魔王少女と呼吸の生徒会

キングスマン

第1話

 猫かと思った。


 はじめに小さな吐息が耳をくすぐった。


 次に髪をもてあそばれた。


 最後に頬を舐めてきた。


 だから、猫なんだと思った。


 でも違った。


 目を覚ますと、少女がそこにいた。



 吐息のかかる距離に綺麗な顔がある。


 互いを引き立てあうような黒く長い髪と、白く透きとおった肌。整った形をした鼻に、凛とした瞳と少し小さな唇。わかりやすいくらい完璧だった。


 不思議な潤いをまとった黒い瞳が、まっすぐに僕を捉えている。


 僕の目覚めに気づいて、彼女は顔をほころばせた。


 ところで僕はここで何をしているのだろう。


 ところで彼女もここで何をしているのだろう。


 とりあえず、僕はパイプ椅子に座った状態で長机に右の頬をつけて眠っていたらしいということは、現在の体勢から把握できる。


 向かい合う彼女は、左の頬を机にペタリとつけて僕を見つめている。


 あらゆるものが正反対の僕と彼女は、天井裏から眺めたら綺麗なついになっているのかもしれない。


 何か喋るべきか、それとも起き上がるべきなのか、目覚めきっていない頭で思考を巡らせていると、透明な果実をかじるように、彼女の小さな口が何度か動いた。


 それが僕に向かって話しかけているのだと気づくまで、ほんの少し時間を要した。


 お、は、よ、う。


 そう語りかけられている気がした。


「──ふぁよう」


 あいさつを返すつもりが舌が上手く回らず、まぬけな声をもらしてしまった。


 彼女は笑った。本当に綺麗な顔だ。


 僕は恥ずかしさで胸が熱くなった。


 とにかく、この体をどうにかしよう。


 背筋を使って僕は机から顔をはがした。机と密着していた右側の頬が少しヒリヒリして、首のつけ根がコキコキと鳴った。


 僕につづいて彼女も起き上がった。浮かぶようにふわりと、重力を感じさせない動きだった。


「おはよう」と彼女は言った。今度は耳に届く声量で。


「おはよう」と僕は言った。今度はよどみない発音で。


 眠りから覚めた脳がようやく動き出してくれたようで、僕は自分がここにいる理由と目的を思い出した。


 今日この生徒会室で、僕は二人の人物と会う約束をしていたのだ。


 一人はちょうど今、目の前にいる彼女。彼女はこの学校の生徒会長でもある。


 もう一人は学年主任の藤沢先生。


 来週、全国ネットの生放送でスピーチをすることになってしまった僕が、全国のお茶の間で醜態を晒さないために、今日からここでスピーチの特訓をすることになっていた。


 今日は土曜日、本番は来週の土曜、午後七時。歴史あるチャリティー番組で、僕は勇気を持つことの素晴らしさについて語ることになっていた。


 スピーチの内容は番組のスタッフが用意してくれた原稿を学校側で手直しをしたものがすでにある。問題はそれを読み上げる僕の朗読能力の低さだった。


 ためしに一度、声に出して原稿を読んだとき、周りにいた大人たち以上に僕自身が一番自分に驚いていた。はじめてのこととはいえ、まさかあそこまで声が出せないとは。


 即座に藤沢先生が特訓を提案してきたのも当然だろう。


 原稿の手直しを担当した生徒会長の彼女も、様子を見ながら表現を調整したほうがいいかもしれないと言って、参加してくれることになった。


 特訓は本番当日まで毎日行われる予定だ。しかたがないとはいえ、高校二年生の夏休みという貴重な時間の一部を奪われることになってしまった。


 壁に掛けられた丸いアナログ時計を見ると、現在の時刻は十二時三十分ちょうど。


 元々の集合時刻は午前十時だった。


 僕はその二十分前にはここに到着していた。


 しかし、約束の時間になっても他の二人がやってこない。


 あろうことか、生徒会長と学年主任が遅刻していたのだ。


 職員室まで呼びにいってみるべきか考えてみたものの、職員室のある東棟は生徒会室のあるここ西棟からずいぶん距離があるし、必ずそこにいるとはかぎらない。


 加えて今日はこの夏一番の暑さであり、困ったことに誰もいない生徒会室にはなぜか心地よく冷房が効いていた。これは侵入者を逃がさないための罠に違いなかった。


 エアコンの風にあおられながら僕は頭を働かせる。


 通常、生徒会長と学年主任は遅刻などしない。もしそういう立場の人が約束の時間に遅れるようなことがあるとしたら、それはきっと僕みたいな一般生徒には想像もつかない激務に追われているといった、正当な理由があってのことだろう。


