第2章 新たな嘘
第0話 冷え切ったコート
昼食も食べ終え、僕は再び退屈していた。窓の外の景色は相も変わらず真っ白な雪景色で覆われている。誰かが来るわけでもなく、僕は白い病室の中で1時間、2時間と過ごした。今日は客が来ないとわかると、僕は無意識に本棚に手を伸ばした。
しかし自分の手は本を掴むかわりに空気と握手した。その後、バランスを崩してベッドから落ちてしまった。そうか、思ったより本棚まで距離があるんだっけ、とうわごとのように呟く。乱れた掛布団を直し、本を手に取って再びベッドに潜りこむ。
___「アポロ捏造説」。この本に特に深い思い入れがあるわけではない。ただ、“月”に関する知識が少しでも得られるなら、そうすべきだろうと思って手に取ったのだ。自分は月兎のフレンズ。他のフレンズとは少し事情が違うフレンズ。普段は夜行性だが、どうしても寝ることのできない理由がある。僕の生活周期は月に依存する。比喩でも何でもない。この体は月が出続けている限り、寝ることはできないのだ。今日は6時頃に目が覚めた。となると、“寝る時間”が訪れるのは夕方ごろだろう。これでは昼行性だ。
2,3ページ読み進めたところでドアをノックする音が聞こえる。今日は誰も来ないと思っていた分、来客は少し嬉しかった。
「入るよ。」
この声は僕の担当職員だ。僕は快諾し、本を閉じた。彼__山岡飼育員のする話は結構好きだ。でも、そうやって褒めていると彼は話を盛り過ぎる悪い癖がある。それでも僕はあの事件以来、そんな彼の性格に助けられているのかもしれない。
「やぁルナちゃん。調子はどうだい?」
「まぁまぁかな。そんなに悪くないよ。」
「今日は何時ごろに起きたんだい?」
「えっと…6時ごろかな?」
「随分早起きだね。僕なんか昨日の飲み会ではしゃぎすぎちゃってさ。気が付いたらお昼だったよ。」
僕は昨日の昼前に彼が飲み会があるからと言っていたのを思い出した。すごくテンションが高かった。もう既に酔っぱらっているんじゃないかってくらいだった。
「じゃあ、その“犬の付け耳”は、飲み会の時のものなの?」
僕が指摘したのは彼が恐らく昨日のまま付けっぱなしにしているであろう猫耳ならぬ犬耳だった。
「あれっ!?しまった!これ付けたままだったじゃん!」
「えぇ…気づいてなかったの?」
「う…確かに今日食堂でやたら注目されてるなーとは思ったけど…くそぅ……」
…そういえば。彼は起きてからすぐシャワーを浴びるのが日課だったような気がして、私は既に恥ずかしさで限界の彼にとどめを刺すことにした。
「…朝のシャワーはどうしたの?まさか……」
「…いわないでくれ。まさか付けっぱなしのまま髪を洗ったなんて言えない……」
僕は思わず吹き出してしまった。予想通りといえば予想通りなのだが、まさか本当に髪ごと洗うとは。彼は恥ずかしさに悶えながら犬耳のカチューシャを外した。
「ところで、どうしてそれを付けていたの?」
「そう!そうだ!聞いてくれよ!昨日佐久間の奴ったら…!」
それから彼は犬耳のカチューシャを付ける羽目になった経緯を話し始めた。
発端は山岡の同僚の“佐久間飼育員”が、「オカヤマさんって、なんか犬っぽいよな~!」と発言したところ、周りの職員たちもやけに納得し始め、仕舞いには近くの売店まで買いに行ったという。なにをしているんだ。そして酒の勢いでそのカチューシャを付けてみたところ、想像以上に似合っていたらしく、それからずっと付けっぱなしだという。
「職員さん達って…たまに変な行動力あるよね~」
「う…と、とにかく今日の分のカウンセリング始めるよっ!」
「はいはい。」
僕は笑いながら彼の質問に答えていく。自分は、こういう日常もありかもしれないと思った。彼がいるなら、退屈はしなそうだ。それでも、あのときの事件を忘れることはできなかった。僕の脳裏には常に“あの時の光景”が微かに浮かんでいる。
女王と名乗るセルリアンが襲撃して以来、私たちの以前の日常は大きく崩された。特にあのセルリアン__イーターは僕の心に深い傷を与えた。
多くの友人を失った。かけがえのない、大切な友達も。
ヤマドリが死んだ。それはわかる。わかっているけどそれよりも深く、濃い恐怖が心の奥底にあった。あの時の光景というのは、ヤマドリが僕を庇ってイーターに喰われた瞬間…ではなかった。自分でも不思議なくらいに、彼女の死は軽いものだった。
もう二度と彼女と話すことはできない。それも、わかっている。でも、どうしても彼女の死よりも強い不安、あるいは恐怖、あるいは焦りがあった。僕はそのことが頭から離れないので、思い切って彼に聞いてみた。
