木星詣での夜

雨宮吾子

木星詣での夜

 幼い時分のことである。ある朝、ふと目覚めると枕元に母親が座っているのに気付いた。いつもなら寝坊しがちな私を、汗の染み込んだ布団から引き剥がすようにして叩き起こす母が、その日に限って私の顔をじっと見つめて起きるのを待っていたのだ。私は何かいけないことをしてしまったのかと思った。私がいたずらをしたり間違いを犯してしまったとき、母はいつも真剣な面持ちで叱ったものだから、自然とそういうふうに思ったのだ。しばらく見つめ合っているうちに、私は母の顔が好きだと思った。母の顔は特別に造形が美しいというわけではなかったのだが、それでも好きだと思えた。単純に好みだったのだ。

 起き抜けにそんな妙なことを考えていたのだが、その間も母はじっと私の顔を見つめていたから、私は自然に居住まいを正して神妙な表情を作らずにはいられなかった。頭を垂れた私に降りかかってきたものは、静かな笑い声だった。予想に反して母が笑うものだから、私はなおさら不安になって拳に力を込めたのだが、それが却って母の笑いを誘うらしく、しばらく妙な構図が続いた後、ようやく笑い尽くした母はこう言った。


「今日は早く帰ってくるんだよ」


 笑顔を浮かべたままでそう言った母は、私を食卓に促してから寝室を出て行った。私には何のことだかよく分からなかった。

 朝の食卓もまたいつもとは雰囲気が違っていた。普段なら私が学校へ出かけるまでずっと新聞を眺めている父親の姿がなかった。父は職人だった。そういうわけでその朝は母と二人きり、向かい合って朝食をとった。その頃はまだ当たり前のように家庭にテレビのあるような時代ではなく、ましてや私が生まれたのは山陰の田舎の方だったから、家の中は静かなものだった。ずっと昔に玉音放送を流したラジオは壊れていた。私は漬物のしゃりしゃりとした音を噛み締めながら、頭を徐々に駆動させていった。

 食事を終えるとすぐに小学校へ向かう。表玄関の引き戸を閉めて、今日は早めに出発するのでゆっくりと歩いていくことにした。畦道を通って電線を遡っていけば役場の方へ通じている。いつも役場の前で親友と待ち合わせて、一緒に学校へ向かう。ゆっくりと歩いてきたはずだったが、待ち合わせ場所に親友の姿はなかった。彼はいつも私より先に待っていたので妙に思ったが、五分待ち、十分待ったところで時報が鳴ったので、私は仕方なく一人で学校へと駆けていった。親友は風邪を引いて休んでいた。

 学校が引けると私は早足で帰路に就いた。いつもなら親友とあっちへ行ったりこっちへ行ったり、寄り道をしながら帰るので遅くなるのだが、今日は一人だから寄り道をするわけにはいかない。それでもいつもの調子でゆっくりと帰れば良かったのだが、今朝の母の一言がまだ耳の奥に木霊していて、この頃はまだ素直だった私は急いで帰宅したのだ。表玄関の引き戸を開けると、父が靴を磨いていた。普段は着るものにさえ気を払わない父が靴を磨いているので、私は思わず足を踏み入れるのをためらった。すると父がこれまた締まりのない表情をして、


「おかえり」


 と言った。職人気質の父がこんなに柔らかい顔をするのかと、驚いた記憶がある。けれどもその顔はすぐさま下を向いて靴磨きに戻ったので、それがどんな顔だったのかは具体的に覚えていない。その驚きだけが、脳裏に焼き付いている。

 家に上がると母が麦茶を出してくれた。母もまた、箪笥の奥に隠すようにして仕舞っておいた華やかな着物を、畳の上に広げていた。そうして私の薄汚れたランニングシャツを脱がせ、新品のポロシャツを用意してくれた。


「何があるの」


 私の質問はおそらく聞こえていたのだろうが、母は聞こえないふりをして台所の方へ行ってしまった。このとき、自分の身の内に抱える感情が恐れであることにはっきりと気付いた。

 父は殺され、母は嬲られた。それに近いことを、私は想像したのである。今この家にいる奴らは、きっと偽者だ。友人たちと比べて身体の小さかった私は、その小ささの分だけ大きな恐怖と向き合わなければならなかった。そして、結局のところ私にできることは何もなく、その恐怖の一種のはけ口として、寝室の柱にその日の日付を刻んだのだった。私自身が偽物にすり替えられたときのために何かの証拠を残すつもりでいたのだろうが、しかし誰に向けた符号なのかは分からなかった。




 その日の夕食はいつになく品数が多く、また食事の時間が早かった。父と母は気が焦るような様子で、のろのろとご飯を口に運ぶ私を急かした。食事を終えて後片付けを済ませると、私たちは薄っすらとした夜空の下、家の裏手の山の方へ向かったのである。

