9話 お砂糖とスパイス(前編)
「ルカ、ちょっと裏庭で……」
「ごめん、父さん。これから出かけてくる!」
仕事が一段落したのを見計らって、木剣を手にした父さんが声をかけてきたのを置いてけぼりにして……俺は帽子とマフラーを引っつかんで家を飛び出した。
……別に父さんのスパルタ稽古から逃げた訳じゃ無いよ。本当に出かける用事があったんだ。ほらこの間食べた行列のできる肉串屋さんの使っていた調味料。あれを今日は探しに行くつもりだ。
「えーと、この辺のはずなんだけど……すみません、ディンケル商会ってどこですか」
「ぼうやの後ろの建物だよ」
「あ! ありがとうございます」
市場に向かい、通りすがりの人に聞いて見つけたディンケル商会――クラウディアの家はやはり大きな建物だった。
窓からそっと覗くと、お客の身なりも街中の商店で見るよりキチンとしている様に思える。男性の姿が多いな……日々の買い物っていうよりやはり仕入れなんだろうな。ま、このまま覗いていても仕方ない。俺は意を決すると商会の扉を開いた。
「失礼しまーす」
「いらっしゃいませ! ……おや?」
声をかけた店員は誰もいない中空に目を泳がせて、それから下に視線を移すと場違いな俺の姿を発見して不可解な顔をした。
「あの、クラウディアはいますか?」
「ああ、お嬢様の……君は……その……」
「クラウディアの友達です。商学校で一緒なんです」
「君、商学校の生徒なの!?」
応対してくれている店員さんの戸惑いも分からなくはない。年齢がなぁ、クラウディアともそれなりに離れているものなぁ。あと、俺が異例の最年少入学だし。それでも、その定員さんは少々お待ちを、と言って奥に引っ込んで行った。
「すまんが娘は……ん?」
「こんにちは!」
入れ替わりに現れたのはクラウディアではなくて、恰幅のいい中年のおじさんだった。クラウディアのお父さんか。強めの語気が、俺を見た途端にしぼむ。年頃の娘に同級生が訪ねてきたと思ったら……目の前にいるのは男児だもんな。元気に挨拶を返しておいた。
「ルカ・クリューガ―といいます」
「あ、ああ……ちょっと娘を呼んでくるから待っててくれるかな」
「はい!」
拍子抜けしたクラウディアのお父さんが呼びに行っている間、俺は店内を見渡した。様々な樽や瓶詰めや壺や麻袋なんかが所狭しと並んでいる。これ、全部食品なのかな。
「ルカ君、どうしたの?」
キョロキョロしていると、クラウディアがやって来た。アポ無しで着たからな。きっとびっくりしただろう。
「やあ。クラウディアにちょっと聞きたい事があって」
「私に? なあに?」
「実はさ……南のフォアムで手に入るっていう調味料を探しているんだ」
「調味料? それってどんなの?」
「それが……」
おそらく液体だとは思うが、どんな名前なのか色なのかちっともわからない。ヒントは屋台のおじさんがこっそり教えてくれた産地と味だけだ。クラウディアはそれを聞いて、難しい顔をして腕を組んだ。
「うーん、そうなると片っ端から試してみないとわからないわね」
「……やっぱりそうだよね」
クラウディアは瓶の並んだ棚まで俺を連れて行くと、さっき俺に応対してくれた店員さんを呼んだ。
「ロベルト。フォアム産の調味料ってどれかしら」
「それでしたら、この辺の品物ですね。あとはあの辺の樽の酢なんかも」
「多分あまり出回っていなくて、しょっぱい味のものなんです」
「では……」
ロベルトさんが棚の上の方からいくつかの瓶をトントンと陳列台に並べる。よく分かるな。この店の商品を全て把握しているのだろうか。そしてよくはしごもなくて背が届くな。ロベルトさんは父さんよりも背が高いかもしれない。
「フォアム産の品物だとこの辺なんだけど……とりあえず、これはどうです?」
「……まず匂いが違う」
その中の一つの蓋をポンと外して差し出された。中身はオイルっぽい、青臭い様な匂いがしたのでまずこれではないだろう。それから様々な商品を小さなスプーンに出して舐めてみたりした。