 つまり僕が今するべきことは、遅れてきた者への愚痴を考えることではなく、寛大な心で静かに二人を待つことだ。


 部屋のすみに重ねられていたパイプ椅子を一つ取り、部屋の中央で長方形に並べられていた長机に近づき椅子に腰かけて、頬を机の上にあずけた。


 誰かが近づく気配があればすぐに姿勢を正すつもりでいた。


 セミと吹奏楽部の演奏と、遠くで遊んでいる子供たちの声。


 夏を彩る音符にしばらく耳をかたむけていた。


 しかし人が訪れる様子はない。


 室内はただ、涼風が心地よい。


 眠りに落ちたのは必然だろう。


 それからたっぷり二時間以上が経過して、ようやく待ち人は現れたようだ。



「えっと……」


 そこから先の言葉が浮かばなかった。


 眠っていたことを謝罪するべきか、遅れた理由を訊ねるべきか、あるいは世間話でもはじめてみればいいのか。


 そもそも彼女はいつからここにいたのだろう。


「よく眠れた?」


「え?」急な問いかけに声が裏返る。「あ、はい」


「あんまり気持ちよさそうに眠っていたから起こしづらくて」


「そうだったんですか」


 彼女と僕は同級生だが、あまり面識がないことと、生徒会長という肩書き、そして何より彼女の内側からあふれる清楚な威厳が僕に敬語を使わせていた。


「遅れてごめんなさいね。ちょっとバタバタしてて」


「別に気にしてませんよ」


「それにしても今日は暑いね」


「そうですね」


 僕が言葉に迷っていると、彼女のほうから眠っていたことへの感想と遅れた理由、そして世間話がやってきた。


「そういえば、藤沢先生は?」


 こちらからも何か話しかけるべきだと思い、そう訊ねた。


「まだ用事が残ってるみたいで、ここにくるのはもう少しかかるみたい」


「へえ」


 会話はそこで終わり、沈黙と気まずさが生まれる。


 先生がやってくるまで、もてあました時間を雑談で埋めようとした僕の小さなもくろみは、まばたきをする隙もなく潰えた。


 思えば僕が異性と交わせる話題なんて、天気と気温についてくらいしか持ち合わせていない。


 まるで、ここだけ秋が訪れたような静けさ。


 あれだけやかましかったセミの鳴き声が消えていた。絶滅したのだろうか。


 僕が今味わっているものと同等の気まずさを彼女も味わっているのだろうか。


 なんだか彼女に申し訳ないことをしてしまった気分になり、罪悪感すらわいてくる。


 とはいえ何もできない僕は、何かをまぎらわすように意味もなく室内のあちらこちらに視線を泳がせていた。


 教室のものより一回り大きな黒板、三つもあるホワイトボード、僕が先ほどまで枕代わりに頬を預けていた長机の上には、握りこぶしほどの大きさの球体がついた銀色のトロフィーと、ちまたで女の子たちに人気のウマアザラシと呼ばれているキャラクターのヌイグルミが鎮座している。


 長方形のドーナツみたいに並べられた長机。その中心部の床にだけ、何かを隠すようにオレンジ色の絨毯が不自然に敷かれていた。


 あの絨毯をはがすと、そこには扉があって、その中には棺が隠されていると生徒たちの間でもっぱらの噂だ。僕は棺というものを実際に見たことがないので、それの正確な大きさはわからないけれど、本当にあの絨毯の下に空間があるとするなら、人を包む器くらいなら入れることは可能に思えた。


 馬鹿げた妄想で現実から距離をとっていると、彼女の声がそこから僕を連れ戻す。


「ねえ、ちょっと変な質問してもいいかな?」


 その問いかけがすでに風変わりに思えたけれど、気まずさから脱出できるチャンスの訪れに感謝して「ええ、かまいませんよ」と返事をした。


 彼女はどこか照れた様子で少し上目遣いになってこう言った。


「きみってさ、牛乳は大丈夫?」


 確かに変わった質問だった。


 牛乳が大丈夫かとはどういう意味だろう。食品としての好き嫌いを問われているのか、それとも僕が質問の真意を見落としているのか。


「まあ、嫌いではないです」


 と無難に答えてみた。


「それじゃあ、夜中にどこからともなく小さな物音が聞こえると怖くなったりする?」


 牛乳の問いに関する解答はなく、次の質問がやってきた。なんだか心理テストでもやらされている気分だ。実際にそうなのかもしれない。この後もいくつかの質問に答えて、最終的に僕の深層心理はあばかれてしまうのだろうか。


「物音はあんまり気にしたことないですね」


「そうなんだ」


 すぐに第三問がやってくると身構えていたのに、彼女はそこで右手の親指を下唇にあてて、何か考えている素振りを見せた。何気ない仕草がいちいち絵になる。


「ねえ、よかったら先生がくるまで一緒にゲームでもしない?」


「ゲーム?」


 その前に牛乳と物音についての解説をお願いしたかった。


 とはいえ、あの問いかけに何か特別な意味があったとも思えず、追求するほどの価値を感じなかったので「いいですよ」とうなずいた。


 彼女はやわらかく微笑んだ。それを見て僕は自分の選択が正しかったと確信する。


「じゃあ、さっそくはじめましょうか」


 彼女は身に着けている紺色のプリーツスカートのポケットから何かを取り出した。


 それはスマートフォンだった。彼女の髪に似た艶やかな黒いスマートフォン。僕も同じ機種の白色を持っている。


 着信があったのかメールでもチェックするのかと思ったけど、そうではないらしい。彼女はちょこちょことそれを操作して僕の前に横向きにして置いた。


 見ると、すでにアプリケーションソフトが起動していた。

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