「僕、不思議と涙が出ないんだ。彼女が死んだっていうのに…確かに僕は悲しいはずなんだ…」
「それが、今の君の悩みかい?」
「今っていうか…多分、これからもずっと……」
「そうか…」
彼は柄にもなく悲しそうな顔をして考え込んでいる。そうなんだ。僕も悲しいはずなんだ。でも、それよりも強い感情にかき消されている気がする。
「初めてできた野生開放が、自身の想像を超えるもので尚且つ仲間も巻き込みかねない。」
彼は唐突に話し始める。
「もしかしたら、君が今心のどこかに引っ掛かっている恐怖は、これだろう?」
…いわれてみればそうかもしれない。自分は今まで野生開放が憧れだった。でも、何回やってもできなかった。なのに、あの時だけは成功した。何が原因で成功したのか、試すことすら恐ろしい。そのことを彼に話すと、少しだけ嬉しそうな顔をした。
「そんな能力を持ってることを知って、真っ先に“使っちゃだめだ。”と判断できた君は正しいよ。何も間違っちゃいないさ。」
「でも…ぼくは…」
「…君が責任を感じることはないよ。ヤマドリちゃんは、君に悲しんでほしくて君を庇ったわけじゃない。君に生きて欲しかったからじゃないかな。」
「無理して彼女の死を嘆く必要はないさ。君には同時に二つの悲劇がおきたんだから、脳が追い付かなくても仕方ないさ。」
「そういう…ものなのかな……」
「もしかして君はそのことで罪悪感を抱いていたりするかい?」
「……うん。」
「…そのことなんだけど、もしかしたら君の友人が解決してくれるかもしれない。」
「僕の友人?」
「あぁ、リーナちゃんがここの一階で君を呼んでたよ。」
リーナが?この寒い時期は彼女は動きたがらないはずだが…わざわざ会いに来てくれたのだろうか?
「今、行ってきてもいい?」
「あぁ、いってらっしゃい。元はといえば、僕はそれを伝えに来ただけだからね。」
私はコートを持って一階に向かった。
一階に降りると、緑色の服を着たリーナが椅子に座っていた。相変わらず寒そうな格好をしている。彼女もコートか何か来てくればいいのに、とリーナに近寄る。
「やぁ、リーナ。」
「…!ルナか…!?体の方は大丈夫か?」
「はは、僕の方は大丈夫だよ。それより、君こそ寒そうな格好をしてるじゃない。ほら、これ。」
僕はそう言ってコートを渡す。
「あはは…ありがとう。それより、ヤマドリのことなんだけど…」
「あぁ……うん…」
「彼女の担当…サクマさんだっけ?あの人にも一応挨拶はしてきたよ。」
「そう…」
「ねぇ、リーナ。」
「なに?」
「僕たち、このままでいいのかな。少なくとも自分は変わらなきゃいけないと思う…」
「あぁ…でも、私はもう無理かな…さすがに、ヤマドリがいないんじゃあ…」
「……ごめん。」
「どうしてルナが謝るんだよ?」
「僕のせいで…」
「…違う」
「僕なんか、いなければ…」
「違うッ!!!!」
リーナの大声が響き渡る。
僕はきょとんとしたまま彼女の次の言葉を待った。
「そこから先の発言は、私が許さないからな…!」
「でも…」
「でもじゃない! ルナ!本当にお前が必要なかったら!!そもそもヤマドリはお前を助けない!」
あ…と、僕は気づく。今の発言は、ヤマドリの恩を踏みにじるようなものだったことに気付く。ほんとうに、僕はなにをやっているんだろう?
会話に、変な間が空く。僕とリーナが喧嘩することは偶にあった。それをいっつもヤマドリが止めてくれて…だから今回も、というのが癖になっているのか。私とリーナは第三者の制止する声を待っていたが、それは訪れない。
永遠に。
途端に涙があふれてくる。ヤマドリはいない。もう帰ってこない。二度と会話することもできない。それを今、再び痛感した。
「リーナ。」
「どうした。」
気づけば彼女も泣いている。
「僕、やっぱり変わらなきゃだめだ。」
「このままだと、ヤマドリに合わせる顔がないよ…」
「でも…どうするんだ?」
「僕は…いえ、私は…」
「ルナ?」
「彼女がそうしたように、僕も、私も、困っているフレンズを助けたい。」
「だから、この口調は、この決意を忘れないためのもの。私の心の中にはいつだって、ヤマドリがいるもの。」
「そうか…」
「来月の初めの週に退院できるわ。」
「わかった。私も全力でサポートするよ。」
「ふふ、頼もしいわね。」
しかしリーナは、ルナが無茶をしそうなら全力で守らなきゃいけない。とも思った。リーナには、ルナの中にまだ大きな悩みがあるように思えた。
日が沈みかけた病院の一階で、リーナは渡されたコートを羽織って決意を固めた。
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