「なんか口が……ぴりぴりしてきた」
「ルカ君、お水飲んで」
クラウディアが水差しからカップに水を注いで渡してくれた。色んな調味料を試し過ぎて舌が馬鹿になってしまった。しかし……色々あるもんだな……。
「こんなに種類があるとは思わないかったよ」
「温暖なフォアムは、海もあるし作物もよく育つから食が豊かなのよ」
「へぇ……行ってみたいな」
「私も。学校を無事卒業したら買い付けに行ってみたいわ。ロベルト、連れて行ってくれるわよね」
「それは会頭に聞いてみませんと……」
ヘーレベルクの気候は穏やかとは言いがたい。山に囲まれて夏は暑く、冬の冷え込みは厳しい。それでも人が集まるのは、
「……お? おお?」
「ルカ君?」
「これだ!!」
水を飲んで一息ついた後に開けた瓶からは独特の発酵臭がする。中身は薄茶色い液体だった。ほんのちょっぴりなめて見ると……うん、この独特の旨味。やはり醤油に似ている。
「フィスヴァッサーね。魚を発酵させたものよ」
「魚醤ってことか……どうりで……。ね、これって高いですか!?」
俺は、興奮気味にロベルトさんに聞いた。
「この瓶一本で銀貨10枚ってところですね」
「うう……結構するんだね」
「癖が強くてあんまり売れないのよね……だからあまり仕入れていないの」
クラウディアが申し訳なさそうに言い添えた。俺のお小遣いで買える金額では無かった。ちょこちょこ使っちゃってるからな……。癖が強いってのはジャブジャブとソーズみたいに使ったらそりゃそうだろう。あの肉串屋さんみたいに火を通したり、隠し味みたいに使えば……。味自体は問題ないはずだ。あのお店は繁盛していたし。
「クラウディア、うちの宿の料理に試してみたいんだけど……一瓶じゃなくてちょこっとだけ分けて貰えないかな。銀貨一枚分だけ」
「あら、もし継続して買ってくれるならおまけするわよ」
「それじゃ悪いよ……。あ、そしたらこないだバザーで使っていたジャム。あれを買っていくよ。うちでも出そうと思うんだ」
結局押し問答をしながら、ジャムを一瓶と小瓶に詰め替えた魚醤を買い求めた。とりあえずのサンプルだ。朝食の追加メニューの候補と、魚醤の方は……リタさんに相談してみよう。
「ありがとう。これで色々試してみるよ」
「あら? もう帰っちゃうの? お茶くらい飲んで行ってよ」
「あ、うん」
「こっちよ。ロベルト、私の部屋までお茶を用意して貰える?」
「はい。お嬢様」
早速帰ろうとする俺を引き留めて、クラウディアがロベルトさんに声をかけた。ロベルトさんは目が合うとにっこりと微笑んだ。
「そう言えば、先程は失礼しました。お嬢様にこんな小さなお友達がいるなんて思わなかったものですから」
「あ、いえ」
「ロベルト、ルカ君は私の次に優秀なのよ。私の次に、ね!」
「お嬢様……お茶を用意してきますから部屋に戻って下さい」
階段を上った先のクラウディアの部屋はレースとフリルのついた赤いカーテンに、深い茶色の曲線的な意匠のキャビネットなどで女の子らしくも落ち着いた雰囲気の部屋だった。白い花瓶には淡いピンク色の冬薔薇が生けてある。
そんな部屋の一角にあるデスクには山のような本と、何かを書き付けた紙が積み上がっていた。
「ちょっとゴチャゴチャしていてごめんね、冬休みの間に復習をしようと思って」
「うへぇ……また成績を引き離されちゃう」
中央のテーブルの椅子を勧められてそこに座りながら、俺はため息をついた。勉強できる環境が違うや。それでもちゃんと努力をしなければ、あんなぶっちぎりの成績はとれないだろう。クラウディアは両親に一番の成績を取るのを条件に、商学校に通わせて貰っていると言っていた。
何がそこまで、彼女を駆り立てるんだろう。目端が利いて、クラウディアが利口なのは分かる。このディンケル商会を切り盛りするのに、そこまでがむしゃらになる必要って――本当にあるのだろうか。
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