その祈り

篠岡遼佳

その両手

 その日。

 その日が来ることを、私はニュースで知る。


 私はその日を、何ごともないように過ごす。

 心の中で、その時間を意識はする。

 けれど、気付くとその時間は過ぎていて、私は祈りを忘れていたことに気付く。

 また今年も忘れるだろう。

 そんな風に、時は経っている。否応なく、必然として。


 


 ――それは突如として起こった。


 誰も想像もしていなかった規模の、それは災厄、天災。

 真っ黒な濁流にすべてが破壊される様。

 全くの更地になった、まるで焼け野原のような街を見た。

 何度もそれはテレビに流れた。

 奪われた命は一万を軽く超えた。


 現場ですらない、東京の近くにいた友人からのメールが毎日届いた。

 ひたすらに物流のことや彼女自身の衝撃を綴ってくるメールは、私がひとりぼんやりと見る、テレビの中の光景と相まって、自分だけでは支えきれないほどの情報となった。


 日々同じニュースばかり流れるので、そのうちテレビを見ることはなくなった。

 新聞も取っていないから、どうなっているのかはわからない。

 情報が錯綜して、政府の対応もメディアの対応も、web上で集まり、こんがらがっていた。

 そんなものを受け止められるほど、私は冷静ではなかった。 


 ふと現地に縁のある人を思い出した。

 検索すると、すぐに行き当たる。

 彼はボランティアへその力を注いでいた。

 泥まみれになって、ある家を復旧させている写真も見た。

 仕事の合間にそういう活動をしているのだと知った。

 私はブラウザを閉じた。

 私は自分をよく知っていた。

 私は彼のようにはなれない。


 けれど、私は変わらなければならなかった。

 いや、すべての人がおそらく変わった。

 それは否応なく訪れた変化だった。

 この記憶は風化しつつ、しかし常にどこかに隠れている。

 そしてその日が近づく度、戒めとして我々の前に立ち塞がる。



 ――昔の私は、思っていた。

 この国は、社会は、大きな死で社会はつくられている。

 戦争、大地震、津波、テロ、殺人、自殺……。

 その度人々は傷つき、立ち上がり、新しい社会をつくってきた。

 

 だから、私はずっと願っていた。

 失われないこともあるはずの世界を信じて、両手を合わせて祈っていた。

 この国のために失われた命のために。

 いま生きている自分が、決して忘れないと言うために。

 忘れないことを祈った。安らかなることを祈った。

 けれど、失われない世界などなかった。


 ――私はまだ、生きています。

 失った私は、置いて行かれた私は、そんなことを祈った。

 祈ることで許されたかった。

 生きていることは私にとって罪悪だ。

 けれど死ぬことも選べずにいる私は、そう祈ることで許されたかった。



 私は、何ができるだろう。

 死に対して、死によってつくられた社会に対して、常にそれはつきまとう。

 いまもまた、できることはなにもない。

『たりないと思っているだろう? 自分を削らなければならないと思っているだろう?』

 心の中で、自分自身に見透かされている。

 するのなら、すべてを投げ打っていけるはずなのに、いつも中途半端に、私は祈るだけだ。

 私が私に言う。

『――お前は、常に置いていかれる。

 生きていればみな、死んだものに何かを託され、それを意識しながら、そして生きなければいけない。忘れながら、思い出しながら』


 毎日、誰にとっても誕生のための日であり、誰にとっても死の日であることを私は知っている。

 祈りは常に自分へ還り、そして安らかなれと思うことは自分自身のためであることを知っている。

 私は死者のための祈りを探し、口にする。

 生きていくものへの祈りはまだ、探したことすらない。




 ずっと長い間、死ぬことや死について考えてきた。

 それは自分のための祈りのようなものだった。

 長い間楽しいと思う記憶を置いてきぼりにしてきた私には、生よりも死の方が親密だった。

 消えてなくなれるなら、全部捨てられるならどれほど良いだろう。そう思っていた。

 やがて私は大切なものを失って、明日が永遠でないことを知って、すべてが終わる日は明日来ることを知って、祈りを知った。

 絶望は私に語りかけてくる。希望と同じ顔をして、恐怖と共に。

『大切なものは明日なくなる』

『けれど明日は必ず来る。望もうと、望むまいと』


 私は常にそれに支配されている。

 私は死者のための祈りを探し、口にする。

 生きていくものへの祈りは、探したことすらない。

 ――だから、だから、私の選ぶ物語のはじまりになるだろう。


 私が選び、次に物語を施すのは、明日歩くと決めている人を賛美し、強く背中を押すような祈りだ。




 明日、その日は来る。

 14時46分。

 祈ることを忘れる私は、当然だと思って日々を過ごす。

 私の祈りに何の価値もなく、何の力にもならず、何の影響もなくとも、私は明日を選ぶ。

 明日、生きることを毎日選んでいる。


 



 あなたは明日に愛されている。

 だからあなたと共に、私も明日、目覚める。

 希望の明日へたどり着くために。



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その祈り 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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