#3

 それから約二〇分後。

 「彼に会えなかったからね。ずっと忙しくしてて」

 というさほ子の言葉の意味を、博人が図りかねていた22階と21階の間の踊り場。

 博人が背にする壁には、上下階の矢印がプリントされ、さほ子が座るリノリウム張りの階段は、何の色気もなかった。行き交う人がふと、途切れた瞬間。

 まるで時間がとまったように、ふたりのあいだに真空の瞬間が訪れた。

 さほ子が、言った。


 「ねぇ、いまでも、あたしとセックス、したい?」

 「したいよ。しないけど」


 博人はそう、答えた。

 いままで何度も繰り返した、ふたりだけの挨拶のような会話だった。ふとしたきっかけで知り合い、博人が好意を抱き、さりげなくその気持ちをさほ子に伝えた。それを聞いたさほ子は、「わたし、淫乱よ?」と答えたものだった。

 「わたしとしたい?」「したいねぇ」言って、ふたりは笑い合った。そういうことを照れもせず、隠しもせずにさらりと言えるところが、さほ子の魅力だったし、さほ子にしても、そう受け流す博人の余裕を、嬉しく感じた。

 この踊り場で、ふたりはそんな会話を交わしながら、埋めるに埋められない距離が、不意に縮まった気配を感じ取っていた。

 「歩こうか?」座っているさほ子に、博人は手を伸ばした。さほ子はその手を取る。

 「うん」言って、さほ子は立ち上がった。そして素足のまま、微かによろめくように進むと、とても自然に博人の胸に、さほ子は収まった。

 21.5階の踊り場で、ほのかに酒に酔い、そして歩き疲れたふたりは、そっと抱き合った。

 さほ子の髪とコロンの香りが、博人の鼻から、胸いっぱいに広がった。さほ子は、思いがけなくがっしりした身体つきの博人の胸に、頬を押しあてた。

 見知らぬ誰かが、階段室を降りて行った。息を切らせながら。ふたりは目を閉じたまま、そっとそこで抱き合っていた。誰かの足音が遠くに消えてしまうと、博人は答えた。

 「失いたくないんだ。きみのことを。

  セックスしても、どこにも行かないって約束してくれるなら、今すぐにでも押し倒すよ」

 半分は冗談で。そして半分は本気の言葉だった。しかし冗談と本気の境界線は、言った博人にさえ、さっぱり判らなかった。

 さほ子は何も答えなかった。

 その沈黙が、博人には耐えられなかった。それほどに、さほ子への想いが強くなっていたことに、いまさらのように気づいた。そして狼狽した。

 「このままさらってしまいたいよ。どこか遠くへ」

 つい、そう言ってしまった。それは明らかに、腹からの言葉として、口を出て行った。止められなかった。さほ子を、胸に抱いた状態では。

 「うん」

 と、胸でさほ子が言った。微かに首を縦に振ったのも、博人には感じられた。

 博人は、失うと判っているものを得るよりも、大事な何かを温存することにした。

 鼻でクスリと笑うと、彼は言った。軽い声で。

 「うなずかないでよ。キスしそうになるよ」

 うつむいたままのさほ子の声も、先ほどとは違って、色鮮やかで軽くなっていた。

 「キスぐらいならいくらでもさせてあげるけど、そこでやめる自信がないから、しないでね」

 ふたりでわらって、身体を離した。鼻の奥が、切なさでチン、となった気がした。

 けれどもふたりは手を取り合って、残り21階分の階段を降り始めた。

 会えたことを倖せに思って、そして甘く後悔しながら。

 ふたりは階段を下りつづけた

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