグカップを完全に満たしたところで私は注ぐのをやめました。

 そしてスティックの袋を両手に持って2つに引き裂きました。

 中に残っていたわずかな粉が宙に舞いました。それだけでした。

 私はマグカップに満たされていた粉を全てゴミ箱に放り込み、自席へと戻りました。それ以来、会社ではペットボトルのお茶しか飲んでいません。もちろん透明な容器のペットボトルのお茶です。

 それからも思い出したように「それ」は起きました。

 会社の付き合いで行った飲み会の次の日、胃薬を飲もうと封を切ったときにも起きました。妻が入院したあと、スーパーで買って来た寿司で夕飯を済ませようとして醤油のパックの封を切ったときにも起きました。

 それは、内の見えない中から、わずかな隙間を通って何かが出てくるときに起きるんです。私が、見ているときだけに起きるんです。


「そういうわけなんです。分かっていただけたでしょうか、先生」

 分娩室の前で話し終えた男性に、医者は大きく頷き、そして叫んだ。

「いーえ、まーったく分かりませんねぇ!? いいから、とっとと奥さんの出産に立ち会うのか立ち会わないのか決めてくださいよ!!」

「あんた、今の話を聞いてなかったのか!? 私が立ち会ったら大変なことになるぞ!? いいのか? あ? 次から次へと子供があふれてきたら困るのはあんたたちもだぞ!?」

「あのなぁ! 黙って聞いてた自分が馬鹿だったよ! あなた、昨日まで絶対に立ち会うって言い張ってただろうが、単に怖くなったんならそう言え!」

「はあ!? 分かってんなら聞くんじゃねぇよ! ああ、そうだよ、今日になって怖くなったんだよ! 言わせんな、恥ずかしい!!」

 そのとき分娩室の中からおそるおそる顔を出した看護師が泣きそうな声で割って入った。

「あのぉ、先生ぇ、もう生まれそうなんですけどぉ」

 医者に向けられた言葉だったが反応したのはもう1人のほうだった。男性は医者を突き飛ばすと部屋へと飛び込む。

「それを早く言え! 今行くぞ、我が妻よ! 何を恐れるものか!!」

 床に尻もちをついた医者が立ち上がるのを手助けしつつ、看護師が苦笑いを浮かべる。

「色んな方がいますねぇ」

「それは認めるが、アレは例外中の例外だ」

「ですよねぇ」

 顔を見合わせ笑みを浮かべた2人は分娩室内へと歩を進めた。

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