一章 クリューガー一家の憂鬱
1話 Hello,異世界!
――――あたまが、おもたい。
――――――からだが、だるい。
「~~~~~~!! ~~~~!!」
――――だれかが、よんでる。
「~~~~……ルカ!!」
うっすらと目を開けると、金髪の女性が覆い被さるようにしてこちらを見つめている。青い目に、涙を浮かべて。
「目を覚ましたわ!!」
「……か……あ……さん」
「待ってて、今お父さんを呼んでくるからね!」
女性は喜びを滲ませて、部屋のドアから飛び出していった。
俺は誰も居なくなった部屋で天井を見つめる。白い壁紙の自宅の天井ではない。斜めの木でできた天井だ。俺の家じゃない。ここはどこだ。頭がぼんやりしている。
ぼくの家だ。ぼくの家の屋根裏の天井だ。
そうだ、夜半に急に熱を出して……そして……。
ドアの向こうから大きな声がして、部屋の扉が開いた。入ってきたのはさっきの金髪の女性と背の高く体格の良い茶色い髪の男性。それに幼稚園児くらいの少女。
「ルカ、大丈夫か? これを飲め。持てるか?」
男は木のカップに入った水を差し出す。俺は体を起こそうとするが、うまく力が入らない。 その男――……父さんが体を起こしてくれ、口元にカップを添えてくれた。ずいぶん喉が渇いていたみたいだ。一気に飲み干す。
「もう大丈夫みたいですね。念のため、あと一日は横になっていた方がいいでしょう」
いつの間に入ってきたのか、ローブ姿の10代半ばくらいの少年が俺の額に手をやって父さんと母さんに言った。
「ありがとうございます。お客様にこんな事をお願いしてしまって……」
「いいんですよ、ハンナさん。いつもお世話になっていますから」
少年は母さんにそう告げると、また俺に向き直る。
「坊や、熱は下がったけど無理しちゃだめだよ」
「あり……がとう」
俺が礼をいうと少し微笑んで、それではと部屋を出て行った。
「ルカ、食事はとれそう?」
「うん、大丈夫。……でも少し眠りたい」
「そうね、そうしなさい。あとでスープを持ってきますからね」
母さんが優しく俺の頭を撫でた。
「おにいちゃん、げんきになった?」
先ほどから父さんの足下にすがりついていた少女が俺に話しかける。
「ああ、大丈夫だよ。ソフィー、心配かけてごめんね」
「よかったぁ」
少女はにっこりと微笑んで俺にしがみついた。
「さ、兄さんはもう大丈夫だ。少し休ませてやれ」
父さんは妹を抱き上げると、俺の髪をクシャクシャとかき回した。
「大人しくしているんだぞ。さぁ皆行こう」
そう言って全員が部屋を出て行き、俺は再び一人になった。
*****
「…………」
部屋から人気がなくなったのを確認して、俺はガバっとベッドにうつぶせになり、さっきから押し殺していた混乱をさらけだした。
「んんんんん!? どういうことだ!? これは……」
俺は、先ほどまで残業でクタクタになりながら家路を急いでいたはずだ。なのに自宅のパイプベッドでなく、木製のベッドに寝ている。
疑問はそれだけじゃない。俺の父母はまっとうな千葉県民で、あんな金髪や茶色い髪の西洋人みたいな人たちじゃない。普通のどこにでもいる日本人だ。妹もいない。兄弟は弟がいるだけ。
なのに、しっかりとさっきの人たちを家族と認識していた。
自分の手のひらを見る。小さい。子供の手だ。30歳の男の手じゃない。そのままベッドを降りて木窓を開ける。外の光が部屋を照らす。
そして窓の外には、昔なにかの旅番組かで見たヨーロッパの古い町並みの様な景色が広がっていた。開け放った窓のむこうから、街の喧騒が聞こえてくる。
荷車の車輪が石畳を走る音、近所の奥さん連中と思われるおしゃべり、物売りの声。俺は窓から外を見渡した。一面の赤茶色い瓦屋根の家々、遠くに見える広場に教会の尖塔。
ベッドの横のサイドテーブルの上の洗面たらいに張った水をのぞき込む。そこにはさっきの男性によく似た茶色い巻き毛の少年が映っていた。
もうわかっている。
どういうわけか30歳日本人サラリーマンの俺、『川端 幸司』の記憶があるが、ぼくは『
――そして、ここは初心者からベテランまでの多くの冒険者の集まるダンジョン都市『ヘーレベルク』。その冒険者ギルドと商業地区のちょうど間くらいに位置する宿屋『金の星亭』だ。
俺は、『
「まいったな……」
一人そうつぶやく。俺が
もしかすると『ルカ・クリューガー』に俺が……取り憑いた?憑依したような形かもしれないが、この『ルカ』と『俺』が別個の人格、という感覚はない。
『ルカ』の意識が眠るなり、消滅したりしたのではなく地続きで存在している、とでも言おうか。こればかりは証明のしようがないし、自分の感覚を信じるしかない。
そんな訳で、改めて30歳日本人の感覚から周囲の状況を見ると、完全に日本ではない。もっとも、この世界の知識は6歳の少年の知識レベルなので、かなり曖昧とした部分も多い。が、一ついえるのはここが日本どころか地球のどこでも無いといえることだ。
この世界には地球にないものがある。
『魔法』、だ。
先ほどのローブ姿の少年はおそらく宿泊客の冒険者の一人だろう。何度か見たことがある。きっと俺に回復魔法をかけてくれたのだろう。
俺は一つ深呼吸をしてから、人差し指を立てて意識を集中するとつぶやいた。
「灯火」
小さな、ライターほどの火が指先に点る。地球でこれをやったら手品だと思われるだろう。だが俺はタネも仕掛けも用意していない。ただ『ルカ』のやっていたように火の生活魔法をやってみただけだ。
「なんで俺なんだよ。ふっつーの会社員だぞ」
思わず愚痴が出た。なぜなら『ルカ』の記憶として最後に思い出すのは、真夜中に両親が帳面と売り上げの貨幣を詰みあげて難しい顔をしている所だったからだ。
……ここは『金の星亭』。大層な名前だが、泊まり賃が安いのだけが売りの冴えない宿屋。そして両親はここの
「コンサルとか、ホテル学校卒とかさぁ……もっといいのは居なかったのか?」
残念ながら俺はただのサラリーマン。就職してこの方、営業畑一筋……といえば聞こえはいいが、本格的なマーケティングや経営のノウハウなんてロクに持っちゃいない。ビジネス本を斜め読みしたくらいだ。
でもきっとやるしかないんだろう。俺はさっきの家族達――父さん、母さん、妹のソフィーを思い浮かべた。6歳の頭ではどうやら両親が困っている、くらいしかわからなかったが、今ならこう判断できる。きっとこのままではこの宿は頭打ちだ。
持てる物は三十路の日本人男の知識と経験。それだけだ。
それだけだが、6歳の少年よりはきっと、まだなんとかする事はできるのではないか。
その時、開け放したままの窓から風が吹いて、俺の巻き毛をゆらした。
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