 私の心には不安が兆していた。あの粗末な平屋に、小さくてあちこちが消耗していて照明も決して明るくはない自宅に、これまでにない愛着を感じた。そうした心情が私の足取りに反映されて、両親の皮を被った彼らの気付くところとなった。彼らは脅すこともなだめることもせずに、二人して手を握ってきた。私は異なる質感の二つの手の暖かさに、心情とは裏腹に一種の安堵を感じたが、手を握られたことで逃げ出せなくなってしまったことへの不安の方がより強く湧き出してきた。私は全く混乱してしまった頭でこの先に何が待っているのかを考えた。行く手にはどんよりとした暗闇が広がるばかりで、父の皮を被った男の持つ灯りが頼りなげに闇を取り払っていた。きっとそこには奈落が待ち受けていて、私は地下工場に運ばれてしまうのだろう、そして皮を剥がれてしまい、残された肉は地獄の底へと落とされていくのだろう。突拍子のないようなことを考えているのは分かったが、何も考えないよりはましだった。

 ふと、母が口酸っぱく私に浴びせかけていた言葉を思い出した。夜になってから山に入ってはいけない、と。その教えを自ら破ろうとしているこの女は、最早、完全に母ではあり得ず、私が彼らに従う必要はないのだと思えた。しかし、たとえ逃げ出したところで既に山の奥深くまで入り込んできてしまっている現状では、一人で後戻りすることは不可能だった。理性でそう考える以前に、闇夜を一人で駆け抜けることへの恐怖がそこにはあった。

 どれくらい考え込んでいたのだろう、気付いたときには私たちはある開けた場所にたどり着いていた。その開けた土地の中で、ふらふらと光の玉が動いていた。光の玉はいくつかというのではなく、何十個もそこにふらふらと浮かんでいた。


「あれは……?」


 ひょっとすると、蛍だろうか。私は安心して脱力しかけた。しかし、彼らが短く、


「違う」


 とだけ言ったので、再び恐怖が巡ってきた。蛍でないとすれば、ひょっとすると、人魂だろうか?

 ちょうどそのとき、私のことを呼ぶ声がした。人魂の一つがこちらに近付いてくるのが分かった。恐怖する私はいよいよ逃げ出そうとしたのだけれども、彼らに背中を軽く押し出された。断崖から突き落とされたような不快な浮遊感がやってきて、そのまま地面に倒れこんだ。湿った地面から立ち上がろうとする私の手を何かが掴んだ。それは小さな、どこかで見覚えのある手だった。


「遅かったな」


 風邪で学校を休んでいたはずの親友だった。片方の手には頼りない光を放つカンテラが握られていた。


「どうして、ここに?」

「だって、あれを見にきたんだろう?」


 彼は、それが何のかははっきりと口にはしなかった。けれども、潮が引いていくように恐怖が去っていくのが分かった。その辺りに浮かんでいた人魂の一つ一つが、どこかからやって来た沢山の人々の持つ照明器具だった。

 助け起こされた私は親友と一緒に光も群れに近付いていった。後ろから付いてきた両親――紛れもなく本物であった――は、見知った顔を見つけて世間話を始めた。

 これは何の集まりなのだろう、そう思った矢先に歓声が上がった。闇の中の視線が一斉に天を仰ぐのが分かった。私はその集団の中に埋もれることを良しとして、そっと空を見上げた。

 最初はあまりに大きすぎてそこに何があるのか分からなかったが、少しずつ理解が追いついていった。どこからどこまでがそれなのか、宇宙の深淵との境目を無くした天体がそこに浮かんでいた。浮かんでいるというよりも今にも大地に衝突してきそうな、そう感じさせるほど大きく圧迫感のある天体だった。大きな瞳のような斑があって、そのためか何かしらの意志が存在しているかのようにも思われた。不思議と恐怖は生まれず、有り難いものをこの目で直に見ているのだという感覚があった。私は、私たちは、いつまでも飽きることなく夜空の天体を見上げていた……。




 それは、その木星詣での夜は、まるで夢のようにして過ぎ去っていった。後になって両親や親友にそのことを尋ねても、皆が皆、そんな記憶はないしそんなことがあるはずはないと言った。たしかにそれはその通りで、随分と長い間、私もそうした記憶を封印していた。

 その記憶が蘇ったのは、父の弔いのために実家に帰ってきたときのことだった。家族の寝室として使っていた部屋の柱に刻まれていた拙い文字が、私の記憶を揺さぶったのだ。私はその日付を手帳に記して、図書館でその日の出来事を調べた。すると、その日は地域一帯が台風に見舞われて木星を仰ぐことはおろか、外出もままならないような天候であったのだ。

私は頭をがつんと殴られたかのような気持ちになった。

 弔いの後、私は母と二人で夜食を共にした。相変わらず実家は静かで、あの頃と違ってテレビもラジオもきちんとあったが、母は食事のときはゆっくりと過ごしたいからと言った。


「ねえ、母さん」


 食事を終えて母にその日の出来事について訊こうと思ったが、私は言葉を切り出せずにしばらく母と見つめ合う形になった。すると母は、


「いつかの日を思い出すわ」


 と言って静かに笑った。母はできるだけ声を出さずに笑う人で、あのときもそのようにして笑っていたのだった。

 今度こそ問いかけようとしたそのとき、母は立ち上がって台所に入り、食器の後片付けを始めた。その小さくなった背中を見ていると、私の真実を突き止めようとする心が無粋であるように思われて、私は表玄関から出て夜空を見上げた。

 あの日のように、大きな天体がそこに浮かんでいた。たとえあの日の出来事が夢の中に起こったものであったとしても、思えばあれが、私の人生における一つの絶頂の瞬間であったのだろうと、私は思ったのだった